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昔、革命的だったお父さんたちへ

カテゴリー:未分類

著者:林 信吾、出版社:平凡社新書
 団塊世代の登場と終焉、そんなサブタイトルがついていることもあって、読まずにはおれませんでした。
 団塊世代は、会社人間の最後の世代である。彼らの多くは下の世代から嫌われた。部下を持つ身になって、どうもコミュニケーションがうまくとれない。建設的な議論ができない。キャッチコピーを連呼するだけの無内容なオヤジに過ぎない。みんなで一斉に動かねば気がすまず、反対意見には耳を貸さない。
 団塊世代はバブル景気の主役とは言えない。単に巨大なマーケッティング・ターゲットとして踊らされただけ。しかし、地上げ、土地転がしでもうけたカネを、株式市場でさらに転がすという狂気の経済活動の現場を駆けまわったのも団塊世代だった。団塊世代なくしてバブル景気はありえなかった。
 うーむ、なかなか鋭い。胸にグサリと来る指摘が次々にくり出されてきます。
 団塊世代には無党派層の比率が高い。議論好きで、かつては革命的であったはずの団塊世代が、実は政治的無関心を蔓延させ、それが社会的な閉塞感をもたらした。
 この本によると、それでも団塊世代は戦後日本の政治を2度だけは流れを大きく変えるのに貢献したといいます。1度目は1975年の田中角栄の退陣です。私が弁護士になった年、たまたま東京地域あたりをウロウロしていると、田中角栄がさっき逮捕されたという知らせが霞ヶ関をかけめぐっていました。角栄逮捕に同行した検察官は、私の横浜での実務修習のときの指導教官でした。今の小泉首相と同じように、マスコミは角栄を天まで高くもち上げたのですが・・・。
 2度目は、1993年の細川内閣の誕生です。非自民の8党派連立内閣に対して71%の支持率が集まりました。しかし、お殿さまが無様に政権を投げ出したあと、自民党が巻き返すと、団塊世代の多くは沈黙を決めこんでしまった。
 うーむ、なるほど、そうも言えるのかー・・・。団塊世代が学生時代と違って、ちっとも政治的な発言をしないことは事実ですよね。ともかく議員が少ない。もちろん議員になっている人はいます。しかし、こんな人が議員になっていいのかしらん、と思うような人ばっかりのような気がします。少し骨があると思った議員は、早々に自殺してしまいました。
 あれだけ政治を議論し、社会の変革を語っていたのに、政治の表舞台にあがった人の少なさは奇妙な感じがしてなりません。この点はヨーロッパともかなり様子が違うようです。フランスやドイツでは、あのころ街頭で名をはせた学生指導者が政治のリーダーに大勢なっていると聞きます。どうして日本はそうならなかったのでしょうか・・・。
 この本は、最後に団塊世代に呼びかけています。いよいよ定年退職を間近にして、自分の年金がどうなるのだけを心配している団塊世代に対する熱烈なアピール、そう思ってしばし耳を傾けてください。
 あなたたちが求めるべきは、年金の保証ではなく、60歳を過ぎてからも働いて社会に貢献できる環境であり、労働に対する正しい対価であるはずだ。
 そしてなにより、より若い世代が、やりがいのある仕事に就くことができ、子どもの可能性に対しては平等な機会が与えられるような社会であるはずだ。
 戦争と差別に反対し、一度は命がけの覚悟で立ち上がったではないか。その問題提起は、ある意味で正しかったことが、今まさに証明されているのではないか。
 あなたたちの子どもの世代は、勝ち組、負け組などと選別されようとしている。かつて疎外からの解放を叫んでいた身として、こうした言葉を聞いてなんとも思わないのか。
 かつてベトナムの子どもたちを殺す戦争には荷担できないと叫び、授業をぶちこわしたのに、今や自衛隊はイラクにまで行っている。若い世代の日本人が、大義なき戦争に駆り出され、砂漠で無意味に殺されるかも知れず、国家の命によってどこかの子どもを殺すかもしれないのだ。これを黙って見過ごすのか。
 団塊の世代は、このまま消えていくべきではない。もう一度、立ち上がるのだ。必要なのは、次世代のため、連帯を求めて孤立を恐れないこと。そうすると、下の世代も、必ずや後に続くだろう。
 久しぶりによくできたアジテーションを聞く思いでした。ここで指摘されているとおりだと団塊世代の一人として思います。私もあきらめることなく、もうひとがんばりするつもりです。私の親しい知人が1968年の東大闘争と学生セツルメントを長編小説にまとめ、近く本として発刊することになりました(「清冽の炎」、花伝社)。
 どうせ、そんな本、誰も読みやしないよ。いや、団塊世代は人生の総括時期にきているから、きっと読むはずだ。このように相反する2つの意見があります。いったい団塊世代は1968年ころ、どう生き、どんな青臭い議論をしていたのか。記録にもとづいて刻明に再現したノンフィクション風の小説です。ぜひ、あなたも読んでみて下さい。

