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ミレニアム1(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 スティーグ・ラーソン、 出版 早川書房
 スウェーデン発の小説です。全世界で800万部も売れているとオビに書かれています。読み始めのうちはそんなに面白いのかなあ、なんて冷めた思いでしたが、途中からぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。すごい筋立ての本です。まだ上巻ですし、ミステリー本なので、アラスジの紹介は控えておきます。オビに書かれているキャッチコピーだけ紹介します。
 孤島で起きた少女失踪事件の謎、富豪一族の闇、愛と復讐……。
そうなんです。いろんなものが絡み合って同時進行していくのです。次第に、どのシーンも目が離せなくなり、これが別の話とどう絡んでいくのだろうかと半ばの期待をかきたてられていきます。
 孤島での少女失踪事件といっても、昨日今日の話ではありません。40年も前のことなのです。そんな古い失踪事件の真相究明を主人公が頼まれて動くことになるわけですが、いくらなんでも、今さら分かるはずもありませんよね。ところが、富豪一族の内部では、親ナチと反ナチと、深刻な反目があったことも次第に判明していき、なんだか手がかりらしきものが浮かび上がってくるのです。
 今から40年前と言えば、私がちょうど大学2年生のころでした。長期のストライキに入って授業はなく、毎日、デモと集会に明け暮れていました。それでも本だけは一心不乱にいつも読んでいました。友人たちとも大いに議論をしていましたので、教室が野外にあったようなものだと今になって思います。といっても、真面目に勉強しなかったことの痛みは、今に至るまで自分の心底奥深い所にうずいています。なので、毎朝フランス語を聴いて学生気分を味わっているというわけです。
 この本は、人口900万人のスウェーデンで、なんと、3部作が合計290万部も売れたというのですから、大変なものです。ところが、残念なことに著者は50歳の若さで心筋梗塞でなくなってしまいました。第4部の原稿が200ページほどパソコンに入ったままになっているそうです。なんと……。下巻が今から楽しみです。
 それにしても、スウェーデンって、性について本当におおらかな国のようです。小説の中に出てくる話ではありますが、日本ではとても考えられないような気がするほど、大人も若者も男も女も伸び伸びと性を楽しんでいる気配です。
 庭に土筆が頭を出していました。いつもと違った場所でした。赤紫色のチューリップの花が10本になりました。毎朝、庭に出るのが楽しみです。
(2008年12月刊。1700円+税)

それでも江戸は鎖国だったのか

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:片桐 一男、 発行:吉川弘文館
 オランダ連合東インド会社の日本支店であるオランダ商館における責任者、商館長=カピタンは、貿易業務を終えた後の閑期を利用して、江戸に「御礼」の旅をした。これをカピタンの江戸参府(さんぷ)と呼ぶ。カピタンの江戸参府は、オランダ商館が平戸にあったときから、不定期に行われていたが、寛永10年(1633年)から毎年春1回に定例化された。寛政2年(1790年)以降は、貿易半減に伴い、4年に1回となり、嘉永3年(1850年)までに166回の多きを数えている。
 これは、朝鮮通話使の12回、琉球使節の江戸登り18回に比べて断然多く、注目に値する。そして、カピタンは随員とともに江戸で宿泊し滞在した。そのときの定宿が本石(ほんごく)町3丁目の長崎屋である。本石町はお江戸日本橋に近い。いま、その場所は、JR新日本橋駅のあたりである。
 長崎出島からカピタン江戸参府の一行は、「鳥小屋」まで持ち運び、鶏を飼いながら旅を続けてきた。カピタンが江戸参府で献上・進物用に持参した毛類反物のうち、老中、側用人、若年寄、寺社奉行に贈られた「進物」が、それぞれのお屋敷において「御払物」になって売られた。長崎屋の手を経て、それを引き請けたのが越後屋であった。
 長崎屋はオランダ文化のサロンになっていた。平賀源内も客の一人である。医師の前野良沢、同じく杉田玄白も長崎屋を訪問している。大概玄沢そして青木昆陽も。うひゃあ、す、すごーい。なんと有名人ばかりではありませんか。すごい、すごい。
 若い医師シーボルトは、一か月以上も長崎屋に滞在して江戸の学者たちと親交を深め、情報の収集・資料の交換・買取、対談、教授、診療と、多忙な毎日を過ごした。
 前の中津藩主だった奥平昌高(中津候)は、オランダ語を身につけ、なんとオランダ語の詩まで書いた。うへーっ、これって驚きですよね。フレデリック・ヘンドリックというオランダ名前も持っていました。いやあ、すごいですね、これって。そしてこの中津候は、シーボルトが携帯して運び込んだ小型ピアノを大変気に入ったというのです。江戸時代に日本人がピアノの音を聴いていたとは、まったく想像もしませんでした。
 長崎屋の2階にシーボルトが滞在していたとき、そこは多目的ホールと化していた。民族学・民族学・動物学・植物学・機械工学・芸術学・飲食物の学など、教室であり、研究室であり、レクリエーション室であった。
 すごいですね、すごいですよ。ちっとも知りませんでした。花のお江戸に、こんな長崎屋があったなんて……。
(2008年11月刊。1700円+税)

