(霧山昴)
著者 益田 肇 、 出版 岩波書店
戦前の日本が、なぜアメリカとの戦争という、今思えば明らかに無謀で、勝てるはずもない戦争に突入していったのか…。その鍵を解き明かそうとする大作(2段階、580頁)です。
つまり、いわゆる庶民、人々が戦争を欲しがったのです。
日中戦争がはじまって以来、国内の経済はきわめて好調だった。たとえば、大阪では、市民の総所得は1937年に3憶7753万円だったのが、1940年には9億6503万円と3年で2.5倍以上も上昇した。多くの人々が、その温かい懐具合でもって百貨店で買い物したり、レストランやカフェで食事したり、映画館に行ったり、また遊郭に行ったり、都会のさまざまな娯楽に興じていた。
大阪の私鉄、市電の乗客は1.2倍、運賃収入20%増、貨物収入30%増(1938年と1939年の比較)。料理屋は15%の売上増、カフェは20%増、大衆的居酒屋は32%増となっている。花街もにぎわい、客数は25%増、遊女や芸者への揚げ代も29%増となっている。
同じことは、農村部でもいえる。米価やまゆ相場、木材相場の値上がりのなかで、ずばぬけた好況にあった。
日本の輸出総額は台湾向けで3倍、朝鮮向けで4倍、満州向けで10倍となった(1929年と1940年の比較)。日本の総輸入の42%、総輸出の67%が対植民地貿易で占められた。
大阪に居住する朝鮮人は41万人(1941年)。日本内地の朝鮮人の3分の1が大阪にいた。
農村地帯に住む多くの農民にとって、兵役に召集されて出征することは、必ずしも絶望と苦肉を意味しなかった。それどころか、軍隊に入ることは、近代的な生活を手に入れるための現実的な機会を意味していた。目が回るほど、忙しく、苦しい農作業からの解放を約束するものだった。「毎日の入浴」、「仲々良い」食事、「立派な革靴」などが支給され、それなりの給料をもらえ、家族に送金できることを誇りに感じていた。農村に生まれ、若いうちに学校をやめて働きはじめた者にとって、軍隊は一種の教育の場であり、自らの才覚次第によっては、社会的に上昇していくことを可能にする場でもあった。召集令状を受け取ったとき、「シメタと叫ぶほどうれしかった」という青年がいた。
国防婦人会は、大阪の主婦(44歳)が40人ほどで、1932年に始めたもの。それが1年間に10万人、10年間で1000万人の会員を擁する、国家戦争の遂行に協力する、もっとも影響力のある愛国団の一つになった。
多くの人々は、ひかえ目と言っても、かなり肯定的、もっと端的に言えば、かなり熱狂的に日本の戦争を指示し、主体的にそれに参加していた。
満州事変直後に盛り上がった好戦的愛国主義とでも呼べるような戦争熱は、日露戦争で勝ち得た満蒙権益がなし崩しにされつつあるという論理が背景にあった。
満州で起きた万宝山事件のあと、東京帝大生の意識調査では、88%が満蒙のための武力行使を正当だと答えた。
1931年9月、朝日新聞社が満州事変の拡大に慎重の論説を書くと、大規模な不買運動が起きた。すると、新聞の売れ行きが、3万部減、5万部減と急激に減っていった。朝日新聞は役員会議を開いて、社論の転換と軍部を支持する方針が定められた。官憲の弾圧というより、社会的圧力に圧したということ。
渋谷駅に今もある忠犬ハチ公の銅像は、1935年にハチが死んだあと、全国から寄せられた香典18万円(今の9億円)による。犬ですら自らの本文を尽くし、役割を果たし続けた。なので、人間がそれを果たさなくてどうするという問いかけが社会的に大々的になされたということ。
南京大虐殺事件を引き起こした日本軍は、統計20万人もいながら、ほとんど食糧等の補給なしに、現地調達でやってきていた。食糧の略奪、捕虜の虐殺、不軍紀の横行は必然的結果だった。
1941年夏ころには、即時開戦論を唱えるような熱気があり、日米戦争を回避するための糸口を操っていた政治家や軍人、政府高官たちを圧倒していった。
「背後から来る、暗いうねり」に、もうどうにもならなくなった。この強烈な時代の傾向は、「無言の力」「時代の圧力」「世論的なもの」といえる。
当時、多くの人々は、二つの戦争、それまで延々と続いていた、それぞれなりの社会戦争と、新たに拡大した国家間戦争を同時に戦っていたことになる。
いやぁ、実に勉強になる本でした。ご一読をおすすめします。
(2025年9月刊。4730円+税)


