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砂漠の女王

カテゴリー:未分類

著者:ジャネット・ウォラック、出版社:ソニー・マガジンズ
 イラク建国の母といわれるイギリス女性がいたということを初めて知りました。ガートルード・ベルという女性です。
 ガートルード・ベルは2歳のとき、母を亡くしました。
 怒りや裏切られて棄てられたという思いは、親を亡くした子どものなかにうねる感情だ。けれど、ガートルードには彼女を包む父の愛があった。彼女は幸運だった。なにより父は彼女の手本となった。ガートルードは、誰よりも父の行動をならい、つねに父に認められることを望んだ。そして、父から大いなる自信と、障害を克服する態度を受けついだ。
 父が再婚したとき、ガートルードは本に逃避することができた。本は彼女の魔法の絨毯だった。当時、どれほど優秀であっても、ガートルードと同じ階級の少女たちが学校へ送られることはめったになかった。そのかわり、彼女たちは家庭教師をつけられ、17歳になると宮廷で拝謁を得て社交界にデビューするのがしきたりだった。そして、デビュー後3年以内で、生涯の伴侶を見つけることが求められた。
 ガートルードは、オックスフォード大学に入った。18歳の彼女は、自分はどんな男性とも同じ能力があると信じていた。もし、それに疑いをはさむ人間がいても、彼女には、自分の信念を支持してくれる父がいた。
 話題がなんであれ、だってお父様がそうおっしゃるんですものと熱心に言いはり、議論に決着をつけさせようとした。
 誰ひとり彼女に結婚を申し込まず、彼女のほうも結婚したいと思う相手はいなかった。いえ、若い男性と過ごすのを彼女は楽しまなかったわけではない。けれど、彼女の容赦ない言葉は男性のエゴを切りきざんだ。また、知的な刺激に飢えているガートルードが、男性のお粗末な知識で満たされることはなかった。
 1900年。31歳になったガートルードはエルサレムに赴いた。フランス語、イタリア語、ドイツ語、ペルシア語そしてトルコ語を自由にあやつり、苦もなく言語を切りかえた。アラビア語だけは苦手だった。それで、アラビア語の教師を雇い、朝4時間、夜も2時間ほど毎日勉強した。
 イギリスで婦人参政権運動が起きたとき、ガートルードはそれに反対する運動を熱心にすすめた。東方では大胆な行動をしたガートルードも、故国イギリスでは伝統の境界の範囲内で行動した。彼女の伝統とは、上流社会の、特権をもち保護された人間のものであり、貧しく、教育もない労働者階級がそれに挑むことは許されなかった。
 ガートルードは鉄工労働者の妻たちを助ける活動にも長く関わった。その活動から、女性には市町村の役場で働く権利はあるが、国政レベルに関わる力はないという認識をますます強めていた。ガートルードは、自分を男性と同等と見なしていたが、大半の女性は同等ではないと信じていた。
 ガートルードは、砂漠を6回も長期にわたって旅した。そのため、シリアやメソポタミアの部族にも明るかった。北部そして中央アラビアのアラビア人の気質や政情に通じているという点で並ぶもののない専門家だった。
 そのころ、アラビアのロレンスもいた。ガートルードは英国でも名の知れた家のひとつにあげられる一族の長女で、ロレンスは中流階級出身。出自はまったく異なる社会層だが、二人はよく似ていた。つまり、変わり者で、主流からはずれ、ひとりでいることを好み、人の多い応接間より閑散とした砂漠にいるほうに安らぎを感じた。この二人からみると、イギリス人よりベトウィンのほうが受容力があった。
 1917年3月。イギリス軍が進軍してきたとき、バグダッドの街には20万人しか住んでいなかった。その多くはスンニ派イスラム教徒と、ユダヤ人だった。
 ガートルードはイギリスの東方書記官となった。諜報活動を得意とした。教育を受け都市に住むスンニ派、地方の多数派であるシーア派、バグダッドの大きなユダヤ人社会、モスルのキリスト教徒。これらの動向をガートルードは見守った。
 ガートルードはメソポタミアの自治を主張した。しかし、これはイギリス本国政府の政策に反していた。
 イギリスのメソポタミアにおける商業的利益は長く深いものだった。メソポタミアの市場の半分はイギリスからの輸入品、石炭、鉄、織物などが占め、輸出品、ナツメヤシ・イチジク・オリーブ油・穀物の35%がイギリス向けだった。それに加えて、イギリス海軍そして空軍のため石油資源を確保する必要があった。
 イラクには、1万7000人のイギリス軍と4万4000人のインド軍が駐留していた。
 イギリスが委任統治という仕組みを導入しようとしているバグダッドで、ガートルードは無冠の女王と呼ばれた。イギリスの政策からはずれたため活躍の場所を狭められたガートルードはひどいうつ状態となり、1926年7月、いつもより多い睡眠薬を飲み、二度と目覚めることはなかった。
 イラク独立の前史に関わったイギリス女性の一生を紹介しています。大英帝国のなかで羽ばたいたものの、結局は国家に利用され、押しつぶされた女性だという印象を受けました。

