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スラムに水は流れない

カテゴリー:インド

(霧山昴)
著者 ヴァルシャ・バジャージ 、 出版 あすなろ書房
 そもそもの問題は水不足にある。インド有数の大都会であるムンバイ。そこのスラムにはムンバイの人口の40%もの人々が住んで生活している。ところが、水はムンバイ市全体の5%しか供給されていない。水不足は3月がきびしい。
 そんなスラム街に住む15歳の兄と12歳の妹(主人公)と両親。
 ムンバイに水道はあっても各家庭まではなく、家の外にチョロチョロ流れる蛇口まで、毎日、水をバケツを持ってもらいに行かなければいけない。水が出るのは朝2時間と夕方1時間のみ。各家庭はタンクを備えて、そこに水を貯めておく。蛇口で水をバケツに入れるためには列をつくって並ばなければならない。
ところが、よからぬ連中が夜に盗水し、それを売って莫大な利益を上げている。それを偶然、兄は目撃し、良からぬ男に顔を見られてしまった。
 これはタダではすまされない。仲の良い兄は遠くの親戚の農場に身を隠すことになった。
 そのうえ、母親が病気になったので、実家に戻って静養するという。その期間、主人公は母がメイドとして働いている家でメイド見習いとして働かなくてはいけなくなった。
その家は、高級マンション。主人公と同じ年齢の娘がいて、その部屋にはバス・トイレがある。これに対して、主人公のスラム街では、7つの個室が並んだ1ヶ所のトイレを30家族で使っている。
 そして蛇口をひねると、時間制限なく、勢いよく流れ出てくる。そこは、スラムとはまったく別世界なのだ…。
 主人公には大の仲良しの女生徒がいて、お互いに助けあっている。ヒンズー教とイスラム教の違いはあっても、子どもには関係がない。
 さて、水泥棒とは誰なのか、主人公は学校と仕事を続けられるのか…。
 スラムでは女の子はどんなに頭が良くても、本人が学校に行きたいと思っても、途中で学校を辞めて働きはじめるのが普通だった。でも主人公は学校に行きたいし、パソコン教室に行けるようになった。さあ、どうする、そして、どうなる…。インドのスラム街に住む少女のみずみずしい感性が生かされている物語です。
(2024年4月刊。1500円+税)

藍子

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 草川 八重子 、 出版 花伝社
 朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月25日。このころ、京都の高校生だった著者が、当時の社会問題と格闘する日々を振り返っています。
藍子の通う高校では、生徒会が総会を開いてイールズ声明(共産主義の教授は追放すべきだというもの)に反対することを決議しようとします。しかし、そんな決議をしたら、アカい高校と見られて生徒の就職が困難になるという現実重視派から反対の声が上がるのでした。
 前年(1949年)4月の総選挙で共産党は35人の国会議員を当選させたのに、GHQが共産党の追放を決め、6月の参議院選挙で当選した2人も無効とされてしまった。そして、下山、三鷹、松川という大事件が相次いで起き、世の中は急速に反共ムードが高まっていった。
 この高校には民青団の支部があり活発に活動しています。藍子は初め反発しながらも、戦争反対の声を上げるべきだと考え直して加入します。そして、オモテとウラの活動があるうちのウラにまわされます。レポ、要するに連絡係です。当時は、こんな活動も高校生にさせていたのですね、驚きました。
 驚いたと言えば、まだ高校生なのに、男子生徒が山村工作隊員に選ばれ、丹波の山村に入って革命の抵抗基地づくりをしたというのです。そして、その活動の一つが地主宅に投石して窓ガラスを破れというものでした。そんなことして、世の中に大変動が起きるはずもありませんが、当時は、大真面目だったのですね。
 高校生の藍子は疑問も抱きます。当然です。
 何でも「革命のため」と理由をつければ、指導者は勝手なことができて、藍子はひたすら我慢しなければならないのか…。そんなことはないはず。
 「革命」は世の中をひっくり返して、虐(しいた)げられていたものが権力をとること。労働者が、自分たちの政府をつくること。それを成し遂げる人間は、自由で積極的な自分の意思で活動すべきだろう…。
 著者は1934年生まれですので、私よりひとまわり年長です。50歳前後からたくさんの本を書いています。今回の本は、共産党の「50年問題」を、高校生だった自分の体験を描くことによって、「あの時代を抹消してもいい」のかと問いかけています。90歳になる著者が「体力と気力のある間にと蛮勇を振る」って書いたという貴重な記録です。それにしても、多感な女子高校生の会話まで見事に「再現」されている筆力には驚嘆するしかありません。
(2024年8月刊。2200円)

