法律相談センター検索 弁護士検索
アーカイブ

古文書はこんなに魅力的

カテゴリー:未分類

著者:油井宏子、出版社:柏書房
 古文書(こもんじょ)がすらすら読めたら、どんなにいいことでしょう。これは、私の長年の夢です。とてもかなえられそうもありませんが、それでもこうやって未練がましく古文書解読の本に手を出してしまいます。つれあいの亡き父親も古文書解読に挑戦しておられました。カルチャー教室に通って勉強していたのです。それだけでもすごいと尊敬していました。
 この本は本文だけ読むと、いかにも楽しい語り口なので、いまにもスラスラ古文書の難解なくずし文字が読めそうな気がしてきます。でも、くずし字にいろんなパターンがあるのを知ると、すぐに腰くだけになってしまうのです。ひぇーっ、ここまで字をくずしてしまうの・・・、と叫びたい気持ちです。でも、私の手書きのくずし字を解読して、ほとんど間違いなく素早く入力してくれる事務局の毎日の苦労を思うと、そんなこと他人事(ひとごと)みたいに言っておれないでしょ、と自戒させられてもしまうのです、ハイ。
 この本の面白いところは、2つの実例を紹介しているところです。まずは京都の相良郡山城町の庄屋であった浅田家文書です。そこに出てくる利助氏の顛末が紹介されています。当時31歳の利助氏は農業のかたわら綿を扱う小売商をしていたのですが、商売に行き詰まって、村を出奔(しゅっぽん)してしまったのです。6人家族でしたが、欠落(かけおち)したのです。この場合、欠落とは男女が手をとりあって逃げるということではなく、失踪したという意味です。借金を返せなくなって村を逃げて出ていったのでした。40貫匁の借銀(ここは関西ですから銀本位制です)をかかえていました。換算の仕方で異なりますが、今の2700万円から2億円にあたります。いずれにしても、相当の借金ではあります。夜逃げするのも当然のことでしょう。村役人は借銀返済のため、利助氏に所持している家屋敷・諸道具・田畑のすべてを売り払い、稲小屋に住めと裁定しました。利助氏はそれに納得できず、村を出たのです。そして、近隣の村で百姓の手伝い、紙商内の手伝い、農業の手伝いをしたあと、3ヶ月ほどして村に帰ってきました。村役人は、それを受け入れて帰村許可を当局に願ったのです。そして、それは認められました。そのころは、帰村を願ったら認められていたのです。村としても貴重な労働力を逃がしたくなかったからす。
 古文書には、主語がときどき分からなくなるので、注意するように、とされています。古文書の解読はやっぱり難しいのです。利助氏は村へ戻ってからは大工職で生計を立てていたようです。その顛末も分かって、勉強にもなる楽しい本です。
 次に、江戸は日本橋の白木屋の奉公人六兵衛の話です。そうです。白木屋と言えば、映画「男はつらいよ」のタンカバイにも出てくる、あの白木屋です。天保10年(1839年)から、安政6年(1859年)にかけて、白木屋の日本橋店の奉公人を取り調べた記録が残っているのです。店に対して何らかの不正を働いた奉公人120人の事例が記録されています。日本人って、昔から記録魔がいるのですよね。私は、それほどではありません。
 六兵衛は仙台様の御屋敷に掛売り代金の回収に出かけたはずなのに、帰って来ませんでした。9日後に居所が判明して戻されました。いったい、そのあいだ六兵衛はどこで何をしていたのでしょう。その謎が解き明かされていくのです。たしかに難しいくずし字にもだんだん慣れてきた気がします。
 白木屋では、手代たちが、3月、5月、9月の節句前、10月の恵比須講前、そして盆・暮と年に6回掛取りに回っていました。ただし、手代の心構えとしては、この6回に限らず、常々からお客様に油断なく催促して、少しでも残掛を減らすように工夫することが肝要であるとされていました。
 実は、六兵衛は、この掛売りの回収がうまくいかないのを悩んで、成田不動尊へ参籠するつもりになり、それが途中で気が変わって、実は日光に向かったのでした。苦しいときの神頼みに走ったのです。ところが、帰る途中で、知りあいの商人に出会い、もう一度、日光に出かけ、そして一緒に江戸に戻ってきました。
 江戸と山城(京都)で書かれたくずし字はほとんど同じだった。江戸時代全般にわたって、ほとんど全国的にくずし字は同じに統一されていた。青蓮院流が江戸時代に大衆化した御家流に全国統一されていたのだ。方言はいろいろあっても、書き言葉の方は文字は同じだった。これが日本の特徴だそうです。
 やっぱり、くずし字は難しい。でも、チャレンジしたい。そんな気にさせる本です。
 グラジオラスが咲きはじめました。ピンクのふちどりのある白い花です。清楚な印象を受けます。日曜日に青梅がザル2杯分とれました。ラズベリーの赤い実もなりはじめました。夜、ホタルを見に出かけると、見物客の方が多いくらいでした。

