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武士の衣服から歴史を読む

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 佐多 芳彦 、 出版 吉川弘文館
 武士の衣服は、絵画に図像化されているので、その図像をイラストにもしたうえで解説している本です。
 有名な『信貴山(しきざん)緑起絵巻』『伴大納言絵巻』『男衾(おぶすま)三郎絵詞(えことば)』『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』などに描かれた武士の衣服を対象として解説されています。
 「直垂」は「ひたたれ」と読みます。武家の代表的な衣服です。鎌倉時代に武家の幕府出仕の服となり、近世は侍従以上の礼服とされ、風折(かざおり)烏帽子(えぼし)や長袴(ながばかま)とともに着用されました。
 袖細(そでほそ)直垂は、袖が現在の和服のような袂(たもと)をもたず、細めの筒状のもの。袖は、現代人の洋服のように細い。
 鎌倉時代、武士相互のヒエラルキーの視覚指標化が進んだ。
 鎌倉時代の直垂は、絹製のものと布製のものが使い分けられた。
 室町時代は、直垂といえば絹製の裏地のある袷(あわせ)の仕立てのものをさす。そして、これが礼装として、武家服制の頂点にすえられた。直垂が礼装に格上げされたことから、本来の日常着・労働者の面、そして平時の正装を担う大紋や素襖が生まれた。
 足利将軍の家礼を貴族が武士の身なりをして勤めた。
江戸時代には、利便性を優先した肩衣(かたぎぬ)や武士個人の自由な選択が保証された胴服のような衣服が生み出された。
 江戸幕府の服制は、鎌倉幕府以来の武家服制、室町幕府末期から戦国期の衣服と服装習慣を一つにまとめ、そこに朝廷遺族社会の身分秩序である位階制度を組み合わせた。武家の官位の目的や意図を服制を用いて視覚化したのだ。
 木綿(もめん)が日本に伝わったのは、中世の、応仁年間(1467~69)の頃のこと。つまり戦国時代に広まった。したがって、その前の中世前半期にはまだ木綿は存在していなかった。
 『蒙古襲来絵巻』をみると、鎌倉時代の武家社会では、上位者は直垂、下位者は袖細というヒエラルキ
ーが見てとれる。
 源頼朝は、威儀を正す必要のあるときは、必ず水干(すいかん)を着た。鎌倉幕府の家人たちの射芸のおりの正装は水干だった。鎌倉幕府の実権を握っていた執権たちも水干を着た。頼朝は公的な場では水干を好んで着たが、日常生活や通常の政務などでは、狩衣や布衣(ほい)を着たり、ときに直垂を着ていた。
 たくさんの図があり、解説されていますが、残念なことに私には違いがよく分かりませんでした。でも、それなりに分かったこともありましたので、ここに紹介します。
(2023年10月刊。2200円+税)

洞窟壁画考

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 五十嵐 ジャンヌ 、 出版 青土社
 フランスには久しく行っていませんが、それでも何回も行きました。残念なことにラスコー洞窟には行っていません。といっても、現物は現地でも見れないようです。
 洞窟壁画を保存するのは大変難しいようで、人間(見物客)を近づけないのが一番らしいです。まあ、仕方ありません。それにしても素晴らしい絵ですよね。カラー図版が見事です。
 いったい、誰がいつごろ、どうやって何のために、洞窟の奥(天井など)にこんな絵を描いたのでしょうか…。著者はその謎に挑みます。
 著者は1990年代から2020年まで、フランスとスペインで60ヶ所以上の壁画遺跡を訪れ、のべ150回は調査・見学したという経験を持っています。たいしたものです。
 洞窟壁画で描かれている最多動物はウマ。次がバイソン。
 洞窟からトナカイの骨が多く出土しているので、当時の人はトナカイをよく食べていたのだろう。
 洞窟にはサカナの姿も描かれていて、人間の手形もある。
彩色画は赤と黒がほとんど。赤は赤鉄鉱や酸化鉄を含む粘土であるオーカー、黒は酸化マンガン鉄物か木炭。
 ラスコー洞窟だけでランプが130点も発見されている。その明かりをたよりにして即興で描いたのではなく、かなりの準備をしてから、調合ずみの絵具を持って、足場なども準備して洞窟に入って描いたのだろう。
なぜ、なんのために壁画を描いたのかについては、いろんな説があり、まだ定説はない。必ずしも一つの動機からではないのではないか…。
 たとえば、ラスコー洞窟には7つの空間があり、洞窟空間は同質ではない。空間ごとに描かれる動物、描き方、技法が異なっている。
 いつ描いたかは、炭を放射性炭素年代測定法で調べてみるとか、ウラン系列法とか最新研究を生かしている。すると、従来の定説が間違っていたりしている。
 壁画を描いたのは、現生人類の先祖であって、ネアンデルタール人は描いていないとされてきました。でも、今ではネアンデルタール人も壁画を描いたのではないかと著者はみています。
 洞窟壁画について466頁もの大作をまとめた著者に敬意を表します。それにしても1万年以上も、よく消滅することなく、よくぞ絵画が暗い洞窟内に残っていたものです。
(2023年11月刊。4500円+税)

