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軍人像と戦争

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 安島 太佳由 、 出版 安島写真事務所
 愛知県知多半島の南端にある中之院に、人知れず、ひっそりと佇(たたず)む軍人像の群れがある。軍人像は全部で92体。台座つきの全身像のものが22体、台座のない胸像70体。一体一体は、とても精巧に造られていて、体格や表情まで兵士一人ひとりの生き写しであるかのよう。
 たしかに写真で見る軍人像は青年らしい若々しさまで感じられ、今にも歩き出しそう、いえ、少なくとも、何か言わずにはおれないという内に秘めたものを強く感じさせます。
 長い年月、野ざらし状態にあった、これらの像は、風化が激しく、苔(こけ)むしてもいます。これほど大量の軍人像を、いったい、誰が、何のためにつくったのか…。
 1937(昭和12)年8月、日本軍は上海上陸作戦を強行した。対する中国軍を軟弱とみて、敵前上陸を敢行したのだ。これには、満州建国の実態を探るために派遣された国際連盟のリットン調査団の動向から国際世論のホコ先をそらす目的があったと解されています。
 しかし、日本軍が敵とした中国軍は蒋介石の誇る精鋭部隊であり、ドイツ軍将校たちによって督励・強化されていた。日本軍は敵である中国軍の実力をあまりに過小評価していた。
  ドイツ軍の支援を受けた中国軍は、強力なトーチカを構築し、要塞化した強固な防御陣地を築いて日本軍を待ち構えていた。名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちは上陸作戦を始めて、半月足らずで全滅してしまった。
 中国軍の戦力を軽く見ていた日本軍の戦法は、銃剣突撃、そして手榴弾のみの肉戦戦。中国軍の陣地にたどり着く前に、中国軍の機関銃攻撃によって、1万人もの将兵が無惨にも死んでいった。
遺族たちが、「戦没者一時金」をもとにして、亡くなった兵士の写真をもとにして像をつくらせ、像を建立したのです。
当初は名古屋市千種区月ヶ丘の大日時境内にあった軍人像は、日本敗戦後も、アメリカ軍の取り壊し命令に抗した僧侶のおかげで守られて残り、平成7年に現在地へ移設された。
青年兵士たちの顔は、あくまで凛凛(りり)しいのです。思わず手をあわせたくなります。若くて無為に死んでいった無念さを今の私たちに必死で訴えているとしか思えません。
靖国神社へ行ったとき、亡くなった兵士たちの無念さを私は感じることができませんでした。そこではお国のためによくぞ命を投げ出して戦ったと忠勇を最大限に鼓舞するような感じで、いささか違和感がありました。
 無念の思いで死んでいったであろう若き兵士たちを偲びながらも、戦争とは、なんと理不尽なものなのか、その無念さがひしひしと伝わってくる見事な写真集です。あなたもどうぞ手にとってご覧ください。全国の図書館に常備してほしい写真集です。
(2023年7月刊。1200円)

日本人の心を旅する

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 ジュヌヴィエーヴ 、 出版 エルヌフ書肆侃侃房
 あるフランス女性の眺めた日本と日本人、というのがサブタイトルです。「日本と日本人は、すばらしい芸術品である」
 こんなふうに言われると、日本って、そんな評価もできるのかなあ、と半信半疑になってしまいます。
信長は、明智光秀に裏切られたあげく戦に敗れ、切腹を余儀なくされたと書かれているのを読むと、なんだか違うみたいなんだけれど…と、つい思ってしまいました。
でも、フランス人女性からみると、日本人もいいところがあるようなんです。そこは、素直に受けとめようと思いました。
 日本語には自然をあらわす擬声語が数多くある。シンシンと夜が更ける。シトシトと雨が降る。メラメラと火が燃える。ビュービューと風が吹く。ポカポカと陽が暖かい。スクスクと本が育つ。ショボショボと降る雨にビチャビチャに濡れ、ボチャボチャの道をトボトボと歩く。
アインシュタインは2人の息子に宛てて、日本滞在の終わりに手紙を書いた。
 「日本人がとても気に入った。静かで、慎み深く、頭が良く、芸術に眼があり、そして思いやりがあり、何事をやるにも体裁のためでなく、むしろあらゆることを本質のためにやる」
 これが日本人へのお世辞ではないというのは、なるほど画期的です。
 日本茶も高く評価されています。日本独特の抹茶をつくるには、新芽をつみとる20日ほど前に、ワラやアシや布でつくった覆りの下に入れて太陽光から保護し、苦さの基になるカテキンの割合を減らし、テアニンの割合を増やす。
 私の法律事務所では、エアコンのきいた室内で、熱々のお茶を出しています。いかにも美味しそうな深緑ですし、一口飲むと、お客さんの顔が変わります。皆さん、笑顔になって、このお茶は美味しいですねと言ってくれます。お茶を手にとらない人、飲んでも黙っている人は、それほど抱えている心の闇、悩みが深いということなんです…。
 長くフランスに住んでいる内田謙二氏による翻案という本です。私のフランス語勉強仲間の井本元義氏より贈与していただきました。ありがとうございます。
(2023年7月刊。1600円+税)

