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なぜ「政治とカネ」を告発し続けるのか

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 上脇 博之 、 出版 日本機関紙出版センター
 9月初め、福岡県弁護士会は著者による講演会を開催し、私も福岡の会場で視聴しました。著者はWeb出演です。詳細なレジュメと表にもとづいた、熱のこもった講演のあと、参加者との質疑応答も30分近くあり、著者のド迫力に改めて圧倒されました。
 憲法学者である著者は、議会制民主主義の本質を踏まえて、現在の国会の議席構成には問題があると強調しています。
 国民主権主義である以上、直接民主主義の採用も肯定し、かつ直接民主主義に限りなく近い議会制でなければ、議会制民主主義とは言えない。議院内閣制を採用している以上、国会の多数派である内閣の暴走に歯止めをかけるため、与党の過剰多数を許してはならない。そのためには投票価値の平等が必要だし、自由な選挙運動が保障されなければならない。
 私は投票価値の平等を守るため、敬愛する伊藤真弁護士(憲法の伝導師と自称)の求めに応じて裁判の原告の一人になっています。
 また、自由な選挙運動の実現のためには、著者は書いていませんが、戸別訪問解禁が絶対に欠かせません。日本がいつも真似するアメリカもイギリスも、戸別訪問こそ選挙運動の大きな柱です。選挙ポスター公営掲示板の制度も廃止して、もっと選挙運動は自由にして、みんなが楽しくやれるようにしたらいいのです。著者は小選挙区制をやめて、完全比例代表制を提案しています。大賛成です。そして、企業や労働組合の政治献金やパーティー券の購入は法律で全面禁止すべきだと提案します。これまた、まったくそのとおりです。
 かの典型的な反共・労働貴族である芳野・連合会長は労組からの政治献金によっていくつかの政党の懐(ふところ)を握っている自信から、あのようなデタラメ放題を高言し続けています。労働者個人が政治献金できるのは当然ですが、労働組合が政治献金して政治を動かそうなんて、まったく間違っています。
内閣官房機密費は月に1億円、年12億円、まったく使い放題。会計検査院も手が出せない、「治外法権」のお金です。
 このなかから首相には毎月1000万円、自民党の国対委員長には月500万円が現金で手渡され、領収書は不要というのです。裏金どころではありません。要するに、私たちの税金を政府の高官たち、自民党と公明党の幹部連中が飲み食いを含めて私たちの税金を好き勝手に、毎月1億円も使っているのです。許せません。
 いやあ、それにしても、著者が地道な探究作業を長く続けておられることに、心より敬意を表します。
(2023年8月刊。1400円+税)

政権に忖度するな!NHK

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 NHK裁判原告団・弁護団 、 出版 日本機関紙出版センター
 NHKが自民・公明政権べったりの報道をしているのに我慢できない人々が裁判にたち上がりました。7年あまりの裁判は、一審も二審も、そして最高裁まで行ったけれど、ついに敗訴が確定しました。では、無駄だったのかというと、決してそんなことはなく、大きな成果を上げました。その意義と成果を教えてくれるのが、この本です。
放送法4条には、「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないこと」が明記されています。でも、現実のNHKの報道は、とてもこの条文を守っているとは言えません。自民党の総裁選が始まると、大々的に、しかも好意的にたっぷり時間を割いて最大もらさず紹介します。ある候補者の立候補宣言を他の番組を中断して実況中継までしたのですから、恐れおののきます。
本来、メディアは、権力をきちんと監視する「番犬」の役割を果たすべきです。ところが、実際には、自民・公明政府を支える「パートナー犬」になり下がっています。
実況中継された候補者に対して、自民党の裏金は、いったい何に使われたのか、その裏金処理は違法という認識があるのか、誰が責任をとるべきか、その場にいた記者は「質問」を直球でぶつけるべきでした。残念ながら、そんな質問はしていません。
 ところで、この裁判で訴えられたNHKは、一審でも二審でも、原告らの訴えは、「法律上の争訟」にあたらないと主張しました。そのうえで、NHKの代理人は、証人尋問のとき、一切質問しなかったとのこと。これって、ひどいと思います。充実した審理になるのを恐れた、NHKの果たすべき役割が明らかになるのを避けたということです。許せません。
 放送法4条に定めた内容は、一般的抽象的な義務を定めただけで、具体的な義務を認めさせるものではない。裁判所は、このような判決を書いています。でも、本当にそうでしょうか。視聴者はNHKに対して受信料を支払う義務があるわけで、NHKに受信料を徴収されて支払っている以上、その内容についても文句が言えて当然だと考えられる。つまり、放送法4条に明記されている内容は「契約上の義務」になっている。原告はこう主張しました。
 放送受信料とNHKの提供する放送が一定の対価性を有する以上、放送内容が事実に反していたり、政治的な公平性を著しく欠いていたりする場合など、放送法4条などに明白に違反する内容の報道番組が放送されたときには、財産権を保障する憲法29条の趣旨からしても、視聴者にとって法的権利ないし利益の侵害となりうる。これって、実に、まっとうな論理ではないでしょうか。ところが、なんと裁判所は、これを理屈にあわない、屁理屈で否定したのです。
 原告らの本訴請求はNHKの放送番組編集の自由を著しく制約するものであり、その行使を事実上不可能ならしめることに等しいから、確認の利益がない。この論法は、私には、まるで理解できません。これって、コトバ遊びを喜んでするような人々にしか分からない、少なくとも不親切きわまる論理です。こんな判決を書いた裁判官自身も何が言いたいのかよく分からないまま、ともかく原告の請求を認めるわけにはいかないと決めて起案したとしか思えません。ここで言えることは、良くて司法消極主義の伝統を確実に受け継いでいるということです。
 NHK会長になった三井物産の元副社長(籾井勝人)が、「政府が右と言っているものを、我々が左と言うわけにはいかない」と高言して、世論から猛烈な反発を受けたことは、まだ耳に新しいところです。NHKの内部で働いている人は大変な職場環境のなかで黙々と仕事を遂行していることと思います。そんな真面目に働く人々にも大いに読まれたらいいな、そう感じました。