法律相談センター検索 弁護士検索
アーカイブ

「伊賀越之」

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版 淡交社
 本能寺の変が起きたのは1582(天正10年)6月2日未明のこと。そのとき、徳川家康たちは堺で何をしていたのか、何のためにこのとき堺にいたのか…。もちろん、このとき秀吉は毛利勢と対峙して岡山あたりにいたのです。
 家康は織田信長の死を知ると、一時は自分も京都に行って光秀と戦って死のうとしたそうです。それは止めてと家来が必死に止めたのでした。そこで、家康主従250人は堺を出て伊賀越えして尾張・岡崎の自分の領地に戻ることにします。
 でも、途中で光秀の軍勢に襲われたら、ひとたまりもありません。なにしろ総勢わずか250人、そして、ろくな武器も持っていないからです。どのルートを通るのか、250人が一団となって逃げるのか、いろいろと考えなくてはいけませんでした。
 この本は、現在の京都府京田辺市で「草内(くさじ)・飯岡の戦い」があったという新説を提起しています。
 完全武装の明智軍1000人ほどと、弓も鉄砲も持たない徳川の兵200人が戦い、徳川方はほぼ全滅したというのです。でも、この戦いによって徳川家康たち50人は無事に岡崎に帰りつくことができたとしています。
 全滅した200人を率いていたのは穴山梅雪など。明智軍がこのとき徳川方に勝利できなかったのは、総大将が行方不明になっていたから。その総大将とは誰のことか…。
 家康が安土に参勤し、京都へ上洛した真の目的は、「織田・徳川同盟」の正常化と修復にあった。
 家康主従が上洛するにあたっての安土城での接待について、信長と光秀の間に軋轢(あつれき)があったという話は有名ですが、それは一体どれほどのものだったのでしょうか…。
 著者は、光秀について、織田政権の畿内統治の要だとみています。
 そして、織田政権の畿内統治は、直接統治ではなく、あくまで光秀を主体とする間接統治だというのです。それほど織田信長は光秀の存在を重くみていたのです。
 信長は、秀吉の注進を受けて、「西国出陣」に明智軍を動員して厄介払いすることにした。信長にとっての意外は反乱が起きないようにしながら起きてしまったこと。
 光秀は、当初から、その間隙(かんげき)を狙っていた。
 この本では、本能寺への襲撃と同時に家康主従へも襲撃するというのが光秀の作戦だったとしています。そして、この家康主従への襲撃部隊の総大将を長岡(細川)藤孝だとするのです。
 徳川主従と別行動をとった200人はオトリの役目を果たして明智軍からたちまちせん滅されてしまいました。この200人を率いていた穴山梅雪は家康のふりをしていたというのです。したがって、穴山梅雪の犠牲なくして徳川幕府は成立しなかった。それで、家康は影武者を引き受けた穴山梅雪の遺族を丁重に扱った。
 穴山梅雪が家康の影武者の役割を果たしたなどという新説を裏付ける資料が、本書のなかに今ひとつ見えてきませんでした。
 そして、信長と同時に光秀が家康も倒そうとしたという点についても、資料による裏付が足りない気がしました。
それでも、新説ですし、従来の通説とは明らかに異なっていますので、面白く読み通しました。
 ところで、「かかわらず」を「関わらず」とする初歩的な誤りが再三目について困りました。「関」ではなく、「拘」です。編集者の校正段階で是正されなかったのが残念です。
 著者より贈呈いただきました。ありがとうございます。
(2024年5月刊。2500円+税)

