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2017年5月 の投稿

描かれたザビエルと戦国日本

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 鹿毛 敏夫 、 出版  勉誠出版
1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いがありました。その50年前の1549年8月にイエズス会の宣教師であるフランシスコザビエルが日本にやってきて、1551年11月まで滞在していました。2ヶ年3ヶ月の滞在でしかありませんでしたが、日本にキリスト教をもたらし、多大な影響を支えた宣教師の先達として今も高名です。
本書は、そのザビエルの足跡を絵画と写真とともに刻明に明らかにしています。
ザビエルの遺体が今もインド(ゴア)に保存されているというのにも驚きました。
そして、ヨーロッパに残された宗教画には、ザビエルとともに大友などの大名たちが登場しています。ただ、説明を聞かないと、まるで日本人とは思えない顔つきをしています。恐らく、絵を描いた画家は、見たこともない日本人の戦国大名たちを想像できず、身近なヨーロッパの領主を描いたのでしょうね・・・。
ザビエルは、私が学んでいるフランス語では、グザビエと発音します。なあんだ、そうだったのか・・・と思いました。
ザビエルは、ローマへの手紙のなかで日本人について、このように報告しています。
「日本人はインドの異教徒には見られないほど旺盛な知識欲がある。
もしも日本人すべてがアンジロウのように知識欲が旺盛であるなら、新しく発見された諸地域のなかで、日本人はもっとも知識欲の旺盛な民族であると思われる」
つまり、昔も今も、日本人には好奇心の旺盛な人が多かったということですね。何か目新しいものがあれば、すぐに飛びついて、我が物としたいという習性があるのです。
ザビエルは、1552年12月3日、46歳のとき、中国のマカオの先の小島でマラリアにかかって亡くなった。そして、その遺体が腐敗しなかったことから、インドのゴアまで運ばれて、死後400年以上たった今もミイラ化して、見ることできる(10年に1度だけ一般公開される)。
ザビエルは、山口の領主である大内義隆、そして、豊後の領主である大友義鎮(宗麟)と面会している。大分県市内にはキリスト教会が建立し、多くのキリスト教信者を迎えた。
ザビエルの足跡を、視覚的にもしっかりたどることのできる貴重な本です。
(2017年1月刊。2800円+税)

写真家ナダール

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 小倉 孝誠 、 出版  中央公論新社
この本で、アレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・マゴー、ジョルジュ・サンドなどのくっきりした肖像写真に接し、彼らの人柄を初めて具体的にイメージすることができました。
詩集『悪の華』で有名な詩人ボート・レールが、「ナダールは生命力のもっとも驚くべき表現である」と高く評価したという写真家ナダールを紹介した本です。豊富な写真のあるのがうれしい限りです。
ナダールは1820年に生まれ、第一次世界大戦の始まる前の1910年に亡くなっていますので、19世紀フランスに生きた人だと言えます。
ナダールはボヘミアン的作家、ジャーナリスト、風刺画家、そして写真家であり、気球冒険家でした。1857年に初めて気球に乗ったナダールは気球から地上の写真も撮っています。そして、写真家としては、パリの地下水路やカタコンベ(地下墓地)まで撮影しているのです。
アレクサンドル・デュマは『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』で名高い作家ですが、その肖像写真は、「根拠ある自信にあふれた表情」というキャプションがついています。なるほど、今にも何か話しかけてきそうな顔写真です。
シャルル・ボードレールはナダールの親しい友だちでしたが、何かもの言いたげな表情をしています。
パリ・コミューンを圧殺した政治家であるティエールは、権力欲に取りつかれた野心たっぷりの表情です。そのほか、エミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサン、オーギュスト・ロダン、クロード・モネなど、当時のフランスを代表する著名人の顔写真がたくさん紹介されていて飽かせません。
(2016年9月刊。2600円+税)

関釜連絡船(上)