海と路地のリズム、女たち

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 松井 梓 、 出版 春風社
 アフリカの小さなモザンビーク島に住み込んで、人々の日常生活を細やかに調べあげ、分析している、面白い本です。
 モザンビーク島は、かつてはポルトガル領東アフリカの中心拠点として栄えた、せわしい島だった。今では、時間も現金も、漁業を中心にゆっくりとまわっている。
 居住地区は一見スラムのように過密なのに、どこよりも治安がいい。夜中に女性一人で歩いても少しも不安を感じない。小さな島の居住地区に人々は稠密(ちゅうみつ)に住まい、女性たちは友人や隣人どうし親密につきあう。身体を近づけあって相手に触れて親しさを確認し、秘密を打ち明けることで心を近づけあう。近隣の家を頻繁に行き来し、半開きの勝手口から声をかけて入っていっては、その家の女性とおしゃべりやゴシップに興じつつ隣人たちの台所事情ものぞいていく。そこで相手に食べるものがないとみれば、自分がつくった料理を皿に盛って相手の家に届けたりもする。
 まあ、ここまでは、なんとなく理解できます。驚くのは、この親密な関係が実は永続性がないことがしばしばだということです。その大きな原因の一つがゴシップです。あけすけなゴシップが行きかい、当の本人の耳にも入ります。そして疎遠な関係になります。ただ、徒党を組んで、誰かが孤立させられるというのはなさそうです。すると、どうなるのか…、また、女性たちはどうするのか、気になります。
 彼女たちは、目の前を濃密に飛びかうゴシップの渦中で、関係を悪化させすぎずに、しかし緊密に共在するのです。
 モザンビーク島で繰り広げられるゴシップは、その真偽を問わないままに他者の評判を流布する極めていい加減な社交であり、他者への応答をあるべき態度とする共生の倫理からすると、限りなく非倫理的な行為だろう。著者は、このように評しています。日本では考えられないと思います。
 著者が居住し、分析の対象とした人々の地区は島の南側の中流・下流層の人々が住む「バイロ」と呼ばれる地域。北側は、「シダーテ」という富裕層が多く住む地域。バイロの住民の大半はムスリム。バイロの女性は、夫の稼ぎをあてにせず、みずからも稼ぐ、堂々と振るまう「強い」女性たちが住んでいる。
 バイロの人たちは、必ずしも安いとはいえない鮮魚を毎日食べて暮らしている。それは島外から流入する現金があるため。
バイロでは、日々、隣人とのあいだで、皿に盛った調理ずみの料理を交換するやり取りが見られる。バイロでは、頼母子講(シティキ)が盛んにおこなわれている。
 島の離婚率の高さ、一夫多妻制のため、女性は夫と離別したあと、みずからの親族のもとに出戻ることが多い。
相手の家族が生活に困っているとみると、子どもの食事の分は助けるが、それは決して一家全員の分まではない。一定の距離を保つように線が引かれている。
 二つの家族のあいだで、相手の家族がひもじそうだとみてとると、孫の分のみ料理を分け与えるが、家族全員の分までは与えない。それは、お返しがあることを前提として、相手の生計の過度な負担とならないようにする配慮になっている。両者の関係性が負担になりすぎない距離感で保たせられている。これは、日本の昔の長屋であった共生、扶助関係とも違うのでしょうね。
 バイロの近所づきあいは、2~3日のうちに料理のお返しが求められている。共在を可能にする委ねすぎない身構え。そして、ゴシップの渦中で共在する。当初から、相手に過度に期待し、依頼でいばることをしないからこそ、深刻な裏切りも不信も生まれない。
 女性たちには、隣人たちと日々密に接し、相手とつながろうとしてしまう一方で、最後のところで相互に心理的な結びつきや連帯を求めすぎたり、みずからを相手に委ねすぎたりしてしまわない身構えがある。うむむ、そうなんですか…。大変興味深い社会生活の実情と分析でした。
 指導教官として小川さやか教授(「チョンキンマンションのボスは知っている」という面白い本の著者)の名前があげられているのを知って、同じような手法の調査だと納得しました。それにしても、男性、そして子どもたちが全然登場してこないのには、いささか欲求不満が残りました。
(2024年3月刊。5500円)