治安維持法と特高警察

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 松尾 洋 、 出版 教育者歴史新書
 1928年の「3.15事件」、つまり日本共産党の一斉大量検挙が行われ、小林多喜二が当事者への取材をもとにして小説『1928.3.15』を書いた事件のあと、すべての県に特高課が設けられ、警察署には特高主任か特高係事務がおかれた。
 特高警察は、内務省が人事の任免権を握っていた。各道府県の特高課長は、指定課長、指定警視と呼ばれ、内務省が府県知事に任命すべき人物を指定していた。特高警察の活動費である機密費は中央から直接手渡された。
 各地で収集された情報は内務省の警保局に集中され、中央集権機構が確立されていた。警察制度そのものが中央集権的だったが、特高警察はさらに中央集権的であり、特高警察官は一般警察官のなかでの最高のエリートだった。
警視庁の特高部には最多600人、大阪府警察部に150人、大きい警察署で7.8人、小さい署で2.3人いた。在外公館勤務員をふくめ5000人ほどいた。
特高警察の「武器」となったのが治安維持法、なかでも「目的遂行罪」が大いに威力を発揮した。
 目的意識がなくても、当局が「結社の目的遂行のためにする行為をなしたる者」と認定すれば犯罪が成立するというものです。カンパに応じたり、一夜の夜を提供しただけであっても、犯罪として検挙されることになったのです。
 まさしく暗黒日本としか言いようのないひどい治安維持法の怖さを再認識しました。
(1979年4月刊。600円)

シン・中国人

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 斎藤 淳子 、 出版 ちくま新書
 今の日本では、「中国脅威論」なるものが大手を振るって通用し、自民・公明がすすめている途方もない大軍拡予算を支えています。
 でも、それって思い込みでしょう。自民・公明そして維新などの政治家、さらには軍事産業でもうけようとしている人たちによる世論操作に乗せられているだけです。私はそう思います。戦争のないようにするのが政治家の役目なのに、今にも戦争が起こりそうだと危機をあおって、自分たちはひそかに金もうけにいそしむ。それが自民・公明の政治家たちの正体ではありませんか…。
 この本は「脅威」の対象となっている中国の若者たちの実情の一端を伝えています。
 まず私が驚いたのは、中国には離婚にあたってクーリングオフ(「冷静期」)があるというのです。離婚手続申請後の30日間は、手続きをいったん凍結するのです。日本でも、「共同親権」なんて実情にあわない馬鹿げた、しかも怖い手続を導入するより、よほどいいかもしれません。
 さらに驚いたことは、恋愛中の(そして結婚している)男性は、女性にスマホのパスワードを開示する習慣があり、男性は断れないというのです。カップル間では一切の秘密があってはならないというわけですが、果たして現実的なのでしょうか…。
 そして、結婚するとき、男性側は新婦側に結納金を贈る必要があり、今では、その相場が18万元(360万円)になっているというのです。この結納金を新郎側から新婦の家に贈る習慣は2千年以上の歴史があるそうですが、昔はこんなに高額ではなかったのです。
 ところが、一人っ子政策、そして男性が女性より圧倒的に多くなってしまった結果、結婚したければ高額の結納金を支払えということで、年々、高額化していったのです。
 さらに、今では、結婚したいなら、男はマンションを準備しなければいけないという「新しい常識」が定着しているというのです。しかもそのマンションたるや、1億円だったら安かったよね…というほど値上がりしています。マンション購入はカップルではなく、新郎側のファミリー全体のプロジェクト化しているのです。いやはや、お金がなかったら、結婚できないというわけなので、これも恐ろしい社会だというしかありません。
 北京在住26年という日本人女性が、中国人の生活の変貌ぶりを生き生きと伝えていて、驚きながら一気に読み通しました。
(2023年2月刊。860円+税)

