著者 金 昌厚 、 出版 新幹社
済州島四・三事件を体験した金東日の歳月。これが、この本のタイトルです。
済州島に生まれ育ち、四・三事件そして朝鮮戦争が始まってからは山中のゲリラ隊に参加もした。それから密航船で日本に渡って、東京は江戸川区で弁当屋を営んでいる女性の半世紀の聞き書きからなる本です。すごい経歴であるのに驚くと同時に、読みやすい文章なので、すっと頭に入ってきます。
金東日は1932年(昭和7年生まれ。13歳のときに解放の日を迎えた。1947年に朝天中学院に入学。民愛青(民主愛国青年同盟)で活動をはじめ、連絡係としてビラを運んだ。
四・三事件(1948年)のあと、山に入った。武装蜂起が起きたからには当然それに従わなければいけないと考えていたし、当然、勝てると思っていた。最後の血の一滴までもすべて捧げて闘うという気持ちだった。国のために、自分が死んでも国が生きのびるのなら・・・。
言いたいことも言えないで生きていく生活のことを、冷蔵庫の中の凍った肉という。金東日たちは、すぐにでも解放されると信じていた。組織には楽観論が支配していた。
ところが、本の少し前までの山の人(ゲリラ側)にあんなに協力して食糧も届けていたような人々が、いつの間にかがらりと変わって敵に回ってしまった。山の人たちに勝ち目はなくなり、生き残ろうと思ったら、警察側につくという人が目立った。
非合法生活をしているとき、逃亡だけだったが、かえってそれは希望があると思い込んでいた。なぜなら、これほど弾圧されて苦労しているのだから、済州島民が決起するに違いないと考えたのだ。指導部は当時の判断力不足で情勢を見誤った。
漢拏(ハルラ)山では、つらい毎日だった。死に向きあいながら、いつかきっと自分たちの世の中になると堅く信じていた。本人は意気揚々としていたが、人々が金東日を指さしながら、「この暴徒のアマ!」と言いながら集まってきた。それが、村で一緒に活動していた人たちばかりだった。
朝鮮戦争が始まると、金東日は今度は智異(チリ)山で郡島委員会の秘書になった。18歳だった。そして捕まってしまうのでした。
金東日は、二回も捕まったのに、運が良く、再び済州島で母と生活するようになった。
金東日が若いころに命をかけた戦いは正々堂々としたものだった。漢拏山や智異山に入ったことを後悔もしていない。
2000年1月に本国(韓国)で四・三特別法が公布され、四・三事件真相相究明と犠牲者の名誉回復事業が本格的に始まり、「まるでひまわりに花が咲いたように」金東日の心を明るくした。
済州島で大変な体験をした少女が、戦後50年以上も日本で生活していたことが発掘されたのでした。ご本人と、その発掘作業を本にした人たちへ、心より敬意を表します。
(2010年5月刊。1500円+税)
漢拏山へひまわりを