軋む社会

カテゴリー:社会

著者 本田 由紀、 出版 双風社
 現代日本の社会の軋(きし)みは、一方では端的な生活条件面での過酷さとしての貧困や過重労働というかたちであらわれ、他方では精神的な絶望感や空虚さというかたちであらわれている。
 日本では、新卒時に正社員になれなかったものが、のちに正社員に参入するチャンスは閉ざされがちであり、かつ、正社員とそれ以外の者のあいだには、雇用の安定性や収入の面で、他国と比べて際立った断層がある。
 正社員についても、長時間労働など労働条件の過酷化が生じているが、正社員になれない層の生活上の困窮は歴然としている。そして、正社員になれる確率は、出身階層や本人の学歴と関連している。
 日本で大きな割合を占める私立大学への進学率は、家庭の家計水準を明らかに反映している。
 調査によると、日本の成績上位層には低下がみられないが、成績下位層の比率と点数低下傾向が増大しており、全体ではなく、下方に「底が抜ける」かたちでの読解力の低下が危惧される。
 そして、日本のこどもの顕著な特徴として、勉強が好き、楽しいと答える者、将来の仕事と結びつけて勉強していると答える者の比率が際立って低いことがある。すなわち、日本の教育の最大の問題は、子どもが教育内容に現在および将来の生活との関連性や意義を見出し得ていないことだ。
 ある種の仕事については、正社員と非正社員の境界があいまいになりつつある。名目上は正社員であっても、その処遇や仕事内容に関して非正社員と大きく差がないような仕事が相当の規模で現われている。
 低収入の若年非正社員が若者の3人に1人に達するほどの規模になっている。
なぜ、こんなことが可能なのか? それは、個々の若者が個々の親に依存しているのではなく、経済システムが家族システムの含み資産、新世代の収入、住居、家電などに依存しているからだ。
 これほど大量の低賃金労働者が暴動に走りもせず社会内に存在し得ているのは、彼らを支える家族という存在を前提とすることにより、彼らの生活保障に関する責任を放棄した処遇を企業が彼らに与え続けることができているからだ。しかし、このような企業の家族への依存は、長期的に持続可能なものではなく、非常に脆(もろ)い、暫定的なものだ。
 いま、社会にすごく大きなうねりが起きているのかというと、たとえばいま、手ごたえがあるというのは400人の会場で集会をしたら500人も集まったというレベルでしかない。5000人とか1万人が集まったというほどのことはない。まだまだだ。
 そうなんですよね。有名になった年越し派遣村でも、500人が集まった、ボランティアが2000人やってきたというレベルで大変注目されているわけです。早く、日本でも万単位の大きなデモ行進がなされるようになったらいいな、と思います。私の学生時代には、学生だけでも万単位のデモ行進は当たり前のことでした。ああ、また、古い話を持ち出して…なんて思わないでくださいね。フランスや南アメリカでは、今でもそれが日常的にやられているのですからね。日本人に出来ないはずがありませんよ。貧富の差の拡大を食い止める最大の力は、みんながあきらめることなく、立ち上がることではないでしょうか。
 日曜日、大分からの出張から帰ってみると、我が家の庭にチューリップが5本咲いていました。赤紫色の花です。ブロック塀の近くにツルニチニチソウの紫色の花が咲いています。五角形の花を見ると、いつも函館の五稜郭を思い出します。地植えのヒヤシンスが庭のあちこちで咲いています。紫色の花だけでなく、純白の花もあります。
(2008年11月刊。1800円+税)