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 李 炳注 、 出版  藤原書店
1992年に亡くなった著者の長編小説が日本語になったものです。
1921年に韓国に生まれた著者は、日本の明治大学や早稲田大学で学んでいます。戦後は、釜山で新聞社の編集局長をつとめて、44歳で小説家となったのです。
『智異(チリ)山』『小説南労党』などを出版しています。日本語になっていれば私も読んだと思いますが、私の書棚には見あたりませんでした。読んだような気はするのですが・・・。
この本は、どこまでが実話で、どこから小説なのか、その境界線がよく分からない不思議な体裁の小説として進行していきます。舞台は主として、日帝から解放された直後の韓国の農村部です。高校を舞台として話が展開していきます。
アメリカ軍の軍政下にあって左翼の教師と生徒たちが騒ぎたてます。それに反発した右翼の学生も学生大会を妨害するのでした。
教員のなかで、中立を保つことは至難の状況に置かれ、論争の渦中に身を投じる破目になるのです。
賢明なやり方と不可避なやり方とは違う。抗拒するにしても、効果的な方法で、みんなで結束してやるべきだ。左翼は、アメリカ帝国主義の威力を恐ろしいものだと口では言いながら、行動ではアメリカを侮るようなまねをする。秩序維持に対する観念の差があるだけで、アメリカは、日本以上に強硬な国だということを知るべきだ。日本の統治下で不可能だったことがアメリカ軍政下は可能になるなどと考えるのは、とんでもない錯覚だ。その錯覚でもって民衆を引っぱったところでどうなるものか・・・。
なかなか難しい選択を余儀なくされたわけです。そして、同胞同士が殺し、殺される状況に突入してしまうのです。
やはり、平和のために暴力をつかうと、いつまでたっても暴力の連鎖は続いてしまいます。ですから、一見すると迂遠なようであっても、平和のために暴力をつかうのではなく、平和を実現するのは平和的な言論によるしかないのです。ただし、これって、口先で言うのは簡単ですけれど・・・。
西洋のことわざに、こういうのものがある。友人は100人いても多過ぎることはない。しかし、敵は1人でも多過ぎる。
私も、敵はなるべくつくりたくはないのですが、かといってもちろん聖子君子とはほど遠い存在ですので、「敵」というべき存在が何人もいた(いる)ように思います。申し訳ないことです。トホホ・・・。
(2017年2月刊。3200円+税)

「週刊文春」編集長の仕事術

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 新谷 学 、 出版  ダイヤモンド社
森友学園問題では「週刊文春」には、もっと連続して追及キャンペーンを張ってくれるのかと期待していたのですが、少々アテがはずれてしまいました。まあ、それでも大半マスコミがアベ政権に取りこまれたのか不甲斐ないなかで、週刊誌はまだ健闘していると言えるでしょう・・・。
雑誌は面白くなければいけない。ただ、報じられた側が必要以上にバッシングを受ける時代であることにも留意が必要だ。
週刊誌づくりの原点は「人間への興味」だ。これは、実は、弁護士にとっても言えることなんですよ。人間への興味を喪ったら、あとはお金もうけしか目がない、単なるビジネス弁護士に堕してしまいます。
本当の信頼関係は、直接会わないと生まれない。相手の表情とか仕草、間合い、そういう温度感も含めたのが情報だ。つまり、本当の信頼関係はSNSでは築けない。
こちらがある程度は情報をつかんでいることを明かしたほうがしゃべってくれる人と、「何も知らないから教えてください」という態度でのぞんだほうがうまくいく人と、二通りのひとがいる。官僚は前者で、政治家は後者。情報はギブアンドテイクだ。
学生からすぐ弁護士になった私は、会社に入った経験がありませんので、基本的には後者の立場で、いろいろ教えてもらうようにしています。
どんな組織でも、トップと広報に会ったら、たいていのことは分かる。広報マンがメディア側ではなく、トップばかり気をつかっているような組織は風通しが悪い。広報がトップに対して、ものを言いにくい、独裁的な組織になっていることを意味している。
編集長は、とにかく「明るい」ことが重要。編集長が暗いと編集部が暗くなる。常に明るく、「レッツポジティブ」でなければならない。
相手から見て、「会ったら元気になる」存在でありたい。「あいつ、面白いから」、「あいつと会うと、なんか元気が出るんだよな」、こう言われるのが一番の編集者冥利だ。
肩書きが外れても、人間同士の関係を維持するタイプの人が、その組織のなかで圧倒的に出世している。
あらゆるモノづくりの現場に財務的な発想(これは、もうかるか、採算がとれるか・・・)が入ってくると、とたんにうまくいかなくなる。
週刊文春の部員は56人。事件を追いかける特集班は40人。社員は15人で、残る25人は、1年契約の特派記者。8人ずつ5班で構成する。毎週木曜日に企画会議を開いている。ネタのノルマは1人5本。200本のネタが毎週あつまり、デスク会議で発表される。ネタを出した記者が必ず書く。これが記者のモチベーションを高める。そして、特集を出して、大当たりしたらボーナスをはずむ。
週刊誌記者の苛烈な競争社会の内幕とあわせて、売れる記事をつかむコツも公表されていますので、面白いです。
(2017年4月刊。1400円+税)

