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ロベスピエール

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 髙山 裕二 、 出版 新潮選書
 フランス革命の闘士、そして恐怖政治を遂行した独裁者であったロベスピエールは、1758年に生まれ、1794年に処刑されて死亡した。
 「私は人民の一員である」と言い続けたロベスピエールは、元祖ポピュリストだった。ロベスピエールは、代表者(議員)の役割を重視し、彼らが一般的な利益を示すことで人民との透明な関係性をつくるべきだと考えた。
 同時代人から、ロベスピエールは、「清廉(せいれん)の人」、つまり腐敗していない人と呼ばれていた。ところが、ロベスピエールは、恐怖政治をすすめた「独裁者」として、ひどくイメージが悪い。
 ロベスピエールの父親も弁護士。というか、ロベスピエール家は300年前にさかのぼる法曹一家である。ロベスピエールは若くして父親を亡くしたものの、11歳のとき、成績優秀のための奨学金を得てパリの名門コレージュに入学した。ここでも成績優秀のためルイ16世に賛辞を捧げる代表にも選ばれている。
 ロベスピエールは、弁護士として活動しはじめた。ロベスピエールは、1789年、選挙人による投票で全国三部会に参加する代表の一人として選ばれた。議員総数は1200人。会場のヴェルサイユ宮殿に入るにしても、第一、第二身分は表口から、第三身分は裏口からという差別があった。
1789年7月14日、パリの民衆5万人がアンヴァリッド(傷病兵の慰安施設)に武器を求めて押しかけ、次に弾薬を求めてバスティーユ監獄に向かった。このとき監獄には、有価証券偽造犯の4人をふくむ7人しか「囚人」はいなかった。
人権宣言案は、二つの国民、つまり「能動市民」と「受動市民」という考えによって立っていた。「能動市民」とは、教養のある有産者であって、3日分の労賃に相当する直接税を支払う25歳以上の男性のみに選挙権があるとした。ロベスピエールは、これに反対した。
 1790年3月後半からの一時期、ロベスピエールは。ジャコバン・クラブの会長をつとめた。
 1791年6月、ルイ16世がパリを抜け出した。ヴァレンヌ事件と呼ばれる。フランス王が国外脱出を図った事実はフランス全土に知れ渡り、国王への信頼が大きく揺れた。
1791年5月、ロベスピエールは、議員の再選禁止法案を提案した。このときから、ロベスピエールは、「清廉の人」と呼ばれた。
 1792年4月、フランスはオーストリアに対して宣戦布告した。このとき、ロベスピエールは他の6名とともに反対票を投じた。
 革命は、人々を「陰謀」に駆り立て、対外戦争がそれを加速させた。ロベスピエールは、戦況悪化のスケープゴートとされた。
 1792年9月、国民公会議員を選出する選挙が実施された。投票権は21歳以上の男子に限られた。家内奉公人や無収入の人には与えられなかった。投票率は10%未満で、投票したのは70万人ほどでしかない。
1793年1月、ルイ16世を含む387人が死刑が宣告された。そして、死刑に執行猶予をつける案が投票に付され、賛成310票、反対380票で否決されて死刑が確定した。1月21日、ルイ16世はギロチンによって処刑された。
 1793年、ロベスピエールは一貫して私的所有権を擁護し、「財の平等」には否定的だった。それは「権利の平等」であって、その思想に共産主義思想の原型は認められない。
 1793年6月、国民公会は新憲法(1793年憲法)を採択した。
 1793年春から夏にかけて、フランスは全ヨーロッパとの全面戦争に突入した。春には、ベルギー戦線で、オーストリア軍に対する敗北とデュムリエ将軍との裏切りがあった。
 ロベスピエールより過激だったマラが7月13日に暗殺された。8月14日、国民公会は18歳から25歳までの独身男性全員を徴兵できる国家総動員令を発生した。
 1793年10月、国民公会が「革命政府」を宣言し、マリー・アントワネットやブリソ派指導者を処刑した背景には、国内外の混乱と鬱積(うっせき)する民衆の不満があった。
 9月5日、パリの民衆(サン・キュロット)が国民公会に押し寄せてきたとき、国内外の「革命の敵」が攻勢に出るなか、議会に対して「恐怖を日常に」と要求した。
 1793年3月、特別刑事裁判所(革命裁判所と呼ばれた)が設置された。これを主導したのは元法相のダントンだった。そして、ダントンも1994年4月に裁判にかけられ、3日後には死刑判決が確定して、即日処刑された。34歳だった。
 恐怖政治のなかで、30万人が逮捕され、1万7千人が処刑された。裁判によらない処刑をふくめると4万人はいるとみられている。
 貴族の処刑の割合が倍増した。革命の理想によるというより、増悪や復讐心によるもの。
ロベスピエールはこのころ、体調を崩して自宅で療養していた。精神的ストレスが加速して、心身ともに疲弊していたのだろう。
 1793年6月、全会一致で国民公会議長に選出されたロベスピエールが「最高存在の祭典」を主宰した。
 1793年3月から6月まで、死刑判決は1日3月から6月まで、死刑判決は1日3人だったのが、7月末までは1日28人に激増した。このなかで、恐怖政治に批判的な議員たちにとって、ロベスピエール一派は不安の根源であり、元凶はロベスピエールだった。
 1794年7月、ロベスピエールが久しぶりに国民公会に姿を見せ、演説した。ところが、以前のように熱狂的に受け入れられなかった。そして、ロベスピエールの逮捕が提案されると、なんと全会一致で逮捕が議決されたのでした。このとき、ロベスピエールが作ったという処刑予定者リストなるものがデッチ上げられ、今やらないと自分たちのほうが処刑されるぞと脅していた議員がいたのです。
 ロベスピエールは逮捕されるとき、顔面に銃弾が貫通して言葉を発することも出来ない状態になった。そして、裁判もなく、即日処刑された。
 ロベスピエールは、怪物ではなく、ごく普通の人だった。恐怖政治は、彼が創造したものではなく、危機的な状況に対する集団的な反応だった。自由や熱狂は、憎悪や恐怖と隣りあわせだった。フランス大革命のときの恐怖政治を考えさせられました。
(2024年11月刊。1750円+税)

