(霧山昴)
著者 笠谷 和比古、 出版 新潮選書
論争というタイトルがついているとおり、大変に刺激的な問題提起がされている本です。
関ケ原合戦のあと、西軍に属した大名の領地が没収され、そこに新しい領主が生まれた。もちろん、徳川家康が領地配分を行った。ところが、京都から西には徳川系の藩代大名は皆無。
この西国、九州や瀬戸内海沿岸地帯は、当時は「僻遠(へきえん)の地」では決してなく、文明の恩恵を享受する地だった。この西国地域は、ポルトガル船、オランダ船そしてイギリス船などの外国船が来航し、鉄砲や硝石などの軍需品、洋風衣料や薬品類などの西洋の文物を最初にもたらしてくれる最重要地域だった。このような「垂涎(すいぜん)の地」を家康は、豊臣系大名たちに配分した。なぜなのか……。
関ケ原の戦いで没収されたのは、石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)。また、毛利輝元(120万石)、上杉景勝(120万石)、佐竹義宜(54万石)ら五大名は領地を削減された。それらの合計は632万石になり、その8割の520万石が豊臣系大名に加増として配分された。
家康は、全国一元支配を考えず、日本列島を東国と西国に二分し、自らは東国を統治し、西国については統治は別とする、つまり西国直接統治を回避した。そして、家康は、諸大名の領地配分にあたって、領知朱印状を発布・交付しなかった。なぜか……。
この時点では、家康には領知朱印状を発給する資格・権限がなかった。発給するとしたら秀頼の名前で出すことになる。領知の安堵(あんど)を行う主体は、まだ秀頼にあり、家康ではなかった。えーっ、そうなんですか……。
関ケ原合戦における東軍の主たる軍事力は徳川軍ではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力であった。家康は関ケ原合戦のあとにおいても、まだ豊臣公儀体裁下の一大老の地位を抜け出てはいなかった。豊臣家と秀頼の政治的権威は厳然としており、家康は幼少の秀頼を補佐する政務代行者でしかなかった。うむむ、そうなんですね……。
家康は、領地配分にあたって、使者を巡遣して、口頭で伝達していた。このころはまだ、秀頼が成人したときには天下人として君臨することが、当時の武家社会における共通認識だった。
家康が将軍に在職していた当時は、江戸城はなく、建設途上だった。神田山を切り崩し、その土砂で日比谷入り江を完全に埋立し、あわせて台地部分の平坦化を実現した。
二代将軍秀忠のころまでは、家康や秀忠は上済して伏見城や二条城にいて、各地の大名と会合していた。諸大名にとっては、京都が全国政治の中心地であり、京都参勤が常態だった。
家康は、秀頼の存在を否定ないし抹殺して征夷大将軍になったのではなく、秀頼の支配体制から離脱して新たな政治体制を構築した。二重公儀体制である家康は、豊臣家とは共存の道を探り続けた。
秀頼と千姫との婚姻は、母方いとこ婚。彼らの母である淀殿とお江の方とは、浅井姉妹の姉と妹であった。この婚姻を通して、徳川と豊臣の両家が濃密な親戚の関係となり、そのうえで、東は徳川が、西は豊臣が、それぞれ分有し、棲み分ける国制を家康は考えていた。
秀吉・家康の時代における征夷大将軍は五位相当というのが通念だった。これに対して、関白は正二位より上だった。だから、関白だった秀吉は、征夷大将軍の職に何ら関心がなかった。
関ケ原合戦によって、大幅に領地を削減された毛利・上杉・佐竹たちにとって、家康が死ねば、失われた先祖伝来の地を奪回すべき好機到来となる。
ところが、二条城会見のあった慶長16(1611)年3月以降、豊臣家にとって頼みの柱となる大名たちが次々と亡くなった。加藤清正、浅野幸長、池田輝政、前田利長……。福島正則は、もはや一人では力にならない。
大阪の陣において、福島正則、黒田長政、加藤嘉明は江戸屋敷に留め置かれた。彼らの嫡子は家臣・国を率いて参戦した。
大阪城の堀埋め工事は、1ケ月を要する大工事であり、豊臣側の虚をついて、一気に強行埋填したというものではなかった。豊臣家は、家康の死を待つまでの時間稼ぎをしたと考えられる。家康は、大阪夏の陣のとき、74歳。現代なら90代半ばとみることができる。当時の平均寿命は50歳あたり。
家康は6時間も総攻撃をためらった。豊臣家と秀頼を一気に滅ぼすことなく、無力化して大名としては存続することを考えていた。ところが、秀頼のほうが、最終決戦にはやった。
本書では家康の本陣に迫ったのは、毛利勝永隊だとしています。一般には真田信繁が家康本陣に突入したとされていますが、ありえないという考えです。
私と同じ団塊世代の著者の本は、どれも大変刺激に満ちていて、いつも勉強になります。おすすめの一冊です。
(2025年10月刊。1650円+税)