「勝ち組」異聞

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 深沢 正雪 、 出版  無明舎出版
戦後のブラジルで日系人同士が殺しあったとされる事件の真相に迫る本です。
終戦直後のブラジル人日系社会の7割以上が勝ち組だったとされているのに、「私は勝ち組だった」と言える雰囲気は、70年たった今もない。それだけ、「勝ち組」抗争に関するトラウマは深く、今もって癒えていない。終わっていない。つまり、この勝ち負け問題は過去の話ではなく、今も続いている。
「勝ち負け抗争」とは、終戦直後のブラジル人日系社会において、日本の敗戦を認めたくない移民大衆が「勝ち組」となり、ブラジル政府と組んで力づくで日系人に敗戦を認識させようとした「負け組」とが血みどろの争いを演じたという特異な事件である。
日本人同士が争い、20数人の死者、数十人の負傷者を出した。終結するまでに10年近い歳月が必要だった。
日本からのブラジル移住が本格化したのは、1923年9月1日の関東大震災が大きなきっかけとなった。1924年にアメリカが排日移民法を制定して、日本人を受け入れなくなったことにもよる。
1925年からの10年間で、全ブラジル移民25万人の半数以上の13万人がブラジルに渡った。
戦前のブラジル移民の最大の特徴は、20万人の85%が「デカセギ」のつもりで渡っていて、5年か10年、ブラジルでお金を稼いだら、日本に帰るつもりだったこと。
日本人移民は、ブラジルで差別され、馬鹿にされた。「今にみておれ。日本はきっと戦争に勝って、ブラジルに迎えに来てくれる」と思い込み、心の支えとした。
戦争中、ブラジル政府に対して恨み骨髄になっていた日本移民にとって、日本が戦争に勝ってブラジルまで来てくれることが唯一の救いとして期待が高まっていた。
「負け組」、日本が戦争に負けたことを認識する人々は、戦争中にブラジル官憲から資産凍結・監禁や拷問にあった層だった。負け組は、官憲からの弾圧を恐れていた。つまり、ブラジル日系人の勝ち負け抗争の本当の原因は、戦前戦中からの日本人差別にあった。
戦前移民20万人の85%は日本へ帰国したかったのに、大半(93%)がブラジルに残った。イタリア移民で定着したのは13%、ドイツ移民は25%なのに比べて、日本移民の93%は圧倒的に多い。
勝ち負け抗争が終結したあと、ブラジルに骨を埋めようと思い直した勝ち組は、サンパウロ州立総合大学(USP)を「ブラジルの東大」と呼んで、子どもを入学させようとした。人口比では1%もいない日系人がUSP入学生10%を占めるようになったのは、圧倒的多数の勝ち組が、思いの矛先を帰国から永住に切り替えたことによる。勝ち組の親たちが、心を入れ替えて、身を粉にして働いて子どもを大学に入れた。だからこそ、ブラジル社会から信頼される現在の日系社会が形成された。
「勝ち組」を単なる狂信者なテロリストであるかのように決めつけてはいけないと思ったことでした。
(2017年3月刊。1800円+税)

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