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女甲冑録(おんなかっちゅうろく)

カテゴリー:未分類

著者:東郷 隆、出版社:文藝春秋
 戦国の歴史の中に立ち現れた女武者たち。かの女らの一瞬の光芒、その横顔が鮮やかに描かれています。女なれど、やわか男におとるべきや。そうなんです。日本の女性は昔から男に負けずおとらず、がんばっていました。それは戦国時代でもそうだったのです。
 萌黄威(もえぎおどし)の毛引き具足、白い上帯(うわおび)を締めなし、長(たけ)なる黒髪解いて颯と乱し、金の鉢金つけた鉢巻し、薄紅(うすくれない)の衣の裾引き上げ、紅い切袴(きりばかま)というのが常山御前鶴姫の姿。それに従う女性(にょしょう)たちも、赤あり、黒あり、紅裾濃(くれないすそご)、紫革(むらさきがわ)。男がまとうても派手派手しきを、女がまとえばなおのこと華やかな30余人の女武者姿。
 紫隔子(むらさきすそご)を織付けたる直垂(ひたたれ)に菊とじ滋(しげ)くなして、萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の腹巻に同色の鎧袖付け、三尺五寸の大太刀。箙(えびら)に真羽(まば)の矢の射残したるを負い、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置く。兜は被らず、長(たけ)に余る黒髪を後ろに打ちなびかせ、金の天冠をば頭に置いたる異形の武者が馬を馳せていく。これぞ女武者巴(ともえ)であった。
 緑の黒髪を振り乱し、鳥帽子形(えぼしなり)の兜に小桜縅(こざくらおどし)の鎧、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織。重大の太刀「浪切」(なみきり)、銀の采配を携え手綱を握って大手門に登場した甲斐姫は寄手を押し返す。
 武装した女性が立っている。長い髪を後ろに束ねた童形(わわがた)で、水色の鎧直垂に古式の銅丸をまとい、男のような革包(かわづつ)みの太刀を佩(は)いている。
 いやあ、本当に勇ましい日本の女性たちです。戦国期をたたかい抜いた女たちのあでやかな姿にほれぼれとしてしまいます。
 6つの短編小説から成る面白い本です。

土一揆と城の戦国を行く

カテゴリー:未分類

著者:藤木久志、出版社:朝日新聞社
 土一揆について、最近の通説は自律性のある惣村を単位として整然と組織され、債務証書を土倉(どそう。当時の金貸し)に迫って一人ひとり確認したうえで破ったとか、土一揆による放火や略奪は不測の逸脱に過ぎず、ほんらいの土一揆は、たしかな統制ある行動をとっていたとしています。
 著者は、これに対して、土一揆には激しい暴力的な行動があったことを強調しています。有徳人(うとくにん。富裕者)が、その社会的評価にふさわしい、危機管理の務めを果たさなければ、その徳(富)を実力でもぎ取る、つまり社会的な富の暴力的な再配分は当然だという自力救済の習俗が成立していた。
 飢饉状況は、金持ちの施主(有徳人・分限者)にとっては、安い労働力や資財を楽々と確保するのに有利な環境であっただけではなく、権力者の企てる飢饉のさなかの造作や普請も、権力が集積した富を放出して、飢饉にあえぐ人々に再配分する重要な回路であり、大規模な公共投資という性質を秘めていた。だから、もし有徳人・分限者が世の危機に期待される役割を果たさなければ、暴力による略奪の対象とされた。
 なーるほど、そういうことだったんですね。
 エジプトのピラミッドの建築も単に奴隷労働とみるのではなく、大型公共土木工事とみるべきなんだという学説を読んだことがあります。同じことなんでしょうね。
 民衆の戦争見物というのも、じつは戦場の略奪が目当てだった。村々の一揆の落人狩りなども、その一側面に過ぎない。明智光秀は、村人による落人狩りにつかまり、あえなく生命を落としたのでしたよね。
 これを読んで映画「七人の侍」を思い出しました。一見弱々しそうな村人たちが、実は、ひそかに米も武器も隠し持っていて、いざというときには落人狩りまでしていたのです。あれって、本当のことなんですね。
 いまの久留米市田主丸にあった筑後国の塩たり村には、天文4年(1535年)には庄屋がいたという地検帳があるそうです。庄屋というのは、近世にできあがった村の仕組みだというのが通説なのですが、ここにはもっと早くから庄屋がいて、自分で「作」もし、また、村の代表として「庄屋給」をもらっていたというのです。
 飢饉と戦争が相次ぐ世の中でしたから、暴力も公然とまかり通っていたことを事実として認識する必要があると思いました。