殴り合う貴族たち

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著者:繁田信一、出版社:柏書房
 平安朝裏源氏物語というサブタイトルがついていますが、まさしく貴族に対する従来のイメージを一変させてしまう本でした。
 あの藤原道長が23歳のときのことです。権中納言(ごんのちゅうなごん)であった彼が宮中の官人採用試験の試験管(式部少輔、しきぶのしょう)を拉致して道長の邸宅まで歩かせたというのです。その目的は、試験結果に手心を加えるよう圧力をかけようということでした。また、48歳のとき、左大臣になっていた道長が2人の貴族を自邸の小屋に監禁しました。道長の妻の外出の準備を手際よくすすめることができなかったという理由からです。なんということでしょう。
 また、道長のオイの子(経輔)が天皇(後一条)の御前で殿中(紫宸殿)において取っ組み合いのケンカをはじめたというのです。お互いに相手の頭髪(もとどり)をつかんで、格闘したというのですから驚きです。でも、経輔が19歳だったというのを知れば、さもありなんと納得してしまいます。昔も今も、若者はとかく暴走しがちなのです。
 同じく道長の別のオイ(兼隆)は自分の従者を殴り殺してしまいました。そして、その子の兼房は宮中において蔵人頭(くろうどのとう)を追いかけまわし、さらには宮中で仏事の最中に少納言に対して一方的な暴行を働いたり、宮内少輔(くないのしょう)に集団リンチを加えたのです。
 すさまじい話が当時の「少右記」などの貴族の日誌に記録されています。ちっとも知りませんでした。この本によると、王朝時代に暴力沙汰を起こした貴公子は中関白道隆や粟田関白道兼の息子たちや孫たちばかりではなかったというのです。
 彼らは氷山の一角にすぎない。暴力事件につながるような不品行は、王朝時代の貴公子たちのあいだに蔓延していた。
 道長が成人してからは、その子どもたちが数々の不祥事を繰り返しています。道長の子(三位中将藤原能信・よしのぶ)は20歳のとき、僧侶の娘に対する強姦に手を貸そうとしています。その前、19歳のとき、衆人環境のなかで大路のまっただなかで貴族たちに暴行を加えてもいるのです。道長の息子たちは何度も暴力事件を起こしておきながら、けっして自分自身の手は汚さず、つねにすべてを従者たちにやらせていました。
 王朝時代の貴族社会においては、債権の回収に暴力が用いられるのは、それほど珍しいことではなかった。むしろ、悪質な債務者に対しては、王朝貴族たちはためらうことなく暴力に訴えていた。つまり、王朝貴族たちの行使した暴力は、しばしば債権回収と結びついていた。これでは、まるで、現代の悪徳金貸しです。
 後妻打(うわなりうち)も珍しくはなかった。これは1人の男の妻の座をめぐって、前妻が後妻を迫害するということ。北条政子が頼朝の新しい愛人となった女性(亀)を迫害したのは有名な話です。平安時代にもこの「うわなりうち」が激しくやられていました。ところが、当時の結婚は届出もないので、本人たちの気持ちひとつです。ですから、妻といい、妾と言っても、そこには法的な区別のつけようがありません。
 「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人であったはずの藤原道長は、お世辞にも理想的な貴公子とは言えない人物であるし、現実世界の貴公子たちは素行の悪い連中ばかりだった。著者はこのように指摘しています。そうだったのかー・・・。ちっとも知しませんでした。目を覚まされた思いです。

隠蔽捜査

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著者:今野 敏、出版社:新潮社
 東京は霞ヶ関に君臨する警察庁内部では、キャリア組の高級官僚同士が日々、醜い出世競争をくり広げている。その様子を背景とした小説です。
 官僚の世界は、部下であっても決して信用してはならない。官僚の世界は常に四面楚歌。
 20代の半ばで警察署長になる。部下のほとんどが自分より年上だから痛快だ。親のような年齢の部下がぺこぺこと頭を下げてくる。署長の経験を積むと、県警本部の役職が回ってくる。そして、いかに早く中央の警察庁に戻ってくるかが、出世の一つのバロメーターになる。キャリア組は出発の時点から、退官まで出世競争を強いられる。
 テレビでも新聞でも、本当に大切なことは報道しない。事件報道でも、警察が発表したことだけを報道する。政治に関していえば、もっと極端だ。本質は常に隠されている。国民はさまざまなブームに踊らされ、大切なことから目をそらすようにコントロールされている。うーん、本当にそうなんですよねー・・・。
 かつては日本国内で拳銃は特殊なものだった。しかし、80年代から事情が変わった。中国あたりから、トカレフのコピー銃などが大量に出まわりはじめた。今では、暴力団の3人の1人が拳銃をもっている。かつてのように拳銃は珍しいものではなくなった。うーん、恐ろしい世の中になってしまいました・・・。
 警察官が事件の犯人だったことが判明します。世間の目を恐れて何とか隠し通してしまおうという幹部と、早いところ明らかにした方がかえっていいという幹部とが対立します。これを読んで、すぐに國松長官を思い出しました。警察庁長官の狙撃犯とされた小杉巡査は、いったいその後、どうなったんでしょうか・・・。
 キャリア組で出世コースに乗る警察官僚の息子が受験の挫折から覚せい剤に手を出してしまいました。そのことを知ったとき、親としてどうしたらよいか・・・。こんな難問をおりまぜて話は展開していきます。たしかに、なかなか読ませます。新境地を拓く警察小説だというのも、まんざら嘘ではないでしょう。

