法律相談センター検索 弁護士検索

古墳時代の歴史

(霧山昴)

著者 松木 武彦 、 出版 講談社現代新書

 古墳は氏族のシンボルだった。古墳群は、そのつながりの拠りどころとなる血縁関係を、墓の並びという形で視覚的に表したもの。氏族とは、血縁の意識、ないしは同じ祖をもつという共通認識をきずなとして結びついた人々の集団である。実際に血はつながっていなくても、同じ祖をもつことにして、氏族のメンバーになることもある。

 氏族とは、実際の血のつながりよりも、それを軸にした意識や知識、すなわち祖先からの系譜やそれにまつわる神話・祭祀・世界観・価値観、あるいは生産や手工業の技術などまでを広きにわたって共有し、形にし、守り伝えるための結社のようなものである。

 古墳は東日本で発生した。北部九州は、墳丘のない無数の埋葬が群衆する集合墓地が主で、わずかな墳丘墓も、その中に埋もれて点在するだけ。遠距離交易と水田開発が古墳出現の基礎となった。傑出したスケールで築かれるのは、纏向(まきむく)の古墳群で、それまでの古墳群に比べ、核となる民族長の古墳は格段に大きく、かつ前方後円形を基調とし、階層性がはるかに強い。

 ヤマトによる武力統一を想定するならばあるはずの、大規模な武力による征服や衝突の考古学的痕跡は見つかっていない。

 古墳を築く氏族が各地に発生し、西方にも古墳が広がっていった。博多湾の西に面する糸島平野の平原(ひらばる。糸島市)の古墳からは、鏡30面、中国風のこしらえをもった長い鉄刀、珍しいメノウの管玉、ガラスの勾玉(まがたま)、連玉(れんだま)などの副葬品が出土した。鏡のうちの5面は中国産、ガラスの連玉は地中海原産と考えられる。

 箸墓(はしはか)古墳は、それ以前の纏向の前方後円墳の長さ3倍、体積10倍以上という、飛躍的な存在である。規模だけではない。墳丘が幾何学的な立面形になっている。

 箸墓は後円部が散弾に築かれて、高くそびえる。幾何学的な立体形が際立つ。また、葺石(ふきいし)や円筒形をしたスタンドの土製品(円筒埴輪)などのエクステリアが完備されている。箸墓の築造年代は、250年から260年前後ころ。したがって、卑弥呼の墓ということはありうる。

 吉野ケ里遺跡は、規模や他地域産土器の示す物流の量や拡がりの点で大きく劣っていて、邪馬台国とみるのは難しい。

 現在の考古学からは、邪馬台国が九州か近畿かは確言できない。しかし、西地は「邪馬台国」体制のもと、ほぼ一体の枠組みの中にあったとみれる。

 前方後円墳や前方後方墳は、箸墓や卑弥呼より前にすでに存在していた。

 4世紀中ごろのヤマトには、「畿内中枢勢力」と言えるような一つの安定した政治主体が確立していたわけではなかった。「諸王の割拠」する時代だった。

 卑弥呼の邪馬台国は北部九州にあったと私は信じているのですが…。

(2025年10月刊。1210円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.

タイトルとURLをコピーしました