他人を見下す若者たち

カテゴリー:未分類

著者:速水敏彦、出版社:講談社現代新書
 今の子はすぐに怒ると多くの先生たちが言う。それはすべての子どもがすぐに怒るというのではなくて、極端に怒りやすい子どもの数が多くなったということ。
 飛行機のなかで暴言を吐いたり暴れたりする粗暴な迷惑客がこの4年間で5倍にも増えた。子どもだけでなく、大人のほうも同じようです。
 会社では、最近の成果主義の悪影響で、上司や同僚をバカにする社員が増えている。迷惑行為をする人は、周囲の状況、そして社会常識をまったく無視し、自分だけのルールで行動する。そして、それを否定されると、すごく攻撃的になる。
 今の子どもたちは、たとえ内面的に喜びの感情が芽ばえていても、それを抑制している。子どもは言葉や表情で喜びを表現するのを抑制するが、文章には表現しやすいようだ。
 今の子は個人の損得には敏感になったが、社会の損得や他者の損得には共感できず、鈍感になった。日本の若者は、あまり自分に自信をもっていない。
 現代の学生は、クラスなりグループなりを自ら組織することが大の苦手である。リーダー不在なので、まとまって行動することはなく、同じ学科を専攻している者同士でも、一度も会話しないで卒業することも珍しくない。全体のために働くことに対し、煩わしさを露わにする。
 中高年層でうつになる人が多いというが、最近は子どものうつも増えている。うつ状態の子どもは、小さなことですぐに傷つき、めそめそする。そして、気分が沈みがちで、しばしばため息をつく。
 現代の若者は、赤ちゃんのときの誇大自己をそのまま持続させている人が多いように思われる。公の場での発言は、年輩の人のほうが自己批判的、自己卑下的な言動が多く、若くなるにつれて自己肯定的、さらには自己高揚的な言動が多い。
 人間は、本来、常に自分を高く評価していたい動物である。人は自分よりも優れた人物について知りたがっているというよりも、自分よりも劣っている者についての情報を求めたがっている。下方比較の傾向がある。自己高揚欲求は、とくに自尊感情に対する脅威を感じたときに強く働き、その結果として自分よりも下位にある者との比較によって、自分の幸福感を増大させようとする。
 人の自信は、新しい人間関係にある周りの人たちから承認され、賞賛される経験を通じて形成されることが多い。ところが、そんな親密な周りの人たちが少ない社会では、個人の自信も形成されがたい。
 人間は個性化も大切だが、その前に社会化が必要だ。子どもたちに達成感や自己効力感をもたせる環境を設定する必要がある。
 タイトルは刺激的ですが、書かれている内容はしごくもっともなことばかりで、胸に手をあてて私も思いあたるところがいくつもありました。私の子育ても、あれで良かったのかなとつい反省させられてしまいました。といっても、もう遅いのですが・・・。

