著者:徳永和喜、出版社:新人物往来社
幕末の薩摩藩が倒幕の資金源として大々的に「ニセガネ」をつくっていたという説の真偽を追及した本です。どうやら本当のようですが、著者は通説の誤りもただしています。
ニセガネづくりには家老の調所広郷(ずしょひろさと)は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通だった。
薩摩藩は、幕府の許可を得て「琉球通宝」を鋳造した。そして、文字を変えた「天保通宝」を鋳造し、さらに二分金のニセガネを鋳造した。この二分金は純粋の金貨ではなく、金メッキした銀という意味で通称「天ぷら金」と呼ばれた。
これを推進したのは島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬の死亡後に、安田轍蔵(てつぞう)が経済通の能力を生かして登用された。琉球通宝が幕府から許されたのは安田の小栗忠順などとの人脈を生かした尽力による。
安田は、琉球通宝を鋳造し、その後に天保通宝を鋳造・流通させ、その資金をもって洋銀を購入し、さらには洋銀から国内流通の一分銀・一朱銀を鋳造するという壮大な構想をもっていた。これは、実体経済を知悉していた安田が開通場での洋銀精算に着目し、国内金銀貨幣と洋銀との交換比率から生じる差益を利用するという考えによるものであった。
安田の考えによれば、1日に4000両をつくると、年の利益が64万両が確保できる。4年で256万両の利益を生む。これによって、領内海防のために沖瀬を築造し、大砲の備えも可能となる。
ところが、この安田は途中で追放・島流しにあった。
ニセガネ天保通宝の鋳造高は高められ、ついに一日に4000~5000両を鋳造し、一ヶ月に12万両をこえてつくり出し、藩財政を補填した。
イギリス艦隊に鹿児島湾を占拠され敗北したあと、ニセガネづくりはかえって盛大な事業展開となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造された。
安田が再登用され、薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用していった。
琉球通宝は三井組で換金する仕組みであった。
三井は幕末期に薩摩と組んでいたのですね・・・。さすが政商です。
もちろん、明治新政府はこんな 地方のニセガネづくりを許すわけにはいきません。しかし、大久保利通は薩摩藩で自らニセガネつくりに関わっていたのですから、早く止めろと必死で薩摩藩を説得したようです。
そんなことも知れる興味深い内容の本でした。
(2010年3月刊。2200円+税)
偽金づくりと明治維新