考える粘菌

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 中垣 俊之 、 出版 ヤマケイ文庫
 タンパク質分子は、ブラウン運動によって常に激しく小刻みに揺れ動いていて、細胞の端(はし)から端まで数十秒ほどかけて移動する。これは、小ホールの中に満たされたおびただしい数のグリーンピースがすべて振動しながら、数十秒で端から端まで移動する様子を思い浮かべる、そんなイメージ。いやあ、そんなイメージはちょっと出来ませんよね…。
 単細胞には脳がない。だからどうやって情報処理をしているのか…。一般に、生物の情報処理は自律分散的。
 この本のテーマは粘菌。粘菌は数百種類もいる。アメーバには性がある。そして接合する。ところが、性は2つ以上ある。うぬぬ、性が2つ以上あるとは、一体、どういうこと…??
 粘菌にオートミールを餌(えさ)として与えたとき、絶食させたあとと満腹してからでは、食いつき方がまるで違う。なので、単細胞だって人間と同じ生き物だということが分かる。
 そして、粘菌にも歴然とした好みがある。最も好むのは、有機栽培の、オーガニックのもの。タバコの煙も好まない。
 粘菌は紫外線を浴びると危ないので、すぐに逃げ出す。
 生きものの賢さの根源的な性質を調べるためには、粘菌という生物は、またとない、すぐれたモデル生物。
粘菌を迷路実験すると、粘菌には迷路の最短経路を求める能力のあることが判明する。
 人間の脳のなかにも司令官のようなものは存在しない。誰かが全体を見張っていて、それぞれの管に指令を出しているわけではない。
 粘菌は、決して人のようには考えていないにもかかわらず、結果だけ見れば、あたかも考えたかのように見える。考えていないのに、粘菌は考えている、と言える。うむむ、なんだか分かったようで、分からない表現です。
 いやはや、生物の世界も不思議に満ちていますね…。
(2024年1月刊。880円)

徳川幕閣

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 藤野 保 、 出版 吉川弘文館
 江戸幕府は一見すると盤石(ばんじゃく)のようにみえて、その内情は武功派と官僚派の抗争、そして、先代に仕えていた人たちと新しい主(あるじ)の周辺との抗争が絶えることはなかったようです。まあ、当然といえば当然の現象です。
 私は、当初の内部抗争といえば、なんといっても石川数正の出奔を思い出します。家康を支えていた両組頭の1人(もう1人は酒井忠次)が、いわば敵方の秀吉の下に逃げ込んだのですから、家康のショックはきわめて大きかったと思います。それにしても、石川数正も、よくよくの決断だったことでしょう。
 石川数正が家康の下から秀吉方へ出奔したのは1585年11月のこと。関ヶ原の合戦(1500年)のわずか15年前のことです。徳川氏の軍制の機密が秀吉にもれてしまうことを家康は心配したといいますが、当然でしょう。家康は直ちに徳川軍政を改革しました。
 家康は、石川数正と並ぶもう一人の酒井忠次に対して、「お前でも子どもが可愛いか」と最大の皮肉を言ったということが紹介されています。
 家康が長男の信康を妻の築山殿とあわせて殺さなければならなくなったとき、酒井忠次が織田信長を恐れて、2人の助命のために動いてくれなかったことを恨んでの皮肉だったというのです。なるほど戦国から江戸時代にも、そんな意識があったのですね…。
 この本では家康の側近には4つのグループがあったとされています。
 第1は、武士たちのグループ、第2は僧侶と学者のグループ、第3は豪商と代官頭のグループ、そして、第4グループとして、外国人のグループがあったとしています。外国人とは、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)と、オランダ人のヤン・ヨーステンです。
 第1グループのうち、本多正信と子・正純の親子に対して秀忠側近は反感を抱き、ついには対立したというのです。いつの世も変わりませんね…。
 本多正信と大久保忠隣の対立のなかで、正信が勝利したのは、門閥譜代に対する「帰り新参」譜代の勝利、そして武功派に対する吏僚派の勝利を意味した。これによって武功派は、幕政の中枢からまったく姿を消してしまった。
 二代将軍の秀忠はその晩年までに41人もの大名を改易(かいえき)した。外様(とざま)大名が25人、徳川一門、譜代大名16人。また、大名改易と並んで大名転封を強力におしすすめた。
 三代将軍の家光は、外様大名の「優遇」をきっぱりやめると宣言し、強力な大名統制を始めた。ライバルだった弟の忠長を改易し、ついに自害させた(忠長は27歳)。家光もまた秀忠と同じく大名の改易をすすめた。晩年までに49人の大名を改易した。外様大名29人、徳川一門、譜代大名20人である。
 鎖国は、諸大名を世界市場からひき離し、幕閣新首脳のめざす幕藩体制の仕上げに大きな役割を果たした。
 徳川幕府の骨組みを深く認識することのできる本でした。
(2024年2月刊。2200円+税)