未来にかけた日々(前編・後編)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 勝目テル 、 出版 平和ふじん新聞社
 戦前、関東消費組合連盟で活動し、戦後も民主的な活動を続けた著者がその人生を振り返っています。国立国会図書館のコピーサービスで読みました。本当に便利な世の中になったものです。著者が70歳前半の1975年9月に刊行されています。
 著者がまだ30歳台前半のころ、いかにも活気盛んな年頃です。そして、著者によると、1930年、31年は、戦前の日本の労働者の闘いがもっとも華やかな時代だったというのです。帝国主義政府の圧制が強まり、治安維持法が猛威をふるっていましたが、労働者も小作人も屈することなく、大勢が声を上げて圧制と果敢に闘っていたのです。
 1931年、労働者によるストライキは2284件で、小作人を中心とする農民の闘いも活発で、小作争議2478件も起きた。
どうですか、今の日本と比べて圧倒的に多いではありませんか。東京・新宿のデパートが閉店を強行するというので労組がストライキをしたとき、久々のストライキだと世間の注目を集めたことはまだ記憶に新しいところです。現代日本では「死語」同然のストライキですが、帝国政府の強権的な圧制の中で、労働者も農民も大きく声をあげ、ストライキに突入していました。現代に生きる私たちは、同じ日本人として彼らに敬意を表するだけでなく、労働者としての当然の権利を行使すべきだと考えています。それでは次に行きましょう。
 女性の参政権、投票権が戦前には認められていなかったことを体験として知る人は今や、ほとんどいません。昨今の女性は、せっかく敗戦後に勝ちとった選挙権を放棄している人が、あまりに多い状況は、本当に残念です。まあ、これは男性も同じことです。
 1932年2月、衆議院は婦人公民権案が可決された。ところが、貴族院で否決され、女性の選挙権は認められなかったのです。「女性に選挙権なんか与えたら、日本の美しい風俗がこわれるから」というのです。笑止千万です。衆議院で可決されたという事実は私は知りませんでした。
 同じ1932年3月には20日から23日まで、東京の地下鉄が全面ストップしました。地下鉄で働く労働者がストライキに突入し、地下の電車に籠城したからです。150人が参加しました。警官隊が地下に突入しようとしましたが、争議団が「触ると死ぬぞ」と大書して通電した柵で対抗したため突入を断念し、結局、労働者側が大きな成果を勝ちとり、その勝利で終わりました。
 そして、同年8月1日は国際的な反戦デーで、「米よこせ」の運動が大々的に取り組まれました。農村では娘の身売りなど、大変深刻な状況が生まれているなか、政府は米が余っているとして、1升わずか8銭で海外に米を売ろうとしていたのです。それを聞きつけた市民が大手町にあった農林省へ「米よこせ」を要求して押しかけました。
 日本人は昔から裁判を嫌っていたというのが根拠のない間違いであるのと同じように、日本人は昔からモノ言わない、羊のようにおとなしい人間ばっかりだというのも、まったくの間違いなのです。日本人だって、立ち上がるときはあります。声を上げ、要求を大勢で叫んだのです。
 先日、台湾の民主化運動を紹介する本を読んで日本とは決定的に違うのは、台湾には運動によって成果を勝ち取った成功体験が、最近、二つはあるそうです。ところが、日本では10年前の安保法制反対運動は弁護士会を含めて大きく盛り上がりましたが、安保法制法は制定されてしまいました。また、集団的自衛権の行使も認められるようになりました(幸い、まだ、現実の行使はありません)。日本に欠けているのは成功体験、そして自信をもった若者の運動です。本当に残念です。
 1933年11月、著者が治安維持法違反で検挙され、両国警察署の留置場に入れられていたときのエピソードは、まさしく胸を打ちます。
 11月7日は、ロシア革命の記念日。これを監房内で祝うことを企画していると、そこに布施辰治弁護士が両国署にまわされてきたのです。そこで、著者は革命記念日と布施辰治弁護士の歓迎会を企画して、看守長の同意を取りつけ、ついに実現したというのです。これには、いくらなんでも…と、びっくりたまげました。
 さらに、遠い親類にあたる海軍少将を動かし、なんと両国署から出ることが出来たというのです。いやはや、権力機構というものの、いいかげんさも知ることができました。
(1975年9月刊。定価不詳)