7歳の僕の留学体験記

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 大橋 遼太郎 、 出版 日本僑報社
 ええっ、7歳で留学なんかするの…。いま大学生の著者が、小学2年生のとき、母親の中国留学にあわせて中国の学校に通うことになった。嫌だ。僕は行かない。中国へなんか行かない。絶対に行かない。意地でも行かない。誰が何と言おうと行かない。柱にしがみついてでも行かない。と言って抵抗したわけなんですが…。
 中国は母親の生まれ故郷で、8歳までくらしていたところ。ところが、何がどうなってこうなったのか、自分でも今でもよく分からないうちに僕は中国へ行くことになった。恐らく、中国でおもちゃをいっぱい買ってあげるとか、母親の美辞麗句にまんまと乗せられてしまったのだろう。
中国では、コトバが分からないので、小学2年生ではなく、もう一度1年生になった。そして、日本人の名前ではなく、中国名を名乗る。だから、級友たちは日本人と分からない。
 学校の授業は午前8時から始まる。しかし、その前7時半から「自主学習の時間」があり、実は「強制学習」。算数だけは分かった。でも日本のようにBか2Bではなく、中国ではHか2H。そして、採点するとき、中国では正解は「〇」(マル)ではなく、「✓」(チェック)をつける。
著者は日本で折り紙を習っていたので、中国でも同じように折り紙をつくったら、たちまち注目された。「折り紙外交」の成果だ。
 中国では、字の汚(きたな)い人は1点減点。隣の子が「当たり前だよ。字が汚いと、いい仕事に就(つ)けないんだよ」と解説してくれたので、渋々、納得した。
 昼食休憩は1時間半もある。家に帰ったり、レストランや食堂で食べてもいい。著者は配達弁当を食べた。家に帰った3人を除いて、残る42人は学校で配達弁当を食べる。2ヶ月に1度は、「水餃子」のみ。他に、ご飯やおかずはまったくない。それでも、美味しいので文句はない。
中国では、大手塾会社が小学校と提携して放課後の空き教室などを使って塾を開いている。ともかく、そのレパートリーの広さには呆れます。文章読解、作文、算数、数学オリンピック、英会話、ニュートン物理、児童画、漫画、水彩画、演劇、話し方、エアロビクス、ストリートダンス、サッカー、バスケットボール、将棋、マジック、ギター、バイオリン、二胡…。
 著者は硬筆とペーパー工作を申し込んだ。学校が塾に大変身。放課後から夜の7時ころまである。
 中国の子どもはよく勉強する。実は、よく勉強させられている。
国語の授業のとき、タイトルは「小英雄」。日本軍が村に迫ってきた。少年が村への案内を頼まれた…。残虐な日本軍に抗する中国人の戦いを日本人の子どもが受けとめきれないのも当然です。
 中国は2学期制。前期は9月から春節(中国の正月、1月中旬)休み前まで。後期は春節休み明けから6月末まで。
 著者は3年生の前期で中国の小学校を終わって日本に戻りました。
 中国での最後に、みんなで集合写真をとり、また、プレゼントを交換しあった。
小学校のころまでなんでしょうか、語学を少しの苦労はしてもなんとか身につけることができるのは…。うらやましい限りです。私なんか、40年以上もフランス語を勉強しているのに、今もって、スラスラ話すことなんて出来ません。恥ずかしい限りです。それでも、ボケ防止のつもりで、毎朝、せっせと書き取りしています。
 面白い本でした。子ども(小学校)にとっての中国生活の苦労が実感できました。
(2023年3月刊。1600円+税)

