(霧山昴)
著者 山田 洋次 、 出版 大月書店
1978年に文庫本で刊行されたものの新装版です。フランス人ジャーナリストのクロード・ルブラン(『山田洋次が見てきた日本』の著者)が解説しています。
1978年というと、山田洋次監督はまだ47歳、寅さんシリーズもまだ途中のころです。さすがに含蓄のある話が盛り沢山です。
映画に力があるかないかは、どうしてもつくらずにはおれないという内部に燃えあがった最初の衝動の力の強さの度合いによる。なるほど、そうなんでしょうね…。
脚本をつくるときは、3人くらいの仲間と相談しながら書いていく。脂汗を流し、食欲を失い、ときにはノイローゼ気味になって苦しみながら考え出す笑い話が、作品となったときには、そのおかしさだけが伝わり、生みだすまでの苦しさ、つらさは消えてしまっている。そうでなければならない。この映画の作者たちは、冗談半分に、いつも気易く、軽々とつくっているのではないかと思わせるようでなければならない。そのためには、どうしてもつくり出すプロセスのなかで作者が楽しんでいなければならない。なるほど、そういうものなのですね。
血のにじむような苦心と努力の末に、この作品をつくったのですよ、と観客に訴えたとしても、それは作品の値打ちとはあまり関係がない。作者が実に気楽に、それこそ小鳥がさえずるように軽やかにつくっている様子が想像できて、観客も気持ちよくなってしまう。そんな作品をつくることこそ、本当の苦労がある。いやぁ、そういうものなんですか…。
芸術は、もともと人を楽しませるためにあったはず。
人間には常に毒があるが、その毒を笑いで吹き飛ばしているところに落語の健康さがある。なので、落語を愛する庶民は健康なのだ。落語における笑いとは、人間を客観的にリアルに描いたときに起きる共感の喜びのようなもの。
映画の本質はモンタージュである。映画は嘘。現実にはありえない人物を創造して、その人物があたかもその辺にいるような、いや少なくともいてもおかしくないと観客が感じるようにしなければならない。
作品をつくるうえでもっとも大事なことは、さまざまなことがらを体験する、ふと見る、本を読む、人から聞く、なんでもいいけれど、そうしたことから何かを深く感じることのできる人間でありうるかどうか、つまりモチーフをいただきうる人間でありうるかどうかということ。
自分の書く脚本、自分の演出について、常に疑問を投げかけていく。本当にこれでいいのか、間違ってはいないかと疑いをもち続ける精神を大事にしたい。
俳優にとって、その日常と変わりない動作を演技としてできるということは、それができたら一人前の俳優と言っていいほど難しいこと。カメラの前で、日常をふるまうように自然に演技をするためには、実は大変な努力と緊張が必要なのだ。
俳優がカメラの前に立つと、監督には、その俳優の生い立ち、素性がよく分かる。生い立ち、素性というのは、いい仕事を経験してきた俳優なのか、そうではない俳優なのか、ということ。
私も、モノカキに精進している者として、山田洋次監督のこれらの指摘はズバリ胸に刺さりました。ちょうどいい具合に新装版が刊行されたことに感謝するばかりです。
(2025年10月刊。2200円)


