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東電福島原発事故、総理大臣として考えたこと

カテゴリー:社会

著者   菅 直人 、 出版   幻冬舎新書 
 福島第一原発事故がいかに恐ろしいものだったのかを、当時の菅首相が暴いています。今も日本人の多くがぬくぬくと暮らせているのは、まったくの幸運にすぎなかったこと、3.11の直後、日本の首都が壊滅状態となり、日本経済が完全に行き詰まる寸前だったのです。
 そして、首相が浜岡原発の操業を許さないと指示すると、法律上の明文の根拠はなくとも電力会社は操業できないという関係にあることも明らかにしています。だからこそ脱原発を叫んだ菅首相は、よってたかって首相の座から引きずりおろされてしまったのでした。
 誰が引きずりおろしたのか?
 それは、アメリカであり、日本の財界であり、その意を受けて動いた民主・自民などの政治家です。まだまだ隠されているところは多いのでしょうが、かなり真実を暴いているのではないかと思いながら読みすすめました。
 原発事故は、たとえば火力発電所の事故とは根本的に異なる。
 火力発電所の火災事故だったら、燃料タンクに引火しても、いつかは燃料が燃え尽き、事故は収束する。ところが、原発事故では、制御できなくなった原子炉を放置したら、時間がたつほど事態は悪化していく。燃料は燃え尽きず、放射性物質を放出し続ける。そして、放射性物質は風に乗って拡散していく。厄介なことに放射能の毒性は長く消えない。プルトニウムの半減期は2万4000年だ。いったん大量の放射性物質が出してしまうと、事故を収束させても、人間は近づけなく、まったくコントロールできない状態になってしまう。
 原発事故が発生してからの1週間は悪夢だった。福島原発事故の「最悪のシナリオ」では、半径250キロが人々を移転させる地域になる、そこには5000万人が居住している。
 もしも5000万人の人々が避難するというときには、想像も絶する困難と混乱が待ち受けていただろう。そして、これは、空想の話ではなく、紙一重で現実となった話なのだ。原発事故は、間違った文明の選択に酔って引きおこされた災害と言える。
 人間が核反応を利用するには根本的に無理があり、核エネルギーは人間の存在を脅かすものだ。現在の法体系では、基本的には、原発事故の収束を担うのは、民間の電力会社であり、政府の仕事は住民をどう避難させるかということになっている。原災法上、総理大臣である原子力災害対策本部長は東電へ指示できることになっている。原子力事故を収束させるための組織がないのは、事故は起きないことになっていたから。そんな組織をつくれば、政府は事故が起こると想定していることになり、原発事故にあたって障害になるという理由だ。
 福島第一原発には、6基とも手がつけられなくなったら、どうなるのか。ぼんやりとしていた地獄絵は、次第にはっきりとしたイメージになっていた。東電本店では、当時、福島第一原発の要員の大半を第二原発に避難させる計画が、トップの清水社長をふくむ幹部間で話し合われていたことは証拠が残っている。
 しかし、東電の作業員たちが避難してしまうと、無人と化した原発からは、大量の放射性物質が出続け、やがては東京にまで到達し、東電本店も避難地域にふくまれるだろう。
 原発事故の恐ろしさは、時間が解決してくれないことにある。時間がたてばたつほど、原発の状況は悪化するのだ。だから、撤退という選択肢はありえない。
 誰も望んだわけでなはないが、もはや戦争だった。原子炉との戦い、放射能との戦いなのだ。日本は放射能という見えない敵に占領されようとしていた、この戦争では、一時的に撤退し、戦列を立て直して、再び戦うという作戦をとれば、放射性物質の放出で占領が上界し、原子炉に近づくことは一層危険で、困難になる。そして、全面撤退は東日本の全滅を意味している。日本という国家の崩壊だ。
私たちは、幸運にも助かった。幸運だったという以外、統括のしようがない。そして、その幸運が今後もあるとは、とても思えない。
 中部電力に対して、稼働している原発を止めろと命令する権限は、内閣にはなかった。そのため「停止要請」という形をとったが、許認可事業である電力会社が要請を断る可能性はないと考えていた。実際、中部電力は浜岡原発の停止を決めた。
「イラ菅」と呼ばれていた首相ですが、原発の危険性は本当に身にしみたと思います。多くの日本人が読むべき本だと思いました。原発なんて本当にとんでもない存在です。
(2012年10月刊。860円+税)