ヒトラー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ハンス・ウルリヒ・ターマー 、 出版 法政大学出版局
 アドルフ・ヒトラーは、人生の最初の30年間を、社会の片隅で無名の人間として過ごし、自伝における自己賛美とは逆に、職業教育や市民教育にほとんど真面目に取り組まなかった。ヒトラーは「目的のない生活」を過ごしていた。
 実際に政治的な「修業」をせずに、あれほど短期間のうちに大衆の指導者にのぼりつめた者はめったにいない。ヒトラーは準備がないまま突如としてドイツ帝国の首相となり、ごく短期間のうちに、並外れた個人的な権力まで拡大することができた者もまれだ。
 歴史によってヒトラーがつくられ、ついでヒトラーが歴史をつくった。
 ヒトラーは、思いやりと愛情に満ちた母親よりも、暴君的な父親からより多くの性格を受け継いだようだ。母親のあふれんばかりの愛情と寛大さが、若いヒトラーの、自分を過大評価し、無駄な努力はしない傾向を助長したように思われる。
 ヒトラーの幼少期で確実なのは、学業不振。数学と博物学では「不可」をとった。教師は、ヒトラーを「なまけ者」と判断した。地理と歴史も「可」だった。ヒトラーは、16歳で学校とおさらばし、それを喜んだ。
 ヒトラーはウィーンの芸術アカデミーには「デッサン不可、学力不足」と評価され、入学できなかった。オーストリアで徴兵検査を受けると、「不適格、身体虚弱」と判定された。
 ヒトラーは、バイエルン軍に志願し、兵役に就いた。ヒトラーは陸軍1等兵に昇進したが、伍長への昇格は断った。そして、伝令兵として行動した。
 1920年3月に除隊したヒトラーは、職業政治家となり、集会で演説するようになった。ヒトラーは、演説のテクニックに磨きをかけ、劇的に語った。聴衆の気分を感じとり、それをあおるかのように、初めは落ち着いて控え目な口調で、それから徐々に高揚し、ときに半狂乱になるほど聴衆の心をつかんだ。
 ヒトラーの演説は演劇のようで、身振・手振りや表情が発声と合ったとき、聴衆に向かってこれまで以上に激しく言葉をたたきつけるとき、声と身体は一体となって話に独特の効果を与えた。ヒトラーの仰々しいパフォーマンスと演説の政治的な内容は深く結びついて、互いに補いあった。その演説の力は、ヒトラーのカリスマ性を確立した。客席の前に、ヒトラーは嘘と欺瞞の世界をつくり出した。
 煽動家ヒトラーにとって、効果だけが重要だった。平和を愛する政治家とすら自己演出して納得させ、現在の悪に対する解決策を示し、漠然とした約束にすぎないが、よりよい未来を人々に期待させた。
ミュンヘンの社交界にデビューするとき、ヒトラーは、信じられないことに恥ずかしがり屋で、控え目な人物だった。おずおずと遠慮がちに肘掛け椅子にすわった。
 こんな描写を読むと、チャップリンの乞食紳士を連想させます。
ヒトラーには声の魔力と情熱があり、その振る舞いは素朴な印象を与え、教養ある社交界を魅了した。周囲はヒトラーを天才とみなし、反ブルジョア的な性格を称賛した。ヒトラーは猫をかぶっていたのでしょうね。
 1923年、ナチス党員は短期間のうちに10倍にふくれあがり、5万5000人を超えた。党員は、中産階級の人々が多かった。他の階級に属する人々も、ナチスの過激なプロパガンダや枚済のレトリックに心が動かされた。初期のナチス党の3分の1は労働者だった。
ヒトラーは1924年、9ヶ月間の収監生活を送ったが、それはホテルに滞在したようなものだった。35歳の誕生日を刑務所で迎えたヒトラーの前に、贈り物や花が山のように積み上がった。
ヒトラーは時流を読むのが得意だった。刑務所で執筆した『わが闘争』はつぎはぎだらけのお粗末な作品。この本は1925年7月に第一巻、翌26年12月に第二巻を刊行した。それほど売れなかったが、1930年の普及版は1932年に9万部も売れた。そして、翌33年末には100万部の大台をこえた。
 ヒトラーの憎悪は、国際主義、平和主義、民主主義に向けられた。この三つの仮想敵は、いずれも、マルクス主義とボルシェヴィズムへの挑戦と結びついていた。
 自信があって経験も豊富で、ヒトラーの上辺(うわべ)だけの魅力を見抜くような同年代の女性とは、明らかにうまくいきそうもなかった。
 ヒトラーは欺瞞の名手であり、大勢の聴衆の前での議論は避けた。質問に対して答弁しなければならないときには、のらりくらりとかわした。
ナチス党内の権力ゲームにおいては、互いに競いあわせて漁夫の利を得、忠実な取り巻きをつくろうとした。1931年末のナチス党員は80万人になった。
 「指導者は、まちがえてはならなかった」
 1932年のころ、総選挙でナチス党は200万票も失い、党の金庫は空(カラ)っぽ、だった。
 ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名したとき、ヒトラーはすぐに「お払い箱」になるだろう、多くの人がそう考えていた。このとき、ヒトラーは、まじめな政治家という印象を与え、不信感をもつヒンデンブルク大統領に取り入るべく、全力を尽くした…。
 ヒトラーの任命は、形式的には合法に見えても、憲法の精神に大きく反していた。1933年1月30日、ヒトラーは独帝国首相に就任した。
1934年4月までに数百人のユダヤ人大学教員、4000人ものユダヤ人弁護士、300人の医師、2000人の公務員が退職していった。
「本が燃やされるところでは、最後には、人間も燃やされる」
これはハインリヒ・ハイネのコトバ。まったく、そのとおりですよね。
ヒトラーの生い立ち、権力を握る過程でのエピソードなど、ヒトラーの真実に迫る本だと思いました。一読を、おすすめします。
(2023年4月刊。3800円+税)

