(霧山昴)
著者 早島 大祐 、 出版 講談社現代新書
徳政令が発令されると、土地を売り払った人々が売った土地の返還を要求する事案が頻発した。そこで、土地を買った側は、買いとった額の1割から2割を追加で支払うことによって、売買を確定させていた。それを示すのが、徳政落居状。
徳政令によって債務が破棄されることを人々は初めのうちは歓迎していた。しかし、16世紀の終わりころには、忌避すべき悪玉的存在になっていた。
中世の社会では、借りたお金は返さなければいけないという法とともに、利子を元本相当分支払っていたら、借りたお金は返さなくてもよいという法も、条件つきながら存在していた。
中世の金融業者は、12~13世紀の借上(かしあげ)、そして13世紀からの土倉(どそう)がいた。中世の利子率は、一般に日5%。年にすると60~65%。
祠堂銭(しどうせん)金融というのもあった。祠堂銭とは、永代供養などを目的に寺社へ寄進された資金を安定して運用するための金融のこと。元本保障と引きかえに、月2%という低利で貸し付けがなされていた。
遣明船は、うまくいったら、200億円という巨大な利益が得られた。ほぼ毎年のように派遣されていた。室町幕府は、これによって、朝廷や寺社を圧倒していた。足利義満は、これでもっていた。ところが、次の足利義持は日明貿易を中心にしたので、この貿易利潤を失ってしまった。
人々の不満を馬借(ばしゃく)たちが結びつけることによって大規模な蜂起へと結実した。残された手段は実力での債務破棄しかなかった。これが求めていた徳のある政治だった。
蜂起した一揆は債務破棄という大きな成果を手にした。ところが、債務破棄を徳政だと主張した人々の思惑を超えて、徳政がひとり歩きを始めた。
室町幕府四代将軍・足利義持の時代、応仁32(1425)年に幕府は民事訴訟制度を整備して、利用を呼びかけた。その対象には地下人(じげにん)と呼ばれる一般の人々も含まれている。幕府の法廷に一元化され、幕府法が寺社法の上位に定置された。
分一(ぶいち)徳政令が発布した。幕府は、徳政を認めるかわりに、帳消しにした額の10分の1を幕府に納めさせた。「分一」とは、「〇〇分の一」というのに由来する。借金を帳消しにするかわりに、幕府に負債額の1割をよこせという法令。その背景には、室町幕府の財政難があった。
ところが、分一徳政令によって1割を収納するはずの幕府には、担当者が1人しかいなかったことから、きちんと取り立てることが出来なかった。担当者は、1人から20人に増やされた。
借用ではなく、「誘取(さそいとり)売券」という売買の体裁をとって貸付がなされるようになった。徳政令の対象とならないように、借用書ではなく、売券をつかってお金を貸した。土地を担保にして「貸した」のではなく、担保地を「買った」という体裁とした。
やがて、徳政令は戦争と一体化し、徳政には戦のにおいがつきまといはじめた。徳政に対する嫌悪感が強まった。徳政一揆そして徳政令の内実が軍隊による略奪を追認するものへ変化したため、徳政令は人々に忌み嫌われるようになった。徳政は、経済慣行だけでなく、中世社会の絆までも破壊しはじめていた。
徳政指置(さしおき)状は、土地売買を徳政から保障する文書。そして、徳政落居状という独自の方法による土地売買契約の保障が行われた。徳政によって、地域社会の疲弊は極限にまで達していた。
日本中世の貨幣経済は中国からの輸入銭に依存していた。その輸入が15世紀末ころに不調となった。江戸時代の石高(こくだか)制は輸入銭の不足も原因となっていた。
借銭を帳消しにすることを庶民が求めたあと、実は、それがむしろ嫌われるようになっていったことがよく分かる本でした。
(2018年8月刊。880円+税)
チューリップが咲きはじめました。3月15日(日)には初めて2本の花を見つけましたが、午後には6本の花が開いていました。
22日(日)には、もう数え切れないほど花が咲いています。
朝、雨戸を開けると、チューリップの色とりどりの花が出迎えてくれます。春が来たことを実感させてくれます。
赤、真紅、黄色、白そしてまだら模様の茶色など、本当にカラフルで、見ているだけで心がなごみます。
花粉症さえなければ、春は最高なんですが・・・。


