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商人の戦国時代

(霧山昴)

著者 川戸 貴史 、 出版 ちくま新書

 織田信長が「楽市楽座(らくいちらくざ)」を実施したというのは有名な話ですが、この本によると、信長は楽市と楽座を徹底していたわけではなかったとのこと。

自分の領国内であっても、従来の特権的な商人集団(座)の権益を保障したり、新たに特定の商人集団に対して特権を付与したこともある。市町の復興・振興が最優先課題の場合、被災からの戦後復興を図ったときには楽市と楽座を実施する。しかし、既存の商業活動の維持が地域経済に資すると判断した場合には、むしろ既存の商人の特権を保護する傾向にあった。

 つまり、織田信長は地域の特性にあわせて現実的に対応していたわけです。合理的思考の強い信長ならではのことですね。納得できる分析です。

 戦国時代の利子率がどれくらいだったかということについては、だいたい月4~8%で変動していたとのこと。月4%でも年にすると5割近くになりますので、暴利といえます。ところが、利子が元本と同額になると、それ以上は利子が加算されないという慣例があったとのこと。そんな慣例があったなんて、聞いたことがありませんでした。

 そして、破産した者たちの家財は債権者らが強制的に没収したうえで、家屋には火をつけられて、すべての資産を失っていた。いやあ、こんなことも知りませんでした。

日本では13世紀半ばから為替(かわせ)手形が用いられていた。これは、当初は簡単な送金機能を有するだけだったが、次第に利息付きの借金手形も登場した。要するに、金銭貸借の手段として為替手形が流通するようになったわけです。

 為替は米(こめ)建てと銭(ぜに)建ての2種類があり、前者は替米(かえまい)、後者は替銭(かえぜに)と呼ばれた。

 金銭貸借専門の金融業者は、当初は「借上(かしあげ)」と呼ばれていたが、室町時代になると、蔵(くら)を構える業者が多くなったことから、「土倉(どそう)」と呼ばれた。鎌倉時代末期(14世紀前半)には、京都に335軒もの土倉が存在した。

 荘園管理だけでなく、朝廷や天皇家、そして室町幕府の財務管理を行う土倉は、「納銭方(のうせんがた)」とか、「御倉(みくら)」と呼ばれた。

 越前(えちぜん)朝倉氏の城下町だった一乗谷(いちじょうだに)遺跡には2度行ったことがあります。先日はテレビ番組(録画して見ました)でその意義を改めて確認しました。

 この本によると、城下町には多彩な職人(数珠じゅずを水晶で製造する職人や鋳物師いもじそして、染め物職人など)がいたこと、さらには医師まで居住していたとのことでした。医書の一部が発見され、薬製造のための乳鉢や匙(さじ)も発掘されているといいます。京都に医師はいたけれど、地方都市にいたというのは珍しいこと。しかも、将軍が一乗谷に来たときは「唐人の住所」と滞在という記録があるが、その「唐人」とは医師のことではないかというのです。

 15世紀から16世紀にかけて、身分の上下を問わず、あらゆる場面で贈答が繰り返され、それによって政治交渉や裁判を有利に導こうとすることは社会的に当然視されていた。

 中世において庶民が着用していたのは、主として麻を原料とする衣服、帯、麻(ちょま)-これは苧(からむし)、青苧(あおそ)などと呼ばれる。苧麻はイラクサ科の多年草で日本列島各地に自生する植物。自生している苧麻を刈り取って繊維を取り出し、それを織って衣服に加工していた。

 絹製の衣服は権力者などの富裕層が着るもので、庶民層にはとても手が届かなかった。木綿(もめん)は16世紀半ばころから普及していったが、それ以前は栽培されておらず、朝鮮から少量が輸入されるだけであった。

 戦国時代を商人の活躍から眺めてみた面白い本です。

(2025年8月刊。1,050円+税)

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