(霧山昴)
著者 洪 性宇・韓 寅燮 、 出版 社会評論社
あまりにも興味深い本なので、読みはじめたら止めることが出来ず、400頁もの大作ですが3日間、没頭して、ついに読了しました。私は読みながら、ここは大事だなと思うところは赤エンピツで傍線(アンダーライン)を引いていくのですが、今回はあまりに多くて、ほとんどの頁が赤くなってしまいました。
この本は軍部独裁の暗黒期に人権弁護士として敢然と戦い抜いた洪性宇(ホンソンウ)弁護士をソウル大学校法学専門大学院の韓教授が100時間も対談インタビューしたものをまとめたものです。そして、日本文にしたのは、徐勝・立命館大学法学部元教授なので、とても読みやすい日本文になっています。
苦難の時代を生き抜いた洪弁護士の活動状況をつぶさに聞き出すことによって、法律学は何で生きるのか、人間はどのように生きていくべきかを考えるとき大きな刺激剤になってくる本です。
洪弁護士はソウル大学法学部を卒業して裁判官を6年つとめました。そしてソウルで刑事地方院の単独判事をしていたとき、司法波動に直面しました。「司法波動」とは、聞き慣れない用語ですが、日本でいう司法反動の嵐に直面したという意味に理解しました。
部長判事が現場検証で地方に行ったとき、性的接待を受けたことを検察が暴露したことから司法波動が始まりました。韓国では、弁護士が裁判官を接待するのは当然のことで、それをしない弁護士は変な目で見られるのです。今日ではなくなっているとされています(根絶したのかどうかまでは分かりません)。
裁判官たちは告発した検察に怒りました。検事たちの不正は、法院の不正より、はるかに規模が大きくて多かったのに、検事が判事に尾行をつけて不意打したことに判事たちが怒て、衆議一決、全員が辞表を提出することになったのです。新聞に「刑事法院の判事、集団辞表」というトップ記事になった。
そのあと、洪判事は本当に法院を辞めて弁護士になった。司法波動のあと、法院に情報部(KCIA)の職員が常駐しはじめた。
洪判事は、34歳のとき(1971年10月)、弁護士になった。それは、判事の給料が低くて、授業の教員よりも安かったから。家族を養うための辞職だった。弁護士になってからは、一生けん命に仕事して、お金もうけをした。おかげで少し余裕ができた。しかし、毎日酒盛りする生活に疑問を抱き、深刻な後悔心がフツフツと沸き上がってきた。
1974年、洪弁護士が37歳のとき、民青学連事件が起き、誘われて弁護士となった。民青学連で拘束され裁判を受けた数十人のほか、名前が出ただけで100人をこえた。彼らは1970年代の反維新闘争、民主回復運動の主人公だった。
すごく恐ろしい事件だった。裁判は、軍事裁判で、民間の法院ではなかった。それは、国防部の建物のなかの法廷。傍聴者は制限された。一審判決は、死刑宣告が7人、無期懲役宣告が7人、ほかの人も懲役20年とか15年…。ひどいですよね。
公判は週に3回もあった。裁判を終えて自宅に帰った洪弁護士の自宅に捜査官が3人やってきて、連行されて2泊3日で調査を受けた。洪弁護士の法廷での弁論が反共法違反という容疑だった。
1973年10月、ソウル法科大学の崔鍾吉教授は南山情報部で疑問死した。この民青学連事件に関連して、支援していたカトリックの司教まで情報部が拘束したことからカトリックが立ち上がり、全国的支援運動となった。
1975年4月7日、人革党事件では、大法院で判決が確定した翌朝、8人を死刑執行した。まさか殺すとは思っていなかったのに…。朴正煕は、本当に恐ろしいヤツだと思った。
弁護士として、一般事件は激減し、借金暮しが始まった。
最近になって、民青学連の判決について、法院はお詫びをし、補償している。しかし、当時、弾圧を受けて人生が狂ってしまった人は多い。それでも、彼らの勇気と犠牲によって、韓国が民主化されるきっかけとなったので、彼らの苦労はムダにはならなかった。
1975年の金芝河(キムジハ)詩人の事件の話もすさまじい内容です。金芝河の自宅にあった走り書きのメモが、「利敵表現物製作のための予備行為」だとして起訴された。ベトナムでアメリカが敗北したころで、「ソウルを死守しよう」という恐ろしい雰囲気の中での裁判だった。拘置所にいる金芝河に良心宣言を書いてもらい、それを外に持ち出すため、少年囚に頼んだ。そして、記者に発表したことで、金芝河は世界的に有名になった。
このとき、田炳龍という看守が拘置所内で協力してくれたことが明らかにされています。これを読んで、私は戦前の浅草警察署の留置場で布施辰治弁護士の歓迎会が盛大にやられたというのを思い出しました。これも良心的な看守(警察官)が協力してくれたからです。
金芝河についての最終弁論を弁護士たちは分担して、夜7時から10時まで3時間以上かけて読み上げた。そして、金芝河自身も原稿なして、数時間も弁論した。すごい俳優だと洪弁護士は感嘆した。
その状況は、有名な「灼(や)けつく喉(のど)の渇(かわ)きで」という詩になっていますが、また歌になって、歌われてもいます。私は横井久美子の歌として聞きました。