グッドナイト&グッドラック

カテゴリー:未分類

著者:ジョージ・クルーニー、出版社:ハヤカワ文庫
 映画をそのまま本にしたものです。この映画は福岡・天神の映画館で見ました。今も映していますので、まだ見てなかったら、ぜひ見てください。
 いまどき珍しい白黒フィルムの映画ですが、それが余計に時代を感じさせる迫真のストーリー展開です。かつては、テレビもこんな青臭い正論を堂々と論じていたんだと改めて感嘆しました。今は田原総一郎をはじめ、あまりにも小泉・自民党べったりで嫌になってしまいます。マローは、マスコミ人向けの講演会で、こう言いました。
 50年後、100年後の歴史家が、もし現在の三大ネットワークの一週間分のテレビ番組を見たならば、彼らはこの世にはびこる退廃と現実逃避、一般社会との隔絶を感じることでしょう。今の我々は裕福で肥え太り、安楽さの中に浸り切って、不快な、または不安をもよおすニュースにはアレルギー反応を起こします。マスメディアもそれに追随しています。だが我々はテレビの現状を直視しなければなりません。テレビは人を欺き、娯しませ、そして現実から目をそらさせる。そのことに、制作者も視聴者もスポンサーも気づかなければ、手遅れになってしまうのです。
 ええっ、これっていつの講演なんだろう・・・。なんと今から50年前の1958年 10月15日のことなんです。昭和33年10月です。まさか、と思うでしょ。今はテレビはもっと堕落がすすんでいます。1950年2月にアメリカで始まった赤狩り旋風に CBSのエド・マローが敢然と反旗をひるがえしたのでした。
 マローは、あまり表情を変えず、平板だが、よく通る語り口でテレビに向かって話した。
 マローの家は貧しくて、高校を卒業しても、大学に進学させるだけの家計の余裕がなかった。そこで、マローは自分で稼ぎはじめた。森林監督の仕事だ。そしてカレッジに入り、スピーチ学部に所属した。大学卒業してマローはCBSに入り、第二次大戦中のイギリスに渡り、ロンドン空襲を実況中継して有名になった。マローがマッカーシーの赤狩りを問題だとして取りあげようとしたとき、CBSの経営陣は、こう言った。
 経営は編集に介入しない。だが、編集が何百人という従業員の身を危うくさせることは許せん。
 それを乗りこえて、マローはマッカーシーを次のように厳しく弾劾した。
 ウィスコンシン州選出の新進上院議員の行動は、同盟諸国に驚きと狼狽を与え、我々の敵国を有利にしました。これは彼一人の責任でしょうか。彼が恐怖を生みだしたのではなく、それをうまく利用したにすぎません。ブルータス、悪いのは運命の星ではない。我々自身なのだ。グッドナイト、そしてグッドラック。
 このマローの番組を、およそ4000万人のアメリカ人が見ました。CBSには、2日間で1万3000件がマローを支持し、1400件がマッカーシー支持の電話をかけてきた。電話と電報の洪水は、1万件以上。手紙は数日間で7万5000から10万通に達した。良識あるアメリカ人はマッカーシーを苦々しく思っていて、マローのような勇気ある告発を待ち望んでいたのです。
 ニューヨーク・タイムズは、次のようにマローの番組を高く評価しました。
 ジャーナリストとしてのはっきりした責任感と、勇気に裏づけられた報道だった。これまで弱腰のそしりをまぬがれないテレビ報道の中にあって、しっかりとした市民権を主張した画期的な番組であった。
 マローは、マッカーシーと違って、イージー・カム、イージー・ゴーではない。取りつきやすく忘れやすいのとは違って、もっと深いところから考えさせる。マローの言い分は、緩効性である。そのかわり忘れないし、しっかりと根づく。要するに、マローは目覚めなのである。教育なのである。
 マローはマッカーシーに反論して、こうも言いました。
 マッカーシーのやり方を非難したり、反対したりするものは誰でも、共産主義者だと見なされる。それが真実なら、この国は共産主義者だらけということになる。
 なるほど、そのとおりです。今の日本にもぴったりあてはまる言葉ではないでしょうか。
 テレビが単なる娯楽と非難のための道具であるだけなら、もともと何の価値もないということなのです。テレビは単なる電線と真空管の詰まった箱にすぎないことになります。
 今の日本のテレビって、ほんとうに何の価値もないんじゃありませんか。いえ、むしろ有害な存在なのでは・・・。