震える学校

カテゴリー:社会

著者   山脇 由貴子 、 出版   ポプラ社 
 本のタイトルは学校のホラー映画でも紹介されるようで、なんだかとっつきにくいのですが、読みはじめると、とても真剣に子どもたちのことを考えているのがビンビン伝わってくる本です。わずか120頁ほどの本ですが、たくさんの親と教師に読んでほしいと思ってことでした。
 教員も子どもたちからいじめられるのです。しかし、校長は教員がいじめの被害にあっていたなんて、大人として恥ずかしいことだし、ましてや教師なんだ・・・。今まで対処できなかった学校の責任だって問われることになる。それに、教師の質が悪いからだと責められても仕方がない。と言って、見て見ぬふりをしようとするのです。
現代のいじめは、教師すらもターゲットになりうる。ネット社会の匿名性が、「子どもから大人へ」のいじめを可能にしている。
 いじめの解決に大人が取り組みはじめたとき、子どもたちは、まず疑う、そして罵倒する。これが本音だ。
保護者から学校への苦情は増え続けている。学校と保護者のコミュニケーション不足で悪循環に陥っているケースが少なくない。苦情が頻発すると、学校は対処に追われる。ネガティブな言葉を浴びせかけられ、心身ともに疲弊し、早く「片付けたくなる」。謝って許してくれるのならと、むやみに謝る。すると今度は、今度は別の苦情が出る。「謝り方が悪い」「誠意が感じられない」。そのうち、教師の仕事が「教育」ではなくなり、「処理」業務に終始することになる。
 もともと対話のないところで一方が不満を言い出すと、あっという間に関係性は悪化してしまう。「子どものため」にできることは、一方的な要求や文句ではなく、話し合いと互いに協力することだ。
静まりかえった職員室の意味するものは何か?
 校長は現場の教師をかばっているように見えるが、実はかばっているのではない。問題を起こしたくない。問題として認めたくないだけ。何か問題が起きても放置される。教師は何もしない。それを生徒も保護者も、十分に体験していた。この学校は悪が悪としてまかり通ってしまっていた。思いはただひとつ、卒業までの我慢だ。
 教師は生徒に関心がない。教師同士は同僚ではなく、他人同士だ。だから職員室は静かだったのだ。生徒に関心がなければ、教員としてのつながりは持てないのだから当然だ。校長も、生徒にも教師にも関心がない。
 現代のいじめの典型的なパターンは、「いじめっ子」と「いじめられっ子」という固定した関係ではなく、いじめの被害者がしばらくすると加害者にまわる。加害者だった子が、今度は被害者になる。一度いじめが起こると、「傍観者」でいることは許されず、被害者以外は、全員が「加害者」となっていく。
 いじめがひどい学校ほどいじめのターゲットは次々に変わり、すべての子どもが、「今度は自分かもしれない」と怯えることになる。安心していられる子はいない。この構造こそが、子ども社会のいじめの現実である。
 インターネットとケータイは、子ども社会のコミュニケーションを二重構造化した。現実の対面的コミュニケーションは、常にネット世界の目に見えない悪意に脅かされている。
 多くの子どもは「親友にだけはホンネが言えない」と言う。どんなに親しげにふるまっていても、ネットでは悪口を言われているかもしれない。そんな不安が消えない。いつも怯えている。子どもたちは、人と人の心と心のつながりを信じられなくなっている。継続的で、安心できる人間関係がないのだ。だから、学校でいじめが起こっていても、子どもはどこにも頼る相手がいない。
いじめは異常な集団ヒステリーであり、善悪の判断は倒錯してしまっている。集団の中では善と悪とが完全に逆転し、子どもは時として、楽しんで、いじめを行う。人に対する痛みも、共感も、想像力も、善悪の判断も奪い去り、猛威をふるう。人間を非人間化するのが、いじめだ。
 だから、問題の当事者を排除するだけでは、いじめの本当の解決にはならない。大人社会の信頼の復興こそが、なによりもいじめ防波堤になる。
 改めて問題の本質と対処法を考えさせてくれる本でした。
(2012年9月刊。880円+税)