漢字はこうして始まった。族徴の世界

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 落合 淳思 、 出版 ハヤカワ新書
 3000年以上前、中国最古の王朝「殷(いん)」で発明され、部族固有の徴章(シンボル)として青銅器に鋳(い)込まれた原初の漢字、「族徴」を紹介した新書です。
 かつて殷代の社会は氏族制だと考えられていた。実際の血縁で結ばれた集団が社会を構成していると考えられていた。しかし、近年の研究では、「氏族(クラン)」とは、必ずしも実際の血縁ではなく、仮想の祖先説話によって結合している集団だと考えられている。「同じ血筋である」という概念を共有する集団だと考えられている。その象徴のひとつとして族徴が用いられる。
 複数の血縁集団が仮想の祖先を共有して、氏族を形成したら、実際の血縁関係がないので、氏族の結束を強固にする必要がある。そこで、氏族を象徴する族徴が必要とされた。そのうえで、実際の血縁で結ばれた氏族にも族徴が普及したと考えられる。
 殷が滅亡したあと、殷系の諸族は文化を維持し、族徴を使い続けた。しかし、次の周の文化では族徴を使うことはなかった。その代わり、より大きな単位として、「姓」という社会組織を持った。姓は結婚に関わる組織であり、結婚は必ず異姓の間でなされ、同姓同士は結婚できなかった(同姓不婚の原則)。春秋戦国時代になると、族徴は使われなくなった。
 族徴は、家族(リネージ)よりも大きな単位である氏族(クラン)を表示する機能を有していた。
 族徴は青銅器だけでなく、印章(印鑑)にも使われた。族徴は漢字の一種であり、「徴」は「しるし」という意味のコトバ。
動物に由来する族徴がある。牛は貴重品だった。中国には黄河流域にも長江流域にも象が生息していた。黄河流域には虎も生息していて、人々に恐れられていた。
 殷王朝は戦車を主力兵器としていた。大諸侯は千台ほどの戦車を保有していた。
 皇帝は気前よくばらまくことが求められた。そして、この「ばらまき」に適した「威信財」として、宝貝が多用された。宝貝は、王のみが入手でき、王が与えるものだった。
青銅器に剛り込まれた古代文字を解読していくのも楽しそうですね…。
(2025年2月刊。1240円+税)