ずっと、ずっと帰りを待っていました

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 浜田 哲二・律子 、 出版 新潮社
 1945年4月から5月にかけて、沖縄で日本軍はアメリカ軍の大軍と文字どおりの死闘を展開しました。それは、東京の大本営からアメリカ軍の本土上陸を少しでも遅らせよという命令にもとづくもの。つまり、沖縄の日本軍は全滅してよいから、アメリカ軍と必死に戦い、その前進を少しでも遅らせろというものです。そこでは日本軍が勝利することなんて、ハナから期待されていませんでした。
 アメリカ側で戦史を研究している学者のなかにも、日本軍の頑強な抵抗を乗りこえ、それを踏みつぶすような苛烈な戦いをする意味はなかったとして、アメリカ軍の強引な戦法を厳しく批判している人がいます。沖縄なんかとり残して日本本土の上陸作戦を敢行したほうがアメリカ軍将兵の犠牲はよほど少なかったはずだというのです。それほど、沖縄におけるアメリカ軍の将兵の犠牲は大きかったのです。寸土を争う激闘にどれだけの意味があったのか、アメリカ側からも批判があるわけです。
 そのことは本書を読むと、よく分かります。日本軍の戦い方は、まったく特攻精神そのもの、生還を期さない戦法です。なので、この本の一方の主人公、伊東孝一という、当時24歳の若さで第一大隊長(大尉)として1000人もの部下を率いて戦い、アメリカ軍から陣地(高地)を奪還し、それでも生き残ったというのは奇跡としか言いようがありません。部下の9割は死亡したけれど、大隊長は生き残ったのでした。そして、この生き残った大隊長は、戦後、死んだ部下の遺族600人に手紙を送ったというのです。
 そして、手紙を受け取った遺族から返信がありました。その返信356通を著者夫婦は伊東孝一元大隊長(当時95歳)から預かったのです。著者夫婦は、この356通の返信を発信した遺族(さらに、その遺族)に面談して手渡すのを始めたのでした。
この返信された手紙の8割は北海道在住。というのも、部隊の将兵の所属が北海道だったから。
 1946(昭和21)年ころに発信された遺族を探し出すのは困難をきわめます。当然です。70年以上たっているのですから…。それでもなんとか探し出していきました。
 「どうして、あんなに早く、(アメリカ軍の)上陸直後にやられたとは思いませんでした。少しでも、奮戦した後だったらと、それのみ残念でなりません。過去のことは考えても何にもならず、将来の生活に身を固めて、父の顔も知らない一子、隆を一人前に育てあげ、故人の意思を生かせるべく、決心いたしました」
 その隆さんは、「驚いたなあ、お袋が親父をこんなにも思っとったとは…」と語りました。
 「承(うけたまわ)れば、主人の最期は壮烈なるものにして、その功績、その殊勲は至高なり、ということですが、それは空(むな)しき生命だったとあきらめる道しかありません」
 その子たちは、「私ら兄弟は、青森名物のねぶた祭が大嫌いでした。同級生たちが両親と楽しそうにしているのを見たくなかったのです。運動会の弁当は、近くの畑に落ちている未成熟のリンゴ、校庭から抜け出し…捨てられている実をかじって昼ご飯にしていました」と語ったのです。これを読んで、私はついつい涙があふれ出してしまいました。戦争のむごさは子どもに及ぶのですよね。
 「礎(いしずえ)とは肩書きだけ、犬猫よりおとる有り様ではありませんか。村長も二言目には犬死にだとしか申されません」
大切な息子が戦死したというのに、その代償となる遺族年金は雀の涙だった。これが庶民にとっての戦争の現実です。
「死に水くらいは飲めましたか。遺品など何もありませんでしたか。追撃砲の集中砲火を浴びたとか。肉一切れも残さずで飛び散ってしまったのですか」
アメリカ軍の土砂降りのような猛攻撃の下で、まさしく肉一片も残さず、将兵の肉体は跡形もなく飛び散って死んでいったのでした。本当にむごい戦争の現実がありました。その状況をなんとか遺族に伝えようとした伊東元大隊長の心境を推測するしかありません。
「今は淋しく一人残され、自親もなく子どももなければ、お金もなく、暗黒な遭遇、並みの社会生活から一人淋しく投げ出されたように、国を通じての敗国の惨めさ、路途に迷い、気力を一時は失わんばかりでした」
「赤裸々に申し上げますならば、本当は後を追いたい心で一杯なのでございます。すべてを死とともに葬り去ったなら、どんなに幸福かしれません。されど、残されし、三人のいとし子を思うとき、それは許されないことです。かつては歓呼の嵐に送った人々の心も今は荒(すさ)みにすさんで、敗戦国の哀れさ、ひとしお深うございます。でも、私は強く生き抜いて参ります。すべてを子らに捧げて、それがせめてもの、散りにし人への妻の誠ですもの」
伊東元大隊長は、2020年2月、99歳で死亡。
その生前、戦争は二度と起こしてはならないと語っていたとのこと。
著者夫妻は、356通の手帳の4分の1を遺族へ返還したそうです。大切なことを、よくぞ成し遂げられました。そして、その過程をふくめて本書にまとめ上げられたことに心より敬意を表します。
(2024年2月刊。1600円+税)