痲酔をめぐるミステリー

カテゴリー:人間

著者   廣田 弘毅 、 出版   同人選書 
 全身麻酔は単なる眠りではない。呼吸や心循環系も抑制されている。つまり、眠っているだけではなく、息が止まって、血圧も下がっている。麻酔薬は、一般的な医薬品に比べて、安全域がきわめて狭い。麻酔機などの設備が整った場所で、熟練した麻酔医が使用してはじめて麻酔薬は「安全」と言える。
 全身麻酔のプロポフォールは鎮静目的。その投与中は血管痛といって、点滴の刺入部位が痛むことが多い。その血管痛をやわらげるために、局所麻酔薬リドカインを混ぜる。これは業界で常識となっている裏技だ。そこで、マイケルジャクソンの死は局所麻酔薬中毒による心停止の可能性がある。
麻酔薬には呼吸・循環抑制作用があるし、その作用には個人差がある。患者Aに効いた濃度が患者Bに効くとは限らない。吸入麻酔薬による眠りは、患者にとって、一瞬の出来事に感じられる。麻酔薬を投与されて「眠った」と思った次の瞬間に、「手術は終わりましたよ」という言葉を聞かされる。眠っていたという感覚がまったくない。これは30分の小手術でも、10時間の大手術でも同じで、患者は麻酔をかけられた瞬間に、手術終了後の世界にタイムスリップする。
 吸入麻酔薬は、興奮性シナプス伝達を抑制し、抑制性シナプス伝達を促進することにより、海馬の機能を完全にシャットダウンしてしまう。つまり、海馬における記憶の形成が起こらない。
 私が人間ドックに入って胃カメラを呑み込むときの状態が、まさにこれです。静脈に麻酔薬を注射されると、すとんと眠りに入り、胃カメラが抜かれたとたん目が覚めるのです。
 静脈麻酔薬プロフォール。チオペンタールからの覚醒は、「あー、よく寝た」という印象で、生理的な睡眠からの目覚めに似ている。静脈麻酔薬により、抑制性の神経伝達物質であるGABAが脳内で大量に放出されるためと考えられている。
 この静脈麻酔薬は麻酔ではない。しかし、投与された人は、スッキリ爽やかな目覚めが忘れられなくなる。吸入麻酔薬ハロタン、セボフルランでかける麻酔は安定感がある。興奮性シナプス伝達を抑制し、抑制性シナプス伝達を促進することで、ニューロンの興奮性をダブルブロックするからだ。十分な濃度の麻酔薬を投与していれば、不意な行動で手術に支障を来す心配がない。
 静脈麻酔薬プロポフォール、チオペンタールによる麻酔では強い刺激によって患者が覚醒する可能性があるので、注意が必要である。抑制性シナプスの亢進だけでは、不意な興奮性入力を抑えきれなくなる。
 安定な麻酔をとるか、眠りの質をとるか、麻酔科医は、臨床状況に応じて麻酔薬を使い分ける。
麻酔薬にもいろいろなものがあること、人間の身体とりわけ脳と眠りの関係について知らないことが盛りだくさんの本でした。
(2012年7月刊。1600円+税)