昭和天皇の敗北

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 小宮 京 、 出版 中公選書
 昭和天皇が、いったい何に敗北したというのか…。
 昭和天皇は、戦後、敗戦の責任をとって退位することもなく、日本国憲法ができて「象徴」となっても、最近、ちっとも首相が内奏に来ないが、どうしたことかと不満たらたらだった。
 つまり、戦後も、戦前と同じように内閣に対して助言、ひょっとしたら指導するつもりだったのです。それをしようとして、周囲が慌てて制止していた。これが天皇にとっての「敗北」ということのようです。
1946年1月25日、マッカーサーはアメリカ本国に対して、天皇制の存続が重要だと連絡した。日本を円滑に支配で運営するうえで、天皇制を利用したほうがよいと、マッカーサーは判断していたわけです。
 昭和天皇は皇室財産が国会の審議対象となったら、「その収支が白日にさらされるので、かなり窮屈になる」、このように苦笑したと記録されている。
 マッカーサーは、「会談」の場では、一方的にまくしたてるのが常態化していた。マッカーサーはいつも好き勝手に話す。一人でしゃべり続けるので、マッカーサーとの対話は成立しない。
マッカーサーは幣原(しではら)首相と会談(対談)したのではなく、一方的に命じただけのこと。つまり、9条は幣原の提起したものではなく、マッカーサーが発案したもの。なーるほど、恐らくそうなんでしょうね。
 昭和天皇は国民主権の明示に納得しなかった。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは事実ではない。むしろ実態に反する虚構に近い。
 昭和天皇は、自らの地位や主権に関する事項について、強い関心を抱いていた。
 昭和天皇は、天皇大権がある程度は制限されることは覚悟していたが、統治権をすべて放棄するところまでは想定していなかったと思われる。
 昭和天皇は、日本型の立憲君主制を模索した内大臣府案を高く評価していた。昭和天皇からすると、政府も内大臣府も臣下にすぎない。ところが、幣原首相や松本国務相は、昭和天皇の意向を無視した。
 昭和天皇は、キングの存在を大前提として、君主主権でも国民主権でもないものを希望すると明言した。これは「聖断神話」を真っ向から否定するもの。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは、幣原がつくり上げた物語にすぎない。
 GHQ側は、「天皇を軍法会議にかけることもできるし、証人に呼ぶこともできる」と言って、日本側を恫喝した。政府は、この恫喝に屈した。
 占領軍(GHQ)のサゼスチョン(示唆)に反対するのは、当時、きわめて困難だった。貴族院は、公職追放などによって恫喝されて、自発的に決定したという体裁をとらされて最終的に可決した。
 昭和天皇に対して、片山内閣が総辞職するときに、拝謁(はいえつ)したこと、芦田首相が内奏したことにマッカーサーは寛容だった。昭和天皇は、自らが主権者であることにこだわり、イギリスのキングと同じく元首であることを希望していた。
 そして、昭和天皇は、戦後も元首であり続けようとした。周囲(たとえば田島・宮内庁長官)が、新憲法のもとでは元首でないと釘を刺した。
 「将来変わるから、当面は辛抱してほしい」と言って昭和天皇をなだめた。
 昭和天皇は、与野党が拮抗し、政局が混乱したとき、政治的調停者としての役割を果たすつもりでいた。昭和天皇は、奨励や警告というレベルをこえて、戦後政治において自らが果たすべき役割を模索していた。
昭和天皇は、当時、「すべての新聞」に目を通していて、その動向を注視していた。
 田島宮内長官の書き残した『拝喝記』によって、昭和天皇が元首としての役割や権限にこだわり、その拡張を目ざしていたことが明らかになる。結局、GHQの圧倒的な権力によって国民主権が憲法に明記され、昭和天皇の希望は実現しなかった。すなわち、昭和天皇は「敗北した」。
 福岡県生まれ(1976年生)の著者による論旨明快な本で、頭がすっきりしました。すでに3版発行というのですから、これまたすごいですね。こんな硬い本でもテーマによっては読まれるわけです。
(2025年4月刊。2200円)