人道の弁護士・布施辰治を語り継ぐ

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 森 正 ・ 黒田 大介 、 出版 旬報社
 戦前の日本で人権擁護のために大奮闘した布施辰治弁護士について書かれた本です。
布施辰治自身が治安維持法違反で警察に逮捕されて留置場に放り込まれたときの驚くべき話を紹介します。なにしろ当時は、弁護士が法廷で共産党員の弁護人として弁論すると、それ自体が「目的遂行罪」にあたるとして特高によって検挙されたという時代です。
 1933(昭和8)年11月、両国警察署に布施辰治はまわされてやって来ました。すると、それを知った人たちが、監房で歓迎会をやったというのです。勝目テル(当時38歳)という、同じく治安維持法違反で検挙されていた人が体験記を書き残しています。
 11月7日はロシア革命が成功した記念日だ。何かお祝いをしようと勝目が考えていると、なんと有名な布施辰治弁護士がまわされて入ってくるという。それでは歓迎会を兼ねて革命記念祝賀会をしよう。勝目は親しく話せるようになっていた看守長に話を持ちかけた。すると、看守長は布施弁護士について関東大銘を受けていたらしく、「わしは首になっても賛成する」と即決賛成してくれた。最古参の看守長が賛成というなら、残る3人の看守ももはや異議は言えない。もちろん、上にばれないようにしなければいけない。1日3回、夜の9時が最後だ。それから祝賀・歓迎会をやることになった。
 このとき留置場には、1929年2月に捕まった説教強盗として名を売った30歳すぎの男、神兵隊事件で検挙された右翼もいたが、歓迎会には全員が協力してくれることになった。みな面白いことに飢えている。
 看守4人が手分けして見張ってくれて始まった。各房から代表として選ばれた人が布施弁護士の入っている房の前に立って、それぞれの持ち芸を披露する。説教強盗は物真似を始めた。見事な、本職はだしの物真似だ。自称スリの名人は浪花節(なにわぶし)をうなる。浅草公園の主(女性)はこれまた驚くほど見事なダンスを披露して、拍手喝采だ。やんややんやの拍手で大いに盛り上がっていく。最後に、勝目たち活動家11人が、それぞれの房の格子戸の前に立ち、「インターナショナル」を合唱する。
 歓迎会の終わりに、布施辰治は房の中から感激のあまり声が震えながら、お礼の言葉を述べた。
 「私も、ながいあいだ、不当な勾留に閉じ込められて、あちこち留置場をまわってきましたが、こんなに楽しいところはありませんでした。諸君の今夜の温かい贈り物を私は生涯、心に留めて、諸君とともに闘っていくことを、ここに誓います」
 そして、次に緊張した顔つきの看守たちに笑顔を向けて、こう言った。
 「諸君の予想外の御支持に対して厚くお礼を申します」。軽く頭を下げて「こういう居心地の良いところなら、いつまで居てもいいと思うくらいです」と結んだ。それを聞いて、看守をふくめて思わずみんな手を叩き、大爆笑となった。
 勝目は胸が熱くなり、看守長に対して、「ありがとう、ありがとう」と何度も頭を下げたが、それ以上は言葉にならなかった。あとで、この看守長は、この歓迎会のことがバレて、早期退職に追い込まれたという。
 どうでしょう。信じられない話ですよね。でも、実話だというのです。私は、これを読んで、思わず胸が熱くなりました。本書で紹介されているところに少し付加しています。ぜひお読みください。
(2023年12月刊。1800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.