レーニンとは何だったか

カテゴリー:未分類

著者:H・カレール・ダンコース、出版社:藤原書店
 レーニン神話を解体する、というのがオビの言葉です。うむむ・・・。私は大学生のころ、レーニンの本はかなり読みました。愛読したといってよいでしょう。その理知的で、鋭い分析に、身も心もしびれる思いでした。
 レーニンの父はロシア人だが、その母はカルムイク人だった。モンゴルの血を引き、アストラハンで結婚した。レーニンが父親と同じく、かなり目立ったアジア系の風貌をしており、とくに切れ長の目をしていたのは、この祖母の血によるものである。
 そして、レーニンの母方の祖父は、ジトーミルのユダヤ人で、ユダヤ人商人とスウェーデン女性との子どもであった。だから、レーニンの中には、ロシア人、カルムイク人、ドイツ人およびスウェーデン人の血が混じっている。また、正教、ユダヤ教、プロテスタント人、そしてカルムイク系の仏教も間接的には受け継いでいる。
 レーニンの母親はロシア語、フランス語、ドイツ語の3カ国語を話し、ピアノの名手だった。レーニンの父は高い教養がある。この父も祖父母も、医学あるいは数学の高等教育を受けている。
 レーニンの家は農奴の働いていた領地を有しており、世襲貴族の家柄であった。
 マルクスのロシア人嫌いはよく知られている。しかし、マルクスは常にロシアのことが気がかりだった。うへぇー、そうだったんですかー・・・。知りませんでした。
 レーニンは1906年の国会解散のころ、選挙を議会白痴症と名づけて攻撃した。このころ、レーニンは労働者の蜂起を呼びかけていた。
 1908年、レーニンの党は崩壊しつつあった。1910年には党員は1万人を下まわり、5年前の10分の1になった。社会民主党の組織は消滅していた。
 1910年、マリノフスキー事件が起きた。マリノフスキーはレーニンが目をかけていた活動家の一人だったが、ツァーリの政治警察(オフラーナ)の一員でもあった。当時の左翼陣営には政治警察の手先がうじゃうじゃしていた。
 1917年、皇帝は参謀本部に引きこもり、相変わらず不人気な皇后は大臣の選任を決定し、頻繁に大臣の首をすげ替えた。今や、精神異常の女性の気まぐれだけで政治が行われている。こんな不安感がロシア社会に広がっていた。
 ドイツ当局にとってレーニンは、ロシア政権を崩壊させるために握っている切り札であった。革命の火ぶたを切るために、レーニンは講和を説き、軍隊を解体へ駆り立てる。
 1917年、ドイツにとって戦力を西部戦線へ集中することが急務だった。戦争が二つの戦線で展開する限り、ドイツの決定的勝利は不可能なのだ。ドイツは講和と革命のプロパガンダをまかなうための多額の資金をレーニンに提供した。持参金つきでレーニンはロシアへ帰還することができた。レーニンがドイツから大金をもらってロシアへ帰ったというのは本当のことなのでしょか・・・。
 レーニンは新聞発行手段を握っていた。その資金の出所の一分はドイツから支給されたお金だった。これは他党の資金とケタ違いだった。この本は、レーニンがドイツからもらったお金がいくらだったかまでは明らかにしていません。
 1917年夏、レーニンが発行する「プラウダ」は9万部だった。そして、レーニンの党の各種新聞の総部数は32万部だった。ボリシェヴィキの印刷機は、毎日、莫大な数のビラを印刷した。
 1917年の4月から7月にかけて、ケレンスキーはレーニンを危険な扇動者とみなしながら、長いあいだ過小評価し続けていた。
 1918年1月1日、レーニンは一斉射撃を受けた。車の後部座席に押しつけられて辛うじて銃弾を免れた。
 議会はボリシェヴィキに敵対していた。市内の多くの人士も同様だった。しかし、政府、軍など、すべての権力機関はレーニンの手中にあった。レーニンは議会のはじまるときにいても議員たちが実際に審議を始めようとするとき、これ見よがしに議場から退出した。 全国各地にソヴィエトが出現した。ソヴィエトの参加者数が増大していくと、会議は効力のないものとなった。イニシアティヴは、もっとも活動的で、もっともボリシェヴィキに操作されやすい要素、すなわち兵士たちに委ねられるようになった。
 120人の協力者で仕事をはじめたチェカーは、1年後には職員3万人以上となった。
 トロツキーは、生まれたばかりの彼の軍隊に、敵とみなされた者を情け容赦なく鎮圧し、見せしめの死刑をどしどし執行せよとの指示を与えた。至るところで、良心のためらいもなく銃殺が行われた。戦闘で捕らえられた白衛軍兵士や農民ばかりか、自軍の兵士や将校も厳しい鎮圧を遂行する力に欠けたときには銃殺された。軍は、さらに兵員を増強した。早くも1918年秋には、100万の兵力を擁していた。
 1918年末、レーニンは反抗する農民たちに対してテロル的措置を命令した。
 レーニンは、きわめて早くから、迅速な解決の方を好む意向を表明していた。ロマノフ家の人間を一人残らず、つまり優に100人あまりを皆殺しにする。この提案が1918年7月16日の夜に実行された。ニコライ2世だけでなく、皇帝一家の幼い子どもたちまで殺された。レーニンの殺害せよ、銃殺せよ、流刑にせよという指示の大部分は常に隠密裡に出されている。
 1912年、レーニンは革命の輸出の可能性を信じるのを止めると、直ちに全努力をソヴィエト国家の建設に捧げ、党とチェカー、軍という、己の手によるすべての手段をこの目標のために動員した。
 レーニンは反動的聖職者集団への処刑を実行すべきだと命じた。処刑の数が多ければ多いほど、うまくいくだろう。処刑執行に関するレーニンの指令は遵守された。レーニンの指示どおり、1922年に8000人近くの教会に仕える者たちが粛正された。
 この本は、ロシア革命の内情がレーニンにとってもひやひやするほど危ない綱渡りの連続であったこと、レーニンは、そのなかでむき出しの暴力をためらわずに実行してきたことを暴き出しています。なるほど、戦争と内乱状態では、そういうこともあったんだろうな。平和主義者レーニンというわけにはいかなかったんだろうな。そう思いました。その負の遺産をスターリンはますます大規模に拡大していったということなのでしょう。
 それにしてもタイトルは気になります。何者だったか、ではなく、レーニンとは何だったか、というのです。レーニンは物ではないのです。いくら何でも、という気がします。