よみがえる美しい鳥

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 大川 真郎 、 出版 日本評論社
 いったい、この先どうなるんだろうと、手に汗を握る展開で始まる本です。そしていくつもの障害・困難を乗りこえ、ついに調印式にこぎつけます。このとき、恐る恐る出席した県知事までがついに感きわまって泣き出してしまいました。ところが、実は、その後も島の地下から次々に汚染物質が掘り出されるのです。いったい、どうするの、こんなに大量の汚染物質を…。
産業廃棄物ですから、悪臭がひどいだけでなく、猛毒です。それを安全に処理できるのか、処理したとして、その最終処分によって生成したものを全部島外に運び出せるのか、いったいそんな場所が日本にあるのか…。最後のところは、放射性廃棄物となんだか似ていますよね。でも、放射性廃棄物と違って、こちらはまだなんとかなりそうなのが救いです。
 豊かな島と書いて、「てしま」と読みます。瀬戸内海の小さな島です。香川県に属します。小豆島のそばにあり、近くにアートで有名な直島があります。私は映画「二十三の瞳」で有名な小豆島にも直島の美術館にも行ったことがありますが、この豊島には行っていません。今では、産業問題で有名になった島として年間4万人もの見学者があるそうです。
 かつては島の人口は3千人もいたのが、今では750人。高齢化が進み、住民運動のリーダーたちも多くは亡くなっている。
 この豊島に産業が運び込まれるようになったのは、1978年2月、香川県が「ミミズによる土壌改良可処分業」を許可したことから。ところが、「ミミズによる土壌改良というのは、まったくの嘘で、シュレッダーダスト、ラガーロープ、廃油、汚泥、廃酸、廃プラスチックなど、さまざまな有害産業廃棄物が次々に豊島に運び込まれた。しかも、大量の野焼きがあり、悪臭と煤煙が島全体を覆うようになった。
ついには海上保安庁そして兵庫県警が立ち入り捜査をするに至った。捜査を英断した兵庫県警の本部長は、あとで狙撃され、瀕死の重傷を負った、かの国松孝次警察長官でした。
結局、事業者らは、廃棄物処理法違反で逮捕され、起訴されて有罪となった(1991年7月)。
 香川県は、犯罪行為に加担していたわけですが、自らの非をまったく認めず、廃棄物の撤去にも動こうとしなかったのです。
 このとき、住民は、搬入された産業廃棄物は60万トンと推計した。しかし、最終的に撤去されたのは、汚染土壌1万3千トンを含めると91万トンを上回った。
 島民は住民会議を結成し、大坂の中坊公平弁護士に依頼した。このときの中坊弁護士と住民代表との会話が紹介されています。住民の代表(安岐正三氏)に向かって中坊弁護士は、こう言った。
 「わかった。ところであんた、金ないやろ、知恵ないやろ。あるのはなんや、命だけやないか。命は誰も一つ、平等や。あんた、もうそれしかないで。身体(からだ)張って下さい。約束できますか」
 私は個人的に中坊弁護士と話したことはありませんが、その講演は何回も聞きました。いつも、ものすごい迫力を感じました。この口調で中坊弁護士から迫られた住民は心底からびびってしまったことでしょう。
 この本の著者は中坊弁護士に「釣られて」弁護団の有力(主力)メンバーになったのでした。中坊弁護士の「人たらし」は有名でした。
 弁護団は、裁判ではなく、公調委(公害等調整委員会)を選択します。この公調委はもちろん東京にあるわけですが、さまざまな難局を経て、最終解決(調印式)するときは、なんと豊島に委員長がやってきて、豊島小学校体育館で開いたのです(2000年6月6日)。
ときの公調委の委員長は元東京高裁長官の川㟢元裁判官。真鍋知事も恐る恐る会場にやってきたが、用意した謝罪文を読み終えたあと、自分の言葉でその思いを語った。そして、会場から港まで、中坊弁護士と連れだって歩いていった。住民と弁護団も一緒に…。そしてこの状況をマスコミが撮影し、報道した。
一足飛びに終結した様子を紹介しましたが、それに至るまで、公調委は何回も決裂寸前になったのでした。肝心なことは、豊島に搬入され埋められた産業廃棄物がどれほどのものなのか、科学的に調査すること、その費用を誰が負担するか、です。3億円近くもかかります。しかし、ついに国が決断しました。
 それまで、住民は、香川県庁前で半年間にわたり、立って抗議しました。銀座で廃棄物を陳列しても訴えました(1996年9月20日)。住民大会には500人が参加。ところが、地元選出の県会議員が住民運動について、弁護団が主導する「根無し草の運動」だと攻撃したのです。
 そこで、住民は「草の根」運動を展開しました。それは、ついに39歳の若い住民代表を県会議員に当選させるに至ったのです。
 産業廃棄物は隣の直島につくられた処理施設で処理されることになりました。
 著者たち弁護団のすごいのは、公調委での最終解決のあとも弁護団を解散することなく、住民とともに最後まで関わっていることです。大変元気の出る本でもありました。いつも著書を送っていただき、ありがとうございます。引き続きの健筆を大いに期待しています。
(2025年6月刊。2600円+税)