「挑戦と闘い」の軌跡、そして絆

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 篠原義仁弁護士 、 出版 追悼集刊行委員会
 篠原さんは私が50年前に弁護士になって入った事務所の先輩弁護士の一人です。もう一人、杉井厳一弁護士(故人)がいますが、私は、この二人には絶対に追いつき、追いこすことは不可能だと、たちまち悟りました。
 篠原さんは、ともかく「口八丁、手八丁」の典型です。その手厳しい評言は、ときに言われた人の心を傷つけることもあったことでしょう。公害問題を扱う篠原さんは、自らが「口害」発生源でもあったのです。でもなぜか、その「口害」が私に向けられたことはありませんでした(ひょっとして、私が鈍感だったというだけのことかもしれません)。
 篠原さんは、群馬県の安中(あんなか)公害を初め、川崎大気汚染公害をふくむ公害問題など、数多くの事件を扱い、公害弁護団をリードしていきました。そして、篠原さんは、自由法曹団で幹事長をつとめ、3.11のあとは団長に就任もしています。弁護士会のほうには役職についてはいません。ほかには「九条の会」でも岡田尚弁護士と一緒に活躍していますが、篠原団長のころ、自由法曹団は10年間で団員が500人も増え、2000人を超えました。
 ところが、今では若手が入団せず、老年団員の死亡・脱退という自然減のなかで、絶対数が減少して、2000人を割り込んでいます(と思います)。
 自由法曹団では70歳になった団員を古稀団員として表彰することになっていますが、ちょうど篠原さんは自分自身が対象となり、団長として自らを表彰するという事態になりました。
 篠原さんは、弁護士になってからは「シャイで照れ屋を速射砲の毒舌で隠した」という佐伯剛弁護士の指摘はそのとおりだと私も思います。
 そして篠原さんは、本人が古稀になったときの自己紹介で、小学生くらいまでは、言葉が出ないことを周囲が心配していたというのには、びっくり仰天してしまいました。人間って、変わるものなんですね…。
 篠原さんは、2021年8月26日、まだコロナ禍の真最中に、77歳で亡くなりました。本当に残念です。そして、篠原さんが亡くなってもう3年もたつのかと思うと感無量です。
 私が故郷に戻って10年目の記念パーティーを開いたときには、篠原さんはわざわざ川崎からやって来て祝辞を述べてもらいました。
 本当にお世話になりました。ありがとうございました。いろんな人の思いがあふれている素晴らしい追悼集です。
(2024年2月刊。自費出版)

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