アメリカ人が見た裁判員制度

カテゴリー:司法

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 平凡社新書
 陪審制度と裁判員制度を一緒にするのは、陪審制度に対していささか「失礼」なことだ。陪審制度は、個人を公権力から守る最後の砦である。これに対して、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度でしかない。
 ううむ、なるほど、そういう見方もあるのですか……。この本は日本の大学で教えているアメリカ人弁護士の書いた本です。
 日本の法律は、まず、お役所のためにある。アメリカ的考えによると、法律とは市民による市民のためのルールである。このルールにのっとって行動している限り、公権力の介入は受けないし、公権力が介入してきても、そのためのルールに従わなければならない。
 ところが、日本の法律は、まずは国民を公権力に屈服させるためにある。ふむふむ、なかなかに鋭い指摘です。
裁判官は事実を科学的に検証して究明するようなトレーニングは受けていない。重大なことは専門家に任せようという考えには、民主主義の終焉が内在している。
 陪審は、評決にあたって理由を示す必要はなく、評決の内容について責任を取らされることもない。この原則は、陪審にすごいパワーを与えている。それは、法律を無視するパワーだ。うーん、ズバリ、こう言われると、考えさせられます。
 裁判員制度についてのPRパンフレットには、裁判員があたかも裁判の「主役」であるかのように書かれている。しかし、実のところ与えられている権限や決定プロセスにおける影響力の度合からすると、裁判員は裁判官に服従する「脇役」になることしか期待されていない。
 裁判員裁判ははたして誰のためのものなのか? その答えは、裁判官のための制度である、ということになる。いま出来上がった裁判員裁判は、裁判官にとってかなり有利なものである。
 なぜなら、裁判員制度は、裁判に対する批判をなくすためにあるから。司法制度に対する批判回避が裁判員制度の一つの目論見である。裁判員制度は、司法が国民の威を最大限に借りながら、最小限の影響力しか国民に付与しない制度である。今までにあった司法制度への批判を排除しながら、今までどおりの裁判の「正しい」結果、つまり警察が逮捕して取り調べ、検察が確信を持って起訴した被告人が何らかの罰を受ける結果、を実現するための制度である。
 しかし、このように言ったからと言って、著者が裁判員制度に反対しているのではありません。むしろ、逆に、うまく機能してほしい、日本における国民の司法参加がシンボリックなものに終わらなければよいと考えているのです。
 法曹の中で、裁判員制度の行方について一番の決め手になるのは弁護士だろう。
 日本では、いったんお役所を敵に回せば、アメリカより怖い。それも、お役所が「悪い」からではなく、99%善意と良識のある人たちが「正しいこと」をやっているつもりだからこそ怖いのだ。
 うむむ、この本には日本の弁護士として耳の痛いことが満載です。でも、いよいよ5月から始まる裁判員制度について、単に「ぶっつぶせ」などと叫んでいるだけでなく、被告人との十分なコミュニケーションをとって、裁判員裁判の法廷で市民を強く惹きつける弁論をやりきらなければならない時代が到来したのです。すごく胸のワクワクしてくる時代に、いま、私たちは生きています。そう考えると、この世の中にも楽しいことがたくさんあることに気づかされます。
あさ、雨戸を開けると、ウグイスのさわやかな鳴き声がすぐ近くに聞こえます。軽やかな澄んだ声に春を感じます。黄水仙が庭のあちこちに鮮やかな黄色の花を咲かして眼が現れる思いです。
 隣家のハクモクレンが今を盛りにたくさんの純白の花を咲かせていて、あれ、これってどこかで似た光景を見たぞ、と思いました。そうです。ベルサイユ宮殿の鏡の間のシャンデリアをちょうどさかさまにしたような、あでやかさです。花にはいろんなものを連想させ、思い出させてくれる楽しみもあります。
(2008年11月刊。720円+税)