京都・花街はこの世の地獄

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 桐貴 清羽 ・ 宮本ぐみ 、 出版 竹書房
 元舞妓が語る、古都の闇というサブタイトルのついたマンガ本です。私も昔に一度だけ舞妓(まいこ)さんの踊りを見学したことがあります。よく覚えていませんが、弁護士グループによる見学コースの1コマでした。私は、どうも「一見(いちげん)さん、お断わり」というのが好きになれません。
 舞妓と芸妓(げいこ)の違いを今回はじめて認識しました。
舞妓は、芸妓になるまでの修業期間にある女性。芸妓がプロで、舞妓はその手前のセミプロ。だいたい15歳から20歳までの女性。芸妓になるためには、舞踊などの芸事をしっかり身につけることが必要。
 もちろん、舞妓にもすぐになれるわけではない。仕込み期間が1年、そして1ヶ月間の見習いを要する。
 舞妓は未成年だけど、客が勧めるお酒を断れるわけにはいかない。舞妓が酔いつぶれても救急車を呼んではいけない。
 お座敷に出ると、そこは客からのセクハラの温床。舞妓は、性的な行動については分からないはずなので、客の下ネタに反応してはいけない。「キョトン」とした態度でやり過ごす。そして、胸や尻を触られても、ひたすら堪えるしかない。
 舞妓は置屋で居場所をなくしたら生きていけない。だから、おかあさんとお姉さんには逆らえない。舞妓が客からもらった御祝儀は、そのままおかあさんに回収される。
舞妓は、コンビニやファーストフードの店に入るのは禁止。ケータイを持つのもダメ。カフェには客と一緒なら入っていい。舞妓は、あくまで「お人形さん」だから。非番のときに出かける私服にも制約がある。
お風呂は昼間に入る。だけど、「5分間厳守」。なので、湯舟には入らず、シャワーが基本。
 髪は2週間に1度、髪結いさんに結ってもらう。髪の毛の油はシャンプーだけでは落ちないから、食器用洗剤を使う。ええっ、そ、そうなんですか…。におい隠しのため、お香をたいておく。芸妓のほうはかつらなので、頭髪の悪臭とは無縁。
 舞妓が客と距離を置くのは、においをさとられないようにするための配慮。いやはや、なんということでしょう…。
花街の実際がこんな世界だとは知りませんでした。知っていたら舞妓になる若い女性なんかいないでしょうね。
(2025年2月刊。1430円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

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