事件を担当する判事は、個人的には、良い人、優しい人間。でも、この種の事件では、いい人も悪い人も関係ない。全部有罪判決しないといけない。法院は、すべて外から言われたとおりの判決した。判決文の犯罪事実は、検事の控訴状の公訴事実と同じ。実は、検察のほうで判決文をタイプして、判事の名前までタイプしていた。いやあ、ちょっと、これは、いくらなんでもひどすぎでしょう…。
1977年にソウル大学に入学した、本書の聞き手である韓教授は、当時、法の権威が失墜していたから、法曹志望だとか、法学部生であることすら恥ずかしかったとのこと。これまた、驚きます。
大統領緊急措置では、法官の令状がなくても逮捕・拘禁ができるし、司法的審査の対象にもならなかった。これは、文字どおり白紙刑法。
1970年代後半、労働運動に対する弾圧もひどかった。東一紡績労組事件では、会社側の男子工が人糞を労働の代議員会場に持ち込んで、女工に頭から浴びせかけた。そこで、女工(労働者)たちは、「私たちはうんちを食べて生きていけない」とスローガンを叫んでいたところ、捕まった。
1979年10月26日に、朴正熙大統領が暗殺された。1980年初め、「ソウルの春」があったが、1980年5月17日、軍部によるクーデタがあり、それから光州事件(光州虐殺)が起きた。人権弁護士たちのうち、逃げられる人は逃げた。洪弁護士はまたもやKCIAに連行され、2泊3日、調査された。休業届を書かないと釈放しないというので、休業届を書いて釈放された。ところが、弁護士会が休業届を握りつぶしてくれた。
1980年代半ば以降は、人権弁護士がはるかに増えた。廬武鉉(ノムヒョン)弁護士も加わった。
弁護人の一番大きな役割は、被告たちに勇気を与え、慰めること。弁護士の役割は、拘束状態を免れるようにすることにある。
「悲しみも怒りもなく生きていく者は、祖国を愛していない」
一般刑事犯と政治囚・良心囚は違う。弁護士は良心囚の「良心」を保護するという大原則を立てなければいけない。人間として良心を守ると、一般社会人として復帰したときに、一生の誇りになる。節を曲げて出てきたら、一生堂々と出来ない。この違いは重要。弁護士の役割は政治犯たちの所信を守り、その主張を記録として残すことにある。
拷問場所として名高いのが3ヶ所あった。南営洞は警察の治安本部対共分室。西水庫(ソビンゴ)は保安司対共分室。南山(ナムサン)は中央情報部の地下室。南営洞には、取調室ごとにバスタブを設置している。
水拷問は、人を裸にして七星板にしっかり縛る。そして水を口から注ぎこむ。水を1時間も、飲ませると、腹の中のものを全部吐いてしまう。その次、おならが出て、次に便が出る。内臓を完全に水で洗い流すと失神する。この水責めを2回受けたら抵抗する意思を完全に失い、抵抗自体を忘れてしまう。拷問が終わって拘置所に戻ると、自分の喉から水の匂いがしてくるという。
こんな拷問を受けて、捜査機関の要求するとおりの調書が出来て、検察はそのまま追認する。拷問されたと主張すると、聞かぬふりをするか、まだ拷問の味が分からないのかと脅す。
拷問者は平凡な人々。平凡な人々が恐ろしい拷問を平気でやる。法廷で拷問の事実を暴露しても、判事たちは、聞こえないふりをしてやり過ごす。
1986年に正義実践法曹会(正法会)を結成した。しかし、非公式組織であり、公開はしなかった。1981年から司法試験の合格者が年300人になった(それまで160人)。1984年から、弁護士が年100人に増えた。そこから若い弁護士たちが大勢「正法会」に入ってきて、メンバーは60人近くになった。
弁護士は、政治囚に対して、「きみは獄中にいるが、堂々と仕事をしたのだから、きみの所信を守れるように助けます」と言って励ます。信頼と勇気をもって法廷闘争する意思をもち続けるようにするのです。
女子高校を首席で卒業してソウル大学に入った女子学生が、工場に入って働くことを決意して、別人の住民登録証を手に入れて働いていたのがバレて警察に捕まり、口にするのもおぞましい性拷問を受けた。若い女性を夜中に取調室に座らせて、脱がせたり触ったりしたなんて、想像も出来ない。
この性拷問を本人が勇気をもって自分の名前を出して告発したので、弁護士9人で、それを支援し告発状を捉出した。ところが、検事は強姦は認められないと不起訴処分とした。もちろん、弁護士たちは不服申立をしたし、世間も沸騰した。この女性は1年1ヶ月の獄中生活のあと釈放され、今では韓国で大学教授となっている。洪弁護士は結婚式の媒酌人となった。
いやあ、実にすさまじい裁判に関わる体験談です。でも、洪弁護士は本の表紙写真に見ると、好々爺(こうこうや)あるいは村夫子(そんぷうし)然としていて、いかにも安心して頼れる雰囲気です。
私は、この本を読んでいる3日間は、身体の芯から熱いものを感じていました。日本の弁護士でいうと誰にあたるのかな、戦前だと布施辰治だと思いますが、戦後では…、ちょっと思いつきませんでした。戦後の韓国の政治・司法に少しでも関心を持っているのなら強く一読をおすすめします。
(2025年3月刊。3850円)