八路軍(パーロ)とともに

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 永尾 広久 、 出版 花伝社
 ようやく改訂、増刷できました。
 モノカキとして書くのは楽しみですし、一冊の本にまとめるのは喜びです。でも、出来あがった本を売るのは大変です。書いているときは一人の作業ですが、本にまとめ、売るとなると、大勢の人の手を借り、たすけてもらわないといけません。もちろん、それが嫌やだというのではありません。本にするのは形として見えますが、売るとなると、まったく見えてこない作業になります。ベストセラーになれば、形が見えてくるのかもしれませんが、そんな状況は期待できませんので、ひたすら各方面に送りつけ、人の噂を高めてもらおうとするしかありません。
 その意味で、本書がなんとかかんとか増刷にこぎつけることが出来たのは、思いがけない人の助けがいくつもあったからです。ありがとうございます。
 なんとかして増刷したかったのは、いくつかの誤記はともかくとして、付加・訂正したいところがあちこちあったからです。その一つが、帝銀事件と七三一部隊の関わりです。
 青酸カリ化合物を扱う手慣れた様子から「犯人」とされた平沢貞通氏のような画家がやれるはずはないと思うのですが、GHQの圧力で、七三一部隊員の方面の捜査は中止させられました。平沢氏は長く獄中について、ついに無念の死を迎えてしまいました。
 この本の主人公の久は関東軍の一兵士として敗戦時、鉄嶺にいましたが、のちに柳川市長をつとめた古賀杉夫氏も満州国の高級官僚として鉄嶺にいたことを本人の著書で知りましたので、そのことを付加しました。
 八路軍から逮捕命令が出たのを知って、満鉄の掃除夫になりすまし、機関車のうしろの石炭車の上に腹ばいになって逃げたというのです。逃げ遅れた日本人の高級官僚13人は河原で銃殺され、その遺体は無惨にも野犬に食い荒されたとのこと。
 古賀杉夫元市長の息子は古賀一成元代議士であり、大学の同級生でもあります。
主人公の久たちは八路軍とともに満州各地を転戦しますが、そのとき、「西の蒙古方面行きのワンヤメヨウ線」に乗ったとしました。「ワンヤメヨウ」とは何か分からなかったのです。満州に詳しい人に照会して、「王爺廟」と漢字で書くことが分かり、白温線という路線だということも判明しました。何事にも先達がいるものです。
 八路軍の百団大戦によって日本軍の拠点が次々に撃破され、両親を亡くした4歳の女の子が八路軍に救出され、日本軍に送り届けたというエピソードを紹介しています。その女の子(栫美穂子)が郷里の宮崎で無事に成人していたのが探し出され、救出した八路軍司令の聶(じょう)栄瑧(えいしん)将軍(80歳になっていました)と北京の人民大会堂で再会したという話です。この女の子の父親がつとめていたのは、井陘(せいけい)炭鉱駅でした。
 満州(中国東北部)をめぐる国共内戦の最終段階にあった錦州改防戦のとき、圧倒的不利を悟った国民党軍の司令官が八路軍に投降してきたとき、八路軍はどうしたか…。八路軍は捕虜に温かく接し、場合によっては旅費まで与えて釈放していたのですが、この司令官と家族を大八車で荷物とともに護衛つきで北京まで送り届けたというのです。このことが広く知れ渡ると、北京・天津にいた国民党軍は戦意喪失・投降する将兵が続出し、双方の死傷者が少なくして決着ついたというのです。
歴史の真偽を知るのはなかなか容易なことではありませんが、こんなエピソードをまじえて生きた歴史をもっともっと学び、生かしていきたいものです。
 ぜひ、この改訂・増刷分を購入してお読みください。ご協力をお願いします。
(2024年4月刊。1650円)

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