血染めの銭洗弁天

カテゴリー:未分類

著者:伊藤昌洋、出版社:作品社
 鎌倉にある銭洗弁天には私も何度か行ったことがあります。この本では、マネーロンダリングに通じるものとして登場してきます。なるほどマネーロンダリングは銭洗ですね。
 主人公は司法研修所を出ているのに弁護士でなく、予備校の講師として働いています。実は父親は高名な弁護士でした。この点は中坊公平元日弁連会長をモデルとする記述になっています。その妻(主人公の母)が、ある日、惨殺されます。東京で弁護士会副会長までした高名な弁護士の妻が玄関先で殺された事件を想起させます。そのとき、弁護士である父は女性と2人で海外旅行中だった。母を殺したのは父が追及していたカルト宗教の信者。ここはオウム真理教がモデルになっています。
 そして、主人公が拾われる法律事務所はマネーロンダリングをやっているのです。なにやら、あの「ローファーム」を想起させる場面です。ところが、いかにも日本的なのは、悪徳弁護士のはずが、いかにも人間味をもつ人物として描かれているところです。
 大沢在昌の「新宿鮫」を思わせるチャイニーズ・マフィアが登場したり、いろいろマネーロンダリングについて学ばされたり、盛りだくさんの社会派ミステリーになっています。
 公害訴訟や住民運動に熱中したあげく、経営に行き詰って解散した法律事務所があるという話がでてきます。本当でしょうか?
 また、医療過誤訴訟で原告(患者遺族側)がうまくいってなかったところ、看護日誌を出させたのが凄いアイデアで、それ一つで逆転勝訴したという記述があります。ええーっ、そんなバカなー・・・と思いました。これって凄いアイデアなんていうもではありませんよね。
 少年時代には秀才と呼ばれ、将来の日本を背負って立つ大志を抱いたはずの彼らが自分でも気づかないうちに、この世の中に生きるうちに少しずつ心が蝕まれ、いつの間にか金に支配され、良心も清潔さも麻痺し、自己を省みない人間に堕落していくんだ。こういうセリフが出てきます。これは、たしかに弁護士になった人は、私をふくめて大いに自戒すべき指摘だとつくづく思います。

藤沢周平、心の風景

カテゴリー:未分類

著者:藤沢周平、出版社:新潮社
 藤沢周平の故郷であり、映画「蝉しぐれ」などに出てくる海坂藩のモデルとなった山形県鶴岡市は私にとっても思い出深いところです。弁護士になって2年目からだったと思いますが、山形地裁鶴岡支部まで何回も通いました。石油ショックのとき石油元売りメーカーが「千載一遇のチャンス」として闇カルテルを結んで価格をつりあげました。それによって損害を蒙った消費者が元売り各社を訴えたのです。この裁判は東京地裁と山形地裁鶴岡支部に同時に提訴され、私も原告弁護団の末席につらなりました。原告弁護団員としては恥ずかしながら何の貢献もできませんでしたが、あたかも一人前の弁護士のような顔をして毎回の法廷に鶴岡支部にまで通いました。
 当然のことながら前泊します。冬の寒い日に近くの温海(あつみ)温泉に泊まったり、大勢の原告団との打合せに参加し、法廷にのぞみました。
 静かで落ち着いた城下町であること、鶴岡生協が住民をよく組織していること、灯油は温かい地域に住む人間にとって想像できないほど不可欠のものであること、などなどを身にしみて体感しました。
 この灯油裁判は、消費者を敵にまわしたら大変のことになることを石油業界だけでなく、産業界全般に深く自覚させるきっかけとなった大きな意義のある裁判でした。この裁判を通じて、再任拒否された宮本康昭元裁判官や後に国会議員となった岩佐恵美氏と知りあうこともできました。お二人ともエネルギッシュであり、理論的に秀れていて、いつも感嘆していました。
 この本には、藤沢周平の「蝉しぐれ」を傑作とほれこんだ井上ひさしが、小説に出てくる海坂藩の城下町を地図に示したものまで紹介されています。しかも、小説上の矛盾点まで指摘したのは、さすがは井上ひさしです。
 映画「蝉しぐれ」のオープンセットがそのまま残されており、有料で見学できるそうです。ぜひ、また行ってみたいところです。
 私は司法修習生のころ、同期生(今は石巻市で活躍している庄司捷彦弁護士)からすすめられて山本周五郎の本を夢中になって読みふけりました。江戸情緒たっぷりの周五郎ワールドにずんずん身が引かれました。藤沢周平にこのところ熱中しているのは、山田洋次監督の映画の良さにも影響されています。