日本人はなんのために働いてきたのか

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著者:河原 宏、出版社:ユビキタ・スタジオ
 明治維新後、近代国家としての日本の成功は、しっかりとした中産階級を育てたことにあった。今も、この階層が薄弱な国の基礎は脆(もろ)い。せっかく育てたひと握りの知識層が外国に移住しはじめると、将来の可能性は閉ざされる。
 現代日本では、バブル期までにあった一億層中流の幻想は崩れた。少数の上昇組は金が金を生む金権至上になり、資産を2世、3世に伝えるほかに関心はない。その他の大部分は、ゆっくりか急速にかの差はあっても、中流の座から滑り落ちる運命にある。しかも、経済以上に、日本人から覇気・元気・活気・生気などのバイタリティーが消滅した。こうして四無主義、つまり無関心、無責任、無気力、無感動が生まれる。これが現代日本を表現する精神である。
 大正14年にうたわれた金々節を紹介します。
 金だ金カネ この世は金だ
 金だ金カネ その金ほしや
 バカが賢く見えるも 金だ
 酒も金なら 女も金だ
 神も仏も坊主も 金だ
 金だ 本から本まで金だ
 みんな金だよ 一切金だ
 金だ金だよ この世は金だ
 金、カネ、金、カネ、金、カネ、金だ
 そして、次は昭和4年(1929年)12月29日の新聞記事です。
 金!金!人の世のオールマイティ!金!
 金は現世のみならず、あの世まで征服して、ついに地獄の沙汰まで支配するに至った。人は何のために働き、何のために生きるのかと問えば、ただ一言、金、と答える。これが一般世間の哲学なのだ。
 ええーっ、これって今の日本とまったく同じセリフじゃん。そのまま、今の世相をあらわす言葉として通用するじゃん。つい、そう思ってしまいました。
 1900年から1950年までの半世紀のうちで1930年代は、自殺者数も人口10万人あたりの自殺率も、ともに一番高かった。この時代は前途に希望が見いだせない、生き甲斐に乏しい時代だったと言える。
 日本で顕在化している、人々の議会制度に対する不信感は、具体的には、各種選挙における棄権率の増大という形で広まっている。なんど選挙をして投票してみても、結局、権力を握るのは、特権層か、それにつながる人たちだという思いは、多くの人の意識の底に沈澱している。
 二大政党の対立は、必ずしも議会制度の活性化としては作用しない。多くの場合、二大政党は、装飾の部分に相違を残しながら、本質的には類似のものになってしまう。選挙民は、どっちか選べといわれても、カレーライスとライスカレーのどちらが良いかを選ばされるようなもの。つまるところ、選挙への関心と情熱を失わされる。
 こんな本があるそうです。ハックスリイの『すばらしい新世界』
 労働者階級になる幼児は、本や花を本能的に嫌うようにしつけられる。なぜ、労働者は本を嫌悪するように造られなければならないか?
 成長した彼らは、本など読んで、働く時間をムダにしてはならない。
 花や景色や自然については、どうか?
 これを愛してみても、生産労働には、何の役にもたたない。とりわけ自然愛好の欠点は、それがただで手に入るということ。働く者には幼児の段階から、世の中、ただで手に入るものがないことを、身にしみて刷りこんでおかなければならない。うむむ、そうだったんですかー・・・。認識を改めました。

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