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父の国、ドイツ・プロイセン

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著者:ヴィプケ・ブルーンス、慧文社
 ヒトラー暗殺計画に連座して処刑されたドイツ国防将校の娘によって、父親の日記がよみがえります。
 子どもというのは、あえて言うなら、親には、いわば供給源としてしか興味をいだかない。関係は自己中心的。どれだけ自分を守ってくれるか、世話をやいてくれるか、支えてくれるか。両親がどういう人間で、どんなことを感じ、幸せであるかどうかということは子どもの前を素通りする。
 本当にそうなんですよね。私は大学生のときまで、自分が大きくなったのは自分ひとりの力だとまるで錯覚していました。思えば恥ずかしいことなのですが、本当のことなので仕方ありません。親をバカにしきっていたものです。さすがに弁護士になって私も少し考えを改め、さらに親の一生をそれぞれ本にまとめてみて、親にも素晴らしい劇的な人生があったんだと気づかされたのです。父親のときには死んでから、母親のときにはボケはじめてからのことです。一冊の本にまとめる過程で、やっと親と対話することができました。
 プロイセン・ドイツでは、女性の左側を歩くのは、その女性に敬意を表し、慣例に従って礼儀正しく、距離を保っていることを示す。右側を歩くのは夫。右側は所有のあかしであった。
 1934年。ヒトラーがSAのムーム以下を射殺した事件が起きました。母親の日記には、こう書いてあります。
 ヒトラーがSAと党の内部で血を流しての大掃除をやった。きっとしようがなかったのでしょうけど、こんなふうにやるのは、これが最後であってほしい・・・。
 もちろん、これが最後ではありませんでした。夫も、ヒトラーによって処刑されてしまうのです。
 1934年8月。ヒンデンブルクが86歳で亡くなったあと、ヒトラーはドイツ国の大統領と首相を兼務した。ドイツ軍人は全土で新たな宣誓をさせられた。もはや憲法とか祖国ではなく、ドイツ国と民族の総統アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に無条件に服従し、勇敢なる軍人として、いかなるときにも命を賭ける用意がある、と。
 この年、ドイツでは国民投票が行われました。ヒトラー賛成票が3800万票。反対票は430万票。無効票90万票。このように1割の反対が出た。しかし、ドイツ国民の大多数はヒトラー当選を祝ってお祭り騒ぎした。
 1936〜37年のドイツ経済はうまくいっていると思われました。なにしろ失業者が600万人から50万人に減ったのです。ドイツの輸出は活気を呈していました。
 父親のH・G・クラムロート少佐は身内のベルンハルト中佐(32歳)がヒトラー暗殺のための爆弾を調達しているのを知って黙っていました。ドイツ国防軍の司令官以下、参謀本部員は、党(ナチス)とSSの暴徒とは一切かかわりあいをもとうとしなかった。ナチ党でないもので固めるという人事がおこなわれていた。だから将校仲間では、転覆計画がおおっぴらに語られていた。
 1944年8月15日、2人は絞首刑を宣告された。ベルンハルトは爆薬調達のかどで、クラムロートはベルンハルトたちを密告しなかったことで有罪とされた。
 ヒトラーは既に判決を下していました。
 まともな弾丸など使うまでもない。その辺の裏切り者と同じ絞首刑だ。執行は判決言い渡し後2時間以内。即刻吊せ。あわれみなどいらん。家畜のように吊せ。
 両親の日記が残っていて、それを娘の目で再現していくというのは、スリリングな作業だということがよく分かる本です。
 最近、ドイツのノーベル文学賞までもらった高名な作家が17歳のときナチスに入党していたことを自伝で初めて告白して話題となっています。ドイツでは今もナチスの負の遺産の清算を真正面から議論していることが分かります。それにひきかえ,日本では東条英機の孫娘が戦犯として処刑された父親を神とあがめたてまつり,父親は悪くなかったと堂々と開き直り、それをマスコミはそのまま黙認して批判すらしませんでした。日本では,今もって負の遺産を清算しようとしていないことを意味しています。日本が侵略戦争を起こした事実をきちんと認め,その反省から戦後日本の平和が守られてきたことを私たちは思い起こすべきだと思います。