「無言館」ものがたり

カテゴリー:未分類

著者:窪島誠一郎、出版社:講談社
 五月の連休に熊本城内にある美術館に出かけ、「無言館」の絵画を鑑賞してきました。
 残念ながら、「無言館」そのものには、まだ行ったことがありません。「ちひろ美術館」など、信州方面にはたくさんの素晴らしい美術館があるようなので、ぜひ訪れてみたいと考えています。
 本のはじめにカラーグラビアで絵が紹介されています。伊沢洋の「家族」という絵があります。裕福な家族が一家団欒している情景が描かれています。描いた本人も登場しています。いかにも幸福そうな、落ち着いた雰囲気の絵です。ところが、絵にも登場している弟さんの解説によると、当時はこんな裕福な家庭ではなく、これはまったく兄の想像の産物だというのです。そうなんです。絵は期待をもって夢幻の境地が描かれることもあるわけです。それはともかく、たしかな技量です。これだけの画才をもつ人が、あたら戦病死してしまったというのは、本当にもったいないことです。
 自分の愛する妻や恋人の裸婦像もあります。いずれも、愛情たっぷりの表現です。筆のタッチにそれを感じることができます。「温室の前」というタイトルの絵はいかにも戦前らしい装いの若い女性が3人坐って話をしている情景が描かれています。麦わら帽をかぶり、白いワンピース姿の女性がいます。今もいそうではありますが、戦前のハイカラ女性という方がピンときます。
 「無言館」美術館は、1997年(平成9年)5月、長野県上田市郊外にオープンしました。第二次大戦で戦病死した画学生の作品と遺品が展示されています。美術学校に学ぶ画学生ですから、その腕前は確かなものです。戦没画学生は、たいてい20代です。画をみればみるほど、あたら才能を喪ってしまったことが、国家的な損失だと惜しまれてなりません。こんな話が紹介されています。
 画学生は戦場に行っても、とてもマジメだった。絵の勉強に一生懸命な画学生であればあるほど、戦場でもいちばん前線に立って戦った。絵筆をにぎって一心に絵を勉強していた情熱と同じように、だれよりも前に出て敵と戦った画学生が多かった。
 なんということでしょうか・・・。言葉に詰まります。
 絵を描きたい。絵を描きたいと叫びながら、ついに生きて帰って二度と絵筆をにぎることのできなかった画学生たち。父や母を愛し、兄弟姉妹を愛し、妻や恋人を愛し、そして祖国を愛しながら、聖戦という美名のものに戦場にかり出され、飢餓と流血の中で死んでいかねばならなかった・・・。みんな、20歳台、30歳台の若さだった。
 「無言館」をつくるとき、戦没画学生の作品を見世物にして金もうけをたくらんでいるのではないのか。それではあまりにも画学生たちが可哀想だ。そんなものは、国につくらせたらいいのだ。
 こんな非難の手紙も舞いこんできたそうです。私も、その気持ちも、まったく分からないじゃありません。しかし、待てよ、という気もします。国によって殺されたのは事実だとしても、国がそのことを自覚し、反省していないときに、国につくらせるのを待っていたら、いつまでたってもできっこない。そのうちに画学生の遺族の方まで死に絶えてしまう。そんなことでいいのか・・・。
 反対に、国のつくった美術館ができたとしても、画学生の遺族が国に作品を預ける気になるだろうか、だから、ぜひつくってほしいという手紙も来たそうです。私は、やはり、こちらにひかれます。
 著者は、戦没画学生の遺族をたずねて全国をまわりました。その反応はいろいろありました。でもでも、善意の資金も得て、美術館を開館することができました。
 やはり、平和っていいな、戦争って理不尽なものだな、つくづくそう思います。
 ゴールデンウィークに、いい絵画を見て、心が洗われました。ぜひ、長野に出かけよう。そう思ったものです。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.