脳視、ドクター・トムの挑戦

カテゴリー:未分類

著者:中野不二男、出版社:大和書房
 読字機能における脳のつかい方は第一言語によって決定される。
 ヒトの利き腕が左利きか右利きかというのは、生まれたときには既に決定している。だけど、最初からそれが表に出るわけではない。赤ちゃんのときには、左右の手を対象に動かす、いわゆる鏡運動のくり返しをする。その鏡運動が消えるころ、生まれながらの利き腕が前面に出てくる。
 しかし、言語における脳のつかい方はちがう。最初に読み方を覚えた言語によって脳のつかい方は決定される。そして第二言語、すなわち二つ目に覚える言語には、第一言語によって決定された脳のつかい方が、そのまま応用される。
 たとえば、日本人、日系人、中国系、中国人という4人の若者がサンフランシスコで育ったとき、家庭ではそれぞれの言語で話していても、最初に読み方を覚えた言語は英語だ。そのとき、彼らの言語に関する脳のつかい方は決まる。つまり、アメリカ生まれのアメリカ人とまったく同じパターンとなる。そして、日本語や中国語は、母国語であろうとなかろうと、英語によって構築されたパターンのもとで学んだ二つ目の言葉にしかならない。
 ヒトは、目や耳といった感覚器官から入ってきた情報により、脳をつかいながら言語機能をつくりあげていく。そのとき、前頭前野では、考えて理解することにより、理性ややさしさという人間らしさが生まれてくる。したがって、運動や言語を司る機能の部分、つまり脳の前頭葉や側頭葉に位置する領域を実際に行為する実践装置だとすると、前頭前野は、それを細かにコントロールしている制御装置だということになる。こころは、その制御装置と実践装置のつながりに生まれるはず。そのつながりを生み出しているのが、熱による脳内の対流、すなわち渦だ。
 ヒトがものを考えたり記憶したりしているのは、大脳の表層部分の大脳皮質である。大脳皮質はニューロンの集まり、いわばユニットの集合体で、層のような構造をしている。それぞれのユニットは、正確に6層になっている。それも中心には吹き抜けに似た中空部のある、6階建てビルディングのような層構造だ。
 脳の中央部の温度、すなわち、中核体温は、脳の表面よりも常に高い。脳のニューロンの代謝によって生まれる炭酸ガスをふくんだ液体が、その熱により対流を起こし、ビルの吹き抜けを通っていくはず。脳の活動が活発になるということは、すなわちニューロンの代謝が盛んになるということ。盛んになればなるほど、ニューロンは血液によって運ばれてきたグルコースをとりこみ、水と炭酸ガスを排出する。その液体の密度、つまり炭酸ガスの濃度の違いにより、シナプスというスイッチがオンになったりオフになったりすることで生まれるのがヒトの意識ではないか。
 言語や運動などのヒトの行為を司る実践装置としての機能は脳の前頭葉や側頭葉にある。その行為を細かくコントロールしている制御装置は前頭前野だ。そして両者のつながりを保っているのは、脳の中心部から外側へ向かって流れる炭酸ガスをふくんだ温かい液体である。
 この液体が、ニューロンで構成される大脳皮質のビルの吹き抜けを通り抜けて、6階建てビル群の屋上のような表面へと流れ出す。そのときに、ガスの密度の高低により、表面に広がる神経回路のスイッチのオン、オフを促していく。そしてガスを含んだ温かい液体は、大脳皮質の球形の表面に沿って流れるうちに冷却され、ふたたび脳の中心部へと戻っていく。それは、ヒトが生きている限り、ものを見て何かを感じ、考え、行為にあらわしている限り、ずっと続く対流である。この脳内の渦にこそこころが生まれる。
 このように説明されると、ヒトの意識と思考について具体的なイメージが湧いてきます。なんだか、脳のなかのこころの存在も分かったような気がしてきました。

