(霧山昴)
著者 大井 昇 、 出版 長崎文献社
幕末の長崎にイギリス船がオランダの旗を掲げて入港してきた。長崎奉行は焼き討ちを命じたが、警備担当の佐賀藩は当番でありながら出動が遅れ、結局、水や食糧を得てイギリス船は退去していった。直後に、長崎奉行は切腹した。そして佐賀藩主鍋島直正(閑叟)は逼塞(ひっそく)処分になった。これが有名なフェートン号事件のあらまし。
ときは文化5(1808)年8月15日のこと。ヨーロッパではフランスのナポレオン皇帝が全盛期で、オランダはフランスが支配していた。
フェートン号はイギリス海軍のフリゲート艦で乗組員350人。入港して出港するまで80時間。一発の銃声もなく、双方に物的な被害も発生していない。当時、日本側はロシア船の来襲を心配していた。とはいうものの、大砲(石火矢)の設置もされていなかった。
出島のオランダ商館長(カピタン)はドゥーフで、長崎奉行がイギリス船を焼き討ちしようとするのを必死で制止した。フェートン号は風頼みの帆走軍艦。それでも大砲50門を備えていた。
佐賀藩は当番でありながら、奉行所から減番を認められていて、兵士はほとんど佐賀に帰っており、番所に少数の兵しか残っていなかった。
日本側は、フェートン号に対して、4頭の良質な去勢雄牛(出島の牛舎にいた)、10頭ほどの山羊、鶏10羽、梨100個、野菜とサツマイモ、そして薪と水を提供した。イギリス側は対価を支払おうとしたが、受け取ったら交易したことになるので、日本側は受け取らなかった。
「水はとても清潔な大樽に容れられ」ていたとイギリス側の航海日誌に書かれている。
大村・諫早の兵士800人、そして福岡藩から45隻の船に750人の兵士が到着したときには、フェートン号は出港していた。当番の佐賀藩がもっとも出遅れた。
長崎奉行は、イギリス船が出港したあとの夜、庭で切腹した。誰も予想していなかった。41歳だった。
フェートン号の目的はオランダ船の拿捕(だほ)にあった。それで利益を得ようとした。ところが、当時、オランダ船は長崎にいなかったので、目的をとげることはできなかった。
このフェートン号事件のあと、佐賀藩は苦しい藩財政にもかかわらず、軍備の近代化・西洋化を強力に推進し、最新式の大砲を製造できるようになっていきました。
フェートン号事件の詳細を知ることのできる貴重な本です。
(2026年1月刊。1980円)


