(霧山昴)
著者 森本 惇生・鈴木 亘 、 出版 水声社
落語というのは明治なってからで、それまでは「落とし噺(ばなし)」と呼ばれていた。落語家も「噺家(はなしか)」と言われていた。
落語という芸能は、その起源は前近代にさかのぼるとしても、笑いの近代的大衆化の一環として明治以降に確立した芸能。ふえーっ、そ、そうだったんですか…。
落語は、演者が見えなくなることで成立する話芸。観客は語っている演者を意識せずに、演者が発する登場人物の語りの展開を通して物語の世界を想像する。
落語は騙されようとする観客をその望み通りだまし満足させる芸。演者の姿がいつのまにか消えて、登場人物が見えてくるのが芸人の極致。江戸期に誕生して以来、多くの噺家によって創作され、受け継がれ、また改良を加えられてきた落語という話芸は、日本人が繰り返し立ち戻ってきた虚構世界。
落語は、文学や戯曲などとならぶ言語芸術のひとつ。落語家は衣裳も書割(かきわり)もなしに、扇子(せんす)と手拭(てぬぐ)いのみを使って、自分の言葉だけを頼りに噺の世界を描ききる。
高座にあがった落語家は、まずは素(す)の自分で話はじめ、時事ネタなどを使って枕に入っていく。
落語は常に、素の落語家とマクラという、話の本体とは異なる次元によって枠付けられており、フィクションであることが、そもそもの初めから明示されている。
落語にはサゲ(オチ)があり、話の終わりには今まで話したことが冗談であったことが暴露される。サゲというのは、一種のぶちこわし作業。いかにも本当らしくしゃべっておいて、サゲでどんでん返しをくらわせて、「これは嘘ですよ。おどけ話ですよ」という形をとるのが落語。
落語は、聴き手に自分の想像力で話の世界を作り出させる芸。
古今東西を見渡しても、落語ほど貧乏人や阿呆を登場させ、彼らの生活や言動を描き、そこから共感に満ちた姿勢で笑いを引き出してきた芸能はないだろう。
落語を成立させている視点は常にこうした貧乏人や阿呆とほぼ同じレベルに位置している。
マクラとは、演者が直接に観客に語りかけることの出来る、貴重な自己表現の場である。
師匠のいないプロの落語家というのは存在しない。師匠がいるかいないかが落語家とお笑い芸人の違いだ。
落語家は、師匠に入門すると、見習い修業(半年ほど)を経て、前座(3年から5年ほど)になる。見習いのときから師匠の身の回りの世話をし、前座になると、寄席(よせ)やホールで他の師匠や先輩たちの世話もする。いま何が必要なのか、瞬時に察知し、全体がうまく回るように配慮し続けなければいけない。自分を殺すのが前座の修業時代。あらゆる時期の修業は、噺で笑いをとるための知識や技術の習得に向けられている。
師匠は弟子の前で、一つの話を、日をおいて3回喋(しゃべ)る。弟子は、その3回で噺を覚え、4回目は弟子が師匠の前で噺をして、講評を受ける。
「聞いて覚える」「見て覚える」という「模倣」が伝授の基本。「形」を細かく要素に分解し、それを難易度順に配列して、段階を踏んで徹底的に反復するという西洋式の教育方法はとられていない。
落語とは何かが、少しわかったような気になりました。寄席に行ったことはありませんが、前はCDでよく聴いていました。今なら、オーディオブックですね。目が悪くなって本を読めなくなったらこれでいくつもりです。それにしても、落語を聴いてスカッとした笑い、腹の底から笑い転げるというのはいいものですよね。静粛であるべき場所にいて、イヤホンで落語を聴いていたら悶絶しそうになりますよね、きっと…。
ものすごく勉強になりました。落語に関心ある人には必読の本だと思います。
(2025年3月刊。2750円)