硫黄島に眠る戦没者

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 栗原 俊雄 、 出版 岩波書店
 クリント・イーストウッドの映画二部作で改めてスポットライトがあたった硫黄島の戦いで、日本軍兵士2万1千人のうち、2万人が亡くなり、生き残ったのは1千人あまり。そして、今なお1万人もの遺骨が回収されないまま硫黄島に眠っている。国は、本格的な回収事業をしてこなかったし、今もしようとしていない。
驚くべきことに、遺骨回収作業を細々としているのは遺族であり、ボランティアの人々であって、国の事業ではないというのです。そして、回収された遺骨のDNA鑑定にも、国はまったく乗り気ではありません。
 「戦争国家」アメリカは、そこが決定的に違います。アメリカは朝鮮戦争で亡くなった兵士の遺骨の回収のためには、「冷戦」状態の北朝鮮であっても粘り強く回収作業をすすめてきました。この点は、アメリカのすごいところだと認めなければいけません。
 硫黄島の戦闘が始まったのは1945年2月、そして1ヶ月あまりの日本軍の死闘も、ついに3月には終結した。まったく補給がなく、水もないなかで、地下にたてこもって戦った日本軍将兵の苦しみは想像を絶するものがあります。二部作の映画をみましたので、その苦闘をいくらか想像できますが、もちろん、ごくごく断片的なものでしかありません。
 この本には、柳川市昭代の近藤龍雄という硫黄島で亡くなった兵士の家族(遺族)が登場します。私の知人の甲斐悟さん(元大川市議)も父親を硫黄島で亡くしています。
 近藤さんは、1944年6月に久留米で編成された陸軍混成第二旅団中迫撃砲第二大隊に所属し、7月10日に横浜港を出港して7月14日に硫黄島に到着しています。
 硫黄島は戦後、アメリカ軍が戦術核基地として核兵器を常備していた。ソ連が日本に侵攻したとき、この戦術核をアメリカ軍は使用するつもりだった。原潜に核ミサイルが搭載できるようになったので、1966年までに硫黄島の戦術核は撤去された。現在、硫黄島には自衛隊の基地がある。
日本の右翼的な人々は靖国神社については熱心ですが、1万人もの遺体(遺骨)が硫黄島に今なお眠っていて、日本政府がまったく遺体の回収に熱心でないことを何ら問題としていないようですが、不思議でなりません。神社に祭るより前に、可能なかぎり遺骨を回収することは当然だと私も思います。地下の坑道に今なおたくさんの遺骨が放置されているというのを、あなたは当然だと思いますか…。「戦前」が近づいていると言われている今、1万体もの遺骨が硫黄島に放置されているのを許していいとはまったく思えません。
(2023年3月刊。2200円+税)

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