食べる人類誌

カテゴリー:未分類

著者:フェリペ・フェルナンデス・アルメスト、出版社:早川書房
 電子レンジのある家では、家庭料理は消える運命にある。食事をともにしなくなれば、家庭生活は崩壊するにちがいない。魂が胃のようなものだとすれば、食事をともにすることのほかに、どんな精神的な交わりがあるだろう。電子レンジを見くびってはいけない。この装置には社会を変える力がある。
 たいていの動物は、ブドウ糖からビタミンCを合成できる。しかし、人間は、サルやモルモットと同じく、これができない。食事からビタミンCを摂取するしかない。
 体内に蓄えられたビタミンCは、補給されないと、6〜12週間たったら危険なレベルに下がる。ビタミンCのもっとも重要な機能は、細胞どうしをつなぐコラーゲンの生成の維持。毛細血管の壁が破れて体中の細胞から出血する。壊血病である。
 酢漬けの状態でそこそこのビタミンCを保っていたのは、ザウアークラウトのみ。そこで、ザウアークラウトは長距離航海の定番の備蓄食糧となった。
 ビタミンのすべてが食事からとれるわけではない。日光にあたることでビタミンKをつくっているし、ビタミンKは腸内のバクテリアによっても合成される。
 馬乳は、ビタミンCを豊富に含んでいることで、草原に住む人々はこれを飲むことで、果物や野菜を食べなくても生き延びられる。
 モンゴル人の火をつかわない調理法として、切りとった肉を鞍の下に置いて馬に乗ると、肉は繰り返したたきつけられ、馬の汗も加わってやわらかくなるというのがあるそうです。ええーっ、これって美味しいんでしょうか・・・。
 ライ麦、大麦、キビ、アワ、コメ、トウモロコシ、小麦の発明は人類のもっとも目ざましい功績のひとつ。反芻動物の食べ物として自然がつくったイネ科の植物を、非反芻動物である人間の主要な食物に変えた。すべての文明が、生命維持に必要な食物を、この6種に頼ってきた。
 20億人がコメを主食としている。人間が消費するカロリーの20%、タンパク質の 13%をコメが担っている。コメは世界でもっとも効率の良い食物として際立った存在だ。コメは、1エーカーあたり2.28人分の食糧がとれる。小麦だと1.49人分でしかない。
 小麦を食べる西洋人の出現は5000年前、コメは8000年前のこと。アングロサクソンの世界では手を加えない食べ物のほうが、ごてごてと飾りつけた食べ物よりも好まれた。ソースをかけない、ただ網で焼いただけのステーキをアメリカ人は恋しがる。そうなんです。だから私は、アメリカに行きたくないのです。やっぱり手をかけた料理をじっくり味わいたいものです。
 アメリカの独立はフランスの助けに負うところが大きかったにもかかわらず、簡素な料理を愛する心はイギリスらしい特徴のひとつとして大西洋の反対側で生き残った。
 オスマン帝国のトプカプ宮殿の厨房は、16世紀には、毎日6000人、祭日には1万人に食事を出せるだけの設備をそなえていた。料理長は50人の副料理長をしたがえ、菓子づくり担当の責任者には30人の助手が、味見担当の責任者には100人の部下がいた。17世紀はじめ、一日に消費されるのは、若い羊200頭、食べごろの仔羊か仔ヤギ  100頭、鶏330つがい、子牛4頭(宦官の貧血予防のため)。すごーい・・・。
 ヨーロッパで生産されるトウモロコシの大半は牛の餌になる。アメリカで生産されるもののほとんどはコーンシロップの原料にされ、残りの大半は飼料用である。
 料理は文明の基礎だと考える人にとって、電子レンジは最後の敵である。電子レンジがもっともふさわしいのは、社会の敵、ひとりで孤独に食べる人。食事をともにすることによる親しい交わりは、食事時間を待つことから家族を解放する装置によって簡単に崩れ去る。焚き火や鍋やひとつのテーブルをかこんだ親密な交わりは、少なくとも15万年にわたって協力して暮らす人間同士を結びつけるのに役立ってきたが、いまやそれが打ち砕かれようとしている。うーん、電子レンジって、こんな役割があるんですね。ほとんど毎晩、夜の遅い(といっても8時から9時まで)自分用の夕食のために愛用している身からすると、この分析は驚きでした。
 西洋料理で代表的な生の肉料理と言えばタルタルステーキがある。肉はやわらかく縮れた鮮やかなミンチにされる。香辛料、新鮮なハーブ、春タマネギやタマネギの芽、ケーパー、アンチョビー、酢漬けのコショウの実、オリーブ、卵など、風味を増すための材料を、客のテーブル脇でウェイターが仰々しい手つきでひとつずつ混ぜあわせていく。これにウォッカを加えると、風味がぐっと良くなる。
 私がタルタルステーキを初めて見かけたのは、20年以上前にフランスに行ったときのことです。訪問先のフランスの弁護士が同じテーブルで一人注文し、いかにもおいしそうにタルタルステーキを食べたのです。私も彼と同じものを食べたいと思いましたが、生の牛肉だと聞いて、旅先で腹痛でも起こしたら大変だと思い、ぐっと我慢しました。だから、この恨みというわけではありませんが、タルタルステーキを食べたいとずっと思ってきました。これまで日本でも2度ほど食べた記憶があります。見た目に鮮やかな赤身の牛肉で食欲をそそります。味もなかなかいけます。みなさんも、ぜひ食べてみてください。

アサギマダラ、海を渡る蝶の謎

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著者:佐藤英治、出版社:山と渓谷社
 アサギマダラは、一見すると弱々しく見えるが、実は、とても丈夫。薄い翅には張りがあり、少々のことでは破れない。胸を少し押したくらいでも弱らない。そして、なにより長生きする。モンシロチョウの平均寿命が14日なのに、アサギマダラは1000キロ以上の渡りをして半年後につかまったものもいる。
 アサギマダラの幼虫の写真がたくさん紹介されています。まるでハラペコ青虫なのですが、黄色の斑点の目立つ垢抜けしたデザインです。
 アサギマダラには毒があり、アサギマダラを食べたクモは、「ぺっ、まずいや」と言って逃げていく。その毒は、食べる草から仕入れる。しかし、カマキリなど、その毒に平気なものもいて、アサギマダラも食べられることは多い。
 アサギマダラは、夏に台湾から飛んできて、東北地方などの高原に姿を見せる。秋になると、南へ移動する。そして晩秋には、暖かいふるさとで過ごす。1500キロメートル以上もの大旅行をするわけである。
 どうして、こんな長距離を蝶が移動するのか?
 どうやって海を渡っていくのか。海上では、風に身をまかせて渡るのか、それとも方角を知っていて羽ばたくのか。海を渡る方法は最大の謎となっている。
 喜界島で確認された蝶には、800キロメートル以上離れた和歌山県でマークされて、わずか4日後につかまったものがいる。夜も跳び続けたのか、途中どこかで休んだのか。
 でも、どうやって蝶が1000キロ飛んだとこが分かるのでしょうか。それは、つかまえた蝶にマーキングするからです。蝶の翅(はね)に油性のフェルトペンで記号を書いて放すのです。いまでは1年間に数万頭のアサギマダラにマークをつけて放しているそうです。ちなみに、蝶は1羽2羽ではなく、1頭2頭と数えるそうです。
 アサギマダラの求愛行動は、オスがメスを待ち伏せするタイプだ。オスはメスを追いかけ、メスにフェロモンをかがせて、その気にさせる。交尾は長いときには12時間にもなる。そのあいだじっとしていることもあれば、一方が他方をぶら下げて飛んでいくこともある。
 ちょっとみると、アゲハチョウに似た蝶です。日本中どこにも見かける蝶です。私もマークのついたアサギマダラをつかまえてみたいと思ったことでした。

北朝鮮に潜入せよ

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著者:青木 理、出版社:講談社現代新書
 韓国映画「実尾島」(シルミド)は大変な迫力がありました。まさしく衝撃の映画です。1968年1月21日、北朝鮮の武装工作員31人が板門店近くの軍事境界線を密かに突破し、4日後に、ソウルの大統領官邸(青瓦台)近くにまでやってきて銃撃戦を展開するという事件が起きました。生け捕りされた1人は、今では韓国で牧師をしているそうです。 大統領の首を取りに来た。そう言われて腹をたてた朴正熈大統領は仕返しを命じた。そこで、同数の31人からなる金日成攻撃の特別部隊が創設されたのです。先ほどの映画は、この苛烈な訓練風景を生々しく描いていました。
 この31人を訓練したのは空軍諜報部隊で北派工作のベテランだった金淳雄(キムスンウン)。31人は、やがて24人に減っていた。そして、北侵命令を撤回された彼らはソウルに直訴するべく蜂起するのです。
 この実尾島部隊を主管していたのが、KCIAの李哲熈局長。この李局長は、KCIA次長補として金大中拉致事件においても中心的役割を果たしています。
 私は、この本を読んで、韓国が武装工作員を派遣しようとしたのは実尾島部隊だけと思っていた浅はかさを思い知らされました。その前にも後にも、韓国は大量の武装工作員を北朝鮮に派遣していたのです。1950年から1999年まで6446人いたというのです。そして、これは公式発表で、その実数はもっと多いとみされているのです。
 韓国国防省によると、1951年から1994年までの間に、北派工作員として1万 3835人を養成し、そのうち7987人が死亡または行方不明になったとのこと。実に6割以上です。北朝鮮から武装工作員が南下するだけではなかったのです。私は、認識を改めました。
 問題は、国が全責任をもつという甘言で派遣しながら、現実には、まったく何の手当もしなかったということです。まさしく国が国民を裏切ったのです。
 そうなんです。いつだって国をあてにすることはできないのです。だって、支配層の顔ぶれが変わってしまえば、そこで責任の所在は曖昧にされてしまうのです。それが現実です。なんといっても、組織を動かしているのは、人なのですから。

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