最勝王

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著者:服部真澄,出版社:中央公論新社
 空海がまだ佐伯真魚(さえきのまいお)と呼ばれる少年のころから話ははじまります。真魚は四国・讃岐の国造(くにのみやつこ)の家柄に生まれました。
 小説家の想像力の豊かさに驚きます。どれだけ資料の手がかりがあるのか知りませんが,ディテイルをふくめた描写に圧倒される思いで読みすすめていきました。
 末尾の主要参考文献に密教や大蔵教,大日教,金光明教などの教典の注釈本があげられています。それらを読んで,この本に取り入れてあるのですから,すごいものです。ついつい感心しました。また,開法寺(どこにあるお寺なのか知りませんが)の秘蔵の板彫阿弥陀曼荼羅を開帳してもらったそうで,曼荼羅についてもその意味が解説されています。
 大陸へ通じる海路をゆく船を,つくのぶねと呼ぶ。遣唐使の舶が四隻を連ねて走ることが慣習になると,四の船(よつのふね)とも呼ばれるようになった。
 当時の唐に盛んだったのは天台宗と秘密宗の二派だった。秘密宗とは,どうも密教のことのようです。秘密宗が重んじている経典は,「大昆盧遮那成仏神変加持教」(だいびるしゃなじょうぶつべんかじきょう)。
 このなかに60心の迷いを乗りこえなければ,仏法の修行者として世間を超越したことにならないとされているそうです。いくつか紹介します。
 貧心(とくしん)。ものごとに染まり,むさぼる心。
 無貧心(むとくしん)。染まるべきものにも染まらず,善きものすらも求めようとしない心。
 智心(ちしん),知ったかぶり,思い上がる心。
 決定心(けつじょうしん)。師の仰せであれば,お説のとおりと,何でも従ってしまう心。
 疑心(ぎしん)。何を聞いても疑うだけの心。
 暗心(あんしん)。疑うべくもないことまで疑う心。
 明心(みょうしん)。疑うべきことすら信じてしまう心。
 人心(にんしん)。人との縁を損得ばかりで計る心。
 女心(にょしん)。何ごとも欲の欲するままに行う心。
 自在心(じざいしん)。一切を我が意のままにしようと思う心。
 商人心(しょうにんしん)。必要のないものまでも一網打尽に集めるだけ集め,取り捨ては後回しにし,とにかく利を得ようとする心。
 農夫心(のうふしん)。まず広く尋ね回ってから,求法するに等しく,無駄にあちこちを耕してしまう心。
 狗心(くしん)。しきりに尾を振る犬のように,もの足りぬ結果でも大満足しきって狎れる心。
 狸心(りしん)。狸のようにあたりを窺い,怯えて,そろそろとしか進まぬ心。
 迦楼羅心(かるらしん)。党を組み,翼を得ることなしには事に臨まぬ弱き心。
 いやあ,いくつも該当するんじゃないかというものがあります。これをすべて乗りこえるなんて,とても不可能のように思います。みなさんは,いかがですか・・・。
 60心は,喩え(たとえ)である。これら心の相は,およそ人であれば誰しもが内奥に持つものであり,60は仮に挙げられた数に過ぎず,煩悩妄心は複雑怪奇,無量無数である。仏法の奥の深さを垣間見る思いのする本でした。

人物を読む日本中世史

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著者:本郷和人、出版社:講談社
 高校の必修科目から日本史が外れされているのを知って、腰が抜けるほど驚きました。世界史の方は必修科目です。日本史、とくに明治以降の現代日本史を日本はもっと重視すべきではないでしょうか。
 鎌倉時代、現金収入の欠乏に苦しんだ朝廷は、実のない官職を売りに出した。これを成功(じょうごう)という。大納言とか蔵人頭(くろうどのとう)という、朝廷の施政に必要不可欠な官は対象にならなかった。買ったのは御家人たちで、幕府の許可を得て、競って官職を購入していた。たとえば、左衛門少尉(さえもんのじょう)という官職を得るのに100貫文の銭を上納した。これは今のお金で1000万円にあたる。
 平安時代の仏教は、庶民がどうなろうと関心がなかったのではないか。大乗仏教は自分の解脱(げだつ)を目ざし、人々の解脱を目ざす。このときの「人々」とは、ごく限られた一握りの人々、貴族ほかに限定されていたと解釈すべきである。根本的な問題として、日本では経典はついに日本語に翻訳されなかった。漢文の読めない愚昧な衆生などは、僧侶の眼中にはなかったのだろう。
 新儀非法(しんぎひほう)という中世のはやり言葉があります。それは新儀である。非法である。すなわち、新しいことは、すなわち悪であり、認められない。古いことは良いこと。世の中は新しくなればなるほど悪くなる。
 北条重時は子どもたちに残した家訓に次のように書いている。時としてどんなに腹が立つことがあっても、人を殺してはいけない。こんなあたりまえのことを、わざわざ言わなければならないほど、当時の武士は人を殺していた。たとえば、我が家の前を通るやつはとっつかまえて、弓の標的にしろ。庭の隅に生首を絶やすな。斬って斬って斬りまくり、新鮮なのを補充しておけ。えーっ、中世の武士って、こんなに残忍だったのですか・・・。想像を絶しますね。
 いろいろ日本史の裏を知ることのできる面白い本でした。

