著者:富岡多恵子、出版社:新潮社
事件のあったのが5月11日。5月27日に大津地方裁判所で開かれた裁判で、津田三蔵は通常の謀殺未遂罪で無期徒刑となった。そして7月2日に北海道の釧路に到着。そのとき、「身体・衰弱し、普通の労務に堪えなかった」三蔵は、9月30日に釧路集治監で死亡した。36歳だった。
裁判のために東京からわざわざ大津までやってきた西郷従道内相は、同じく大津にきていた児島大審院長に対して、次のようにののしった。
「もう裁判官の顔を見るのもいやだ。今まで負けて帰ったことはないのに、今度は負けて帰る。この結果がどうなるか、見てろよ」
いやあ、ひどい裁判干渉の言葉です。三蔵は裁判のとき、次のように言った。
「もはや、わが国法により処断せらるるのほかなし。ただ、願わくは、わが国法により専断せられ、なにとぞロシア国におもねるようなことなく、わが国の法律をもって公明正大の処分あらんことを願うのみ」
津田三蔵は西南戦争に従軍して負傷している。それは、田原坂の戦いではないが、そのときの功績によって勲七等を受け、百円が下賜された。いずれにしても、10年間の兵役に従事したあと、三蔵は警察官になった。
西南戦争で死んだ兵士を悼む記念碑の前にロシア人が立った。そして、皇太子歓迎の花火の音が西南戦争のときの戦場の光景を三蔵に思い出させ、凶行にかりたてていった。
津田三蔵の大津事件の真相が、三蔵自身の手紙などから明らかにされていく過程は、ゾクゾクするほどの面白さです。
このとき日本で負傷したロシアのニコライ皇太子は23歳。そして、50歳のときに皇帝を追われ、レーニン治世下のソ連で一家もろとも銃殺された。
いろいろ知らなかった事実を知ることができました。
(2007年3月刊。1680円)
湖の南