人を殺すとはどういうことか

カテゴリー:司法

著者 美達 大和、 出版 新潮社 
 大変重たいテーマを真正面から考えようとしている本です。いろいろ考えさせられました。
 著者は、2件の殺人を犯し(2人の男性を殺害した)、無期懲役刑に処せられ、長期LB級刑務所に収容されています。むしろ本人は死刑を望んでいたので、刑務所から出たいという希望は持っていないといいます。暴力団にも入った人間ではありますが、幼いころから大変賢くて、父親から将来を大いに嘱望されていたようです。この本に書かれている文章も理路整然としており、いかにも知的で、すごいなあという感想をもちました。
 長期刑務所というのは、残刑期が8年以上ある者が服役する刑務所のこと。罪が重く犯罪傾向がすすんでいるものはB級刑務所に収容されるが、そのなかでも長期の期間となるものを収容するものはLB級と呼ばれる。Lはロングのこと。LB級の刑務所は全国に5か所しかない。
 著者は、昭和34年生まれ。在日1世の父と日本人の母の間の一人っ子として、大事に育てられました。金融業を営んでいた父親は裕福であり、自宅には高級外車があり、小学校送迎用のキャデラックまで専属運転手がついていたそうです。そして、小学校時代からずっと成績優秀だったのです。ところが、高校を中退してから、営業関係の仕事をするようになり、21歳のときに金融業を始めました。
32歳で逮捕されるまで、著者は月に単行本を100~200冊、週刊誌を20誌、月刊誌を60~80誌も読んでいたそうです。いやあ、これには、さすがの私もまいりましたね。私も多読乱読ではちょっとひけをとらないと自負しているのですが、単行本は最高時で年に700冊、今は500冊程度ですし、週刊誌はゼロ、月刊誌となると10冊以下だと思います。やはり、上には上がいるものです。
 著者は、自分には男らしさが欠けていたことに法廷で初めて思い至ったのでした。
男らしさというのは、広い心で相手を思いやることや相手の立場や事情、権利を尊重し守るという寛大な精神と温かさが不可欠だった。
 受刑者が集まる場では、反省や悔いについて語るのは、自分をよく見せようとしているやつだ、おかしなやつだ、変人だ、というような空気がある。
 ううむ、なるほど、これではいかんな、いけないぞ、これって……、と思いました。そんな価値観を逆転してもらわないといけませんよね。
 人の生命を奪うということは、生命だけでなく、過去の記憶や未来の希望もすべて破壊しつくすということである。獄という字は、獣や犬がものを言うと書くが、実際に刑務所内に生活してみると、まさにそのとおりであった。正常な感覚を持っている人間は本当に少ない。
 前非を悔い、真っ当に生きようと模索している収容者は、ほんのわずかしかいない。残る大半は、自分の愚行にも人生にも一切の責任を見出すことなく、自分の生まれてきた幸運や運命に対して目を閉ざしたままである。終生、犯罪者として愧(は)じることもなく、社会に寄生していくことを受け入れている。
 受刑者には、もっと悔いたり反省したりしている人がいるだろうと思っていたが、実際に刑務所に入ってみると、そんな考えはまったく吹き飛ばされてしまった。
 受刑者は感情を失ったように無感動だったり、共感性がなかったりする人が大半である。大半の殺人犯は、ふだんはおとなしいが、倫理観については見事なほど欠落している。初めからない人、服役するうちに消えた人、悪い仲間に流され失った人、怒りの情動でそのときのみ喪失した人とさまざまだが、元来ないか、それに等しい状態である。
 LB級刑務所は、教育をまったく受け入れる余地のない受刑者がほとんどで、懲罰という意義も弱くなり、悪党ランドになっている。
 ここでは犯罪行為について雑多な情報が交換され、受刑者はいながらにして犯罪力の強化に努められる。正常な人がここでは異常とみなされ、良い子ぶりやがってと批判されるような大変なところである。
 うひゃあ、これはすごいですね。これが本当の実情だとしたら、刑務所の矯正教育なんて、まったく絵空事でしかありません。これって、昔から変わらないのでしょうか……。
 刑務所のなかの状況を改めて考えさせられる真面目な本でした。
 先日、仏検(準一級)に久しぶりに合格したことを報告しました。同じ封筒に口頭試問の結果(点数)が入っているのを見つけました。合格基準22点のところ、得点25点でした。やれやれ、です。いま『カルメン』を毎朝聴いています。カルメンとホセの恋物語をフランス語で聴いて、書いています。頭の中が若返ります。
(2009年2月刊。1400円+税)

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