著者 飯倉 章 、 出版 芙蓉書房出版
日露戦争とは一体いかなる戦争だったのかを知りたいと思ったら必読の本だと思いました。当時の世界各国のとらえ方がポンチ絵(政治マンガ)として紹介されているのですから、見逃すわけにはいきません。
1904年に始まった日露戦争で、1905年1月下旬、ロシア軍が突如として大規模攻撃を満州にいる日本軍に仕掛けてきて黒溝台(こっこうだい)の戦いが始まり、1月25日から29日まで続いた。これは、ロシアの血の日曜日事件の3日後に始のことである。ロシア国内では、世界の注目を血の日曜日事件からそらす目的でツアー(ロシア皇帝)がクロパトキンに攻撃を命じたのではないかと推測されている。
うむむ、なんと、そういうこともありうるのですね・・・。
この戦いでは、日本側は対応を誤った。ロシア軍大移動の情報を軽視し、厳冬期で積雪もあるので、ロシア軍による大掛かりの攻撃はないと判断して油断していた。
このあと、奉天会戦が続きます。日露戦争中の最大の陸戦である。3月10日、日本軍は奉天を占領して勝利したが、敵ロシア軍に一大打撃を与えて戦争の勝敗を決するという目的を果たすことはできなかった。
日本軍の黒木将軍は奉天を陥落後まもなく61歳の誕生日を迎えた。現役の勇猛な将軍と評価されていた。奉天会戦は、日露両軍ともに多大の死傷者を出した。日本側の戦死者は1万6千人、ロシア側は2万人。負傷者は日本側が6万人、ロシア側は4万9千人。ロシアは2万人が捕虜となった。
日本海海戦についても、いくつものポンチ絵で紹介されています。
日本側は、バルチック艦隊の動向を把握していて、戦術開始前に十分な準備をし、訓練を重ねていて、士気も盛んだった。
ロシア側は、ニコライ皇帝が講和を拒んでいた。なぜか?賠償金の支払いには強い抵抗感があった。それに応じたら、ロシアの体面は維持できないとニコライは考えていた。そして、強気だったもう一つの理由は、軍事的な情勢判断だった。ロシア側にはまだ戦力に余裕があった。
他方、日本側は、辛勝が続いているので、いつ戦況が逆転しないとも限らないという心配があった。
写真だけでなく、マンガ(画)でも事の本質はよく捉えることができることを実感させられる良書です。
(2010年11月刊。2800円+税)
日露戦争諷刺画大全(下)