赤ちゃんの値段

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著者:高倉正樹、出版社:講談社
 厚労省の統計によると、2000年度から2003年度までの4年間で106人の養子が日本から海外の養親に斡旋されている。しかし、これは、指定8業者の報告をまとめた数字。106人の養子が海外に渡ったあと、どうなったのかの確認はされていない。
 斡旋業者のなかには1人550万円の寄付を強要するところもある。
 日本人養子は、健康で、薬物汚染されていないため、海外で人気がある。養子輸出国は、かつては韓国。今は、一人っ子政策の陰で女児の捨て子が横行する中国である。
 1955年の日本の中絶件数は117万件。未成年は1万4000件で全体の1%。2003年は31万件で、4分の1に減ったが、未成年は4万件、13%と増えた。しかし、統計上の数字の3倍ほど実数はあるとみられている。
 日本人の赤ちゃんを養子にするには、総額で200〜300万円の費用がかかる。
 日本の家庭裁判所を通さない海外養子縁組が非常に多い。日本人の赤ちゃんは、アメリカの移民法にもとづき、養子縁組を前提とした孤児としてビザを取得し、移民として入国する。アメリカ人の養親は、本国に戻ったあと、地元の家庭裁判所に必要書類を出し、養子縁組の手続を完了させる。アメリカ国務省の移民ビザの統計によると、1996〜2003年度の8年間で、334人の日本人が養子として入国している。
 アメリカ国務省の統計によると、アメリカが海外から受け入れた養子の総数は2004年度は2万2884人。ここ15年間で3倍となった。トップは中国からで7,044人。ロシア5,865人。グアテマラ(3246人)、韓国1716人。
 韓国は、かつては孤児輸出国を自称する海外養子の一大供給国だった。韓国保険福祉部の統計によると、1986年度に8680人。1980年代は、6000〜8000人の養子を海外に出していた。うち6割以上がアメリカ向けだったが、フランス、スウェーデン、デンマークも多かった。しかし、政府が抑制策をとり、1990年以降は2000人前後で推移している。
 インターネットの競売サイトに赤ちゃんが競売にかけられたことがある。1200万人の値がついた。
 養子は、養親が自分をありのまま受けいれるかどうかを確かめるため、わざと嫌がることをする時期がある。これを試しの時期という。通常は半年ほどで落ち着きを取り戻す。そこではじめて親子としての信頼関係が確立する。
 養子たちはルーツ探しを始める。フランスでは200年以上前から、母の名前を開かさないままの出生届を出して出産する権利が認められている。世間体を気にして中絶するのを防ぐためだ。

明治天皇の一日

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著者:米窪明美、出版社:新潮新書
 天皇の一日を朝から晩まで刻明に紹介した本です。万能の独裁者というものが、実はいかに窮屈なカゴの鳥のような生活をしているか、よく分かり、大変面白い本です。これでは自由気ままに動きまわっている庶民に独裁者があこがれるのも無理ないと思えてきます。
 明治天皇の起床時間は午前8時。おひーる、という甲高い一声で関係者の活動が始まる。朝8時の起床をゆっくりしていていいな、と思う人もいるでしょうが、それは若い人のセリフです。年をとると早起きになるものです。私は毎朝7時に起床していますが、実は、朝6時前に目が覚めることがしばしばです。30代のころには絶対になかった現象です。ところが、天皇は目が覚めても勝手に床を離れることはできません。なぜなら、朝6時に天皇が「おひーる」になってしまったら、宮殿につとめる関係者全員の出金が朝6時を前提とした体系に変わるから。天皇の時間に対する几帳面さは、性格によるものではなく、周囲に対する配慮から。身分社会は上に位置するものが一方的に恩恵をこうむる社会ではない。
 天皇の寝室は朝陽の届くところにはない。奥まった一室にあり、窓もついてない。だから起きても、今朝は晴れているのか、曇っているのか、雨が降っているのかだって見当もつかない。なんだか可哀想ですね。
 天皇が目を覚ますと、侍医が健康チェックする。脈を計り、舌を見る。それはいいけど、検便が毎回されるというのが驚き(どうも、これは今も続いているようです・・・)。
 朝食は一人でとる。「おなかいれ」という。食事は、すべて当番侍医が「おしつけ」、つまり毒味をすませたもの。熱々の料理に舌鼓を打つというわけにはいかない。
 天皇は食事中以外、椅子にすわらず、一日中ずっと立ちっぱなし。
 明治天皇は下働きの者が自分の前に顔を出せないような旧来の制度を改めなかった。その一方、臣下に迷惑をかけたままで平気な人物でもなかった。そこで、天皇は自分が下働きの者の側へ行かない引きこもりの道を選択する。
 明治天皇が空箱を再利用したり、軍服に何度もツギをあてて古びたまま着ていたというのも驚きです。ところが、ダイヤモンドも大好きだったのです。うーん、人間って、やっぱり複雑な存在なんですね。
 天皇は、お風呂にも自由にははいれません。天皇の体を洗うのは女官です。いいなあと、ついうらやましくなります。でも、上半身と、下半身とを担当する女官が違うのです。ケガレの問題があるというのです。なんだか、信じられません。
 便器は、黒の塗箱で、モミガラを底に敷いて、その上に美濃紙を重ねて置く。これを検便する。検便が終わったら、皇居の堀に捨てる。なんということを・・・。
 明治天皇は刺身が嫌いで、鶏肉を軽くあぶって、熱燗のお酒をそそいだ鶏酒を飲んでいた。ヒレ酒のヒレを鶏にかえたもの。
 夜は皇后と寝るのではない。アンマとハリを好んでいた。それが終わると、女官(権典侍)は、日ごとに交代していた。一人の女性が天皇を独占することはできないというシステムだった。うーん、ここまで来ると、好き放題にやっていたというより、なんだか哀れな独裁者という気すらしてきます。

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