吉野ヶ里遺跡

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著者:七田忠昭、出版社:同成社
 吉野ヶ里遺跡には何度か出かけました。今ではかなり整備されていますので、1989年の衝撃のデビュー当時の、いかにもにわか仕立ての発掘遺跡めぐりとはがらり様子が変わっています。すこぶる頑丈に想像復元されています。どれほどの科学的根拠があるのか素人の私には分かりませんが、なるほど当時はそういう状況だったのかと、ビジュアルに理解できて助かります。年に50万人もの見学者が訪れるそうです。私も知人が来たら、九州の観光地として、阿蘇と並んで吉野ヶ里を見ることをすすめています。ともかく、ペンペン草のはえるような工業団地になんかしなくて本当に良かったと思います。
 たくさんの甕棺墓があります。首のない人骨が入っていました。そのころにも、戦争があったのでしょうか。弥生時代のお墓が3300基もあるというのですから、半端な数ではありません。吉野ヶ里は、まだまだ発掘途中ですので、今後がますます楽しみです。
 この本には発掘直後の様子と復元後の現状とが写真で対比させられていますので、よく分かります。やはり素人は現地を見ただけでは、その意義がよく分からないのです。
 壮年女性の人骨の両腕にイモガイ製腕輪がありました。右腕に25個、左腕に11個もあったのです。このイモガイは、奄美大島より南でしかとれないものです。
 中国の新時代の銅貨「貨泉」も1枚発見されています。さらに銅鐸が出土して、世間の注目を集めました。また、さまざまな織りの絹布や繊細な大麻布が出土しています。これらは染色もされていました。縫製技術まであったのです。このことは、特別な身分の人々が存在したことも意味します。
 本書は、最後に、大胆にも吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の有力な候補地の一つとしてクローズアップされるべきだとしています。九州説の私も、まさかとは思いますが、現地に立つと、あながち考えられないわけでもない、そんな気がしてくるのです。
 もし、これを読んだあなたがまだ一度も吉野ヶ里遺跡の現地を見たことがないのなら、あなたに古代日本を語る資格があるのか、私は疑問を呈したいと思います。さあ、一刻も早く現地に駆けつけましょう。

隠居の日向ぼっこ

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著者:杉浦日向子、出版社:新潮社
 著者による見事な、ふっくらとした挿し絵が付いていますから、江戸の風情を目でも味わいながら洒脱なエッセイを楽しめました。
 月代(さかやき)というのは、江戸時代の武士の頭部にある、頭頂部を剃るものです。これは、戦国期に、兜を被ったときのムレによる、のぼせを軽減するためのものでした。平和な江戸時代にも、男子たるものの覚悟の証しとして、その風習が残ったのです。
 江戸時代、ほとんどの人は鍵とは無縁の生活をしていました。外出して家を空けるときも近所の人に一声かけるだけでした。大きな家では留守番をたのみます。夜、寝るときは寝込みを襲われないように戸締まりはしていましたが・・・。
 鍵は、おもに蔵か銭函のものでしたから、鍵を持つ人とは、金持ちか信用の厚い人の代名詞だったのです。ふーん、なるほど、そうだったのかー・・・。
 肥後守(ひごのかみ)。私にも、もちろん覚えがあります。筆箱には必ず入っていました。今では学校の持ち物検査で見つかったら先生に取りあげられてしまうのでしょう。でも、私たちのときには、子どもたちの必携品のひとつでした。なまくら刀でしたが、それで工作をし、鉛筆を削っていました。
 この本を読んでもっとも驚いたのは、江戸時代には、耳掻きもひとつの生業(なりわい)になっていたということです。金の耳掻き、銀の耳掻き、竹の耳掻きの三種があって、それぞれ値段がついていました。
 金の山、銀の山、お宝掘りましょ、竹もすくすく伸び栄えます。
 こんな文句を調子よく言って、路地路地を歩いていました。おっさんの仕事です。美女ではありません。掘った耳垢を披露するのですが、かねて用意の松脂(まつやに)の削り屑をまぜて立派な耳垢にして示すのです。
 ホホウ、これはこれは、見事たくさん掘りあてました。津々浦々、評判きこえわたり、お家繁盛、代々万栄、きっと間違いありますまい。こうやって褒めそやしたそうです。
 お茶の子さいさい、という言葉の意味も知りました。江戸時代の食事は1日7回ありました。おめざ、朝飯、茶の子、昼飯、おやつ、夕飯、夜食。
 茶の子はおやつと同じで、菓子そのものも指し、お茶の子さいさいとは、菓子をつまむように手軽なことをいいます。
 私より10歳も若い著者ですが、残念なことに本年7月、病死されました。漫画家としてデビューし、江戸風俗をテーマとしたエッセイなどがあります。本当に惜しい人をなくしてしまいました。

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