ヘルプマン vol.8

カテゴリー:人間

著者   くさか 里樹 、 出版   講談社 
 マンガ本です。とても勉強になりました。介護現場の実情を知るための格好のテキストです。
申し訳ありませんが、私は介護の苦労をしていません。姉に全部やってもらいました。姉夫婦は大変だったと思います。それでも、介護問題については、弁護士として成年後見人になったりもしますし、依頼者には介護ヘルパーも多いので、このマンガ本によって認識を深めました。
認知症になった母親の介護を弟が放りだしてしまいます。そして、突然、母親を運んできてサラリーマン夫婦の兄一家に押しつけるのです。徘徊症の母親は大変です。どうにも扱いかねて、一家中がひっかきまわされるのです。
夫婦とも大切な勤めがあるので、簡単には会社を休めません。そこでヘルパーに助けを求めます。すると、登場してきたのは、なんとフィリピン人の若い女性。
フィリピン人は親を大切にします。でも、日本人とは生活習慣が異なるので、あつれきが生じて直ちにクビ。でも、次に来た日本人よりは、実はよほど良かったのでした。
 マンガなので、臭いのする汚れの場面もきれいな絵となり鼻をつまむ必要もなくさっと読めます。
 21巻シリーズですが、全巻読み通すつもりです。
(2011年12月刊。514円+税)

いま、憲法は「時代遅れ」か

カテゴリー:司法

著者  樋口  陽一  、  出版   平凡社
 大日本帝国憲法を制定する前、当時の首相・伊藤博文が会議の席上、次のように述べた。
 「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」
 これに対して森有礼文部大臣が次のように反論した。
 「およそ権利なるものは、人民の天然所持するところにして、憲法により初めて与うられるものにあらず」
 両者とも、なかなかに鋭い指摘ですよね。どちらも間違いではないと私は思います。
 「君が代・日の丸」というシンボルは、それが国歌・国旗として扱われるのは、明治国家成立以降の人為の事柄である。ところが、それが、人為のものとして意識されずに、あたかも民族のアイデンティティの表現であるかのような、したがって、およそ変更不可能なものと扱われてきた。
 明治維新を担った政治家たちは、宗教が頼りにならないから、皇室を宗教のかわりに使おうというリアリズムがあった。
 アメリカでは、リベラルとは左派を指し、ヨーロッパではリベラルというと右派を指す。
 つまり、ヨーロッパでは、リベラルとは、もっぱら経済活動領域についての自由放任主義を指している。
 第一次世界大戦のあとのドイツでワイマール憲法末期に、議会が妥協と政治的な駆け引きの場となり、国民意思を統合できない状態に陥った。そこで、議会でやっているのは何のことか分からん、強力な行政権の長に運命をゆだねよう。それがヒットラーへの選挙民の喝采となった。いろいろな議論を切り捨てて強力な政治を遂行するという意味で、ポピュリズムと決断主義的との結合は、一般的な傾向となっている。
 これって、いま大阪で起きている「橋下」現象ですよね。
 「ねじれ」という表現は、正常でないというニュアンスがある。しかし、両院制を置いている以上、それは当然に起こりうる事態の一つであって、非正常ということでは決してない。
うむむ、なるほど、たしかにそうですよね。「ねじれ」イコール悪だと、いつのまにかマスコミに思い込まされてしまっていました。大いに反省します。
 「ねじれ」が悪いというのは、とにかくさっさと決めろということ。その意味で決断主義的である。プロフェッショナル攻撃と、素人を全面に立てた諮問会議、審議会支配が、政治過程を漂流させてきた。
 憲法制定権力ということで、人民が主権者なのだから、その人民が絶えず憲法を書き改める機能はだれによっても制限されないはずだという主張がある。しかし、硬性憲法の考え方は、国民といえども、自分の意のままに法秩序をその時々に変えるものではないのだという説明によって初めて理由づけられるのである。
 法科大学院(ロースクール)での講義をもとにしていますので、わずか200頁あまりで大変読みやすい憲法の本になっています。
(2011年5月刊。1500円+税)

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