(霧山昴)
著者 塩出浩之 、 出版 中公新書
明治政府が琉球を力でもって強引に支配したことを改めて認識しました。
徳川幕府は、島津氏に対して、琉球という国家の存続を前提に、その支配を認めた。琉球に日明貿易を仲介させるには、琉球が明の朝貢国であることが不可欠だった。明は、琉球を属国として維持することを重視し、引き続き朝貢を許した。琉球からすると、中国と日本の双方に付属することで、どちらにも完全には支配されず、一つの国家として行動する余地があった。
1879年3月11日、明治新政府の太政官は琉球に対する一連の通達を発した。その要点は三つ。その一、廃藩置県を実施する。その二、沖縄県を設置し、県府を首里に置く。その三、尚寿を東京に居住させる。
そのため、警察・軍隊を沖縄に動員した。警官160人、熊本鎮台分遣隊の380人が松田「処分官」に同行した。3月31日、日本の官吏・警官・兵員が首里城に入場して接収が完了した。4月4日、日本政府は沖縄県の設置を布告した。日本政府が警察と軍隊を動員して実施した琉球処分に、琉球は逆らえなかった。
しかし、琉球の人々の抵抗が始まった。土族たちは、沖縄県政に対して非協力の姿勢をとった。各地の役人たちは、辞令書の受け取りを一様に拒んだ。土族たちは、いずれは清の助けを得て、琉球を復国するつもりだった。
日本政府側は尚泰の上京こそが最優先の課題だと判断した。
5月7日、勅使と天皇の侍医が東京から沖縄に向かった。初代の沖縄県令である鍋島直彬(なおよし)も同じ船で沖縄に赴任した。
5月27日、尚泰は、ついに東京に向かった。一行総勢は100人ほどで、那覇港には見送りのため数千人が詰めかけた。6月9日、尚泰は東京に到着し、6月17日、天皇に謁見した。
6月から沖縄県庁による弾圧が始まり、9月に収束するまで続いた。奉職命令を妨害したとして警察に拘留し、拷問した。その人数は300人から400人。その結果、ついに県庁への奉職を誓約した。
清の北洋大臣の李鴻章は介入には消極的だった。結局、宮古・八重山諸島を清の領土とし、残るは日本の領土とする案を受諾することにした。清にとって重要なのは、日本とロシアによる挟みうちされるのを避けることだった。
沖縄には、黒党、頑固党、開化党の三派があった。運動の手段は異なっていたが、琉球復国という目的は同じだった。
琉球処分の実際を初めて詳しく知ることができました。
(2025年6月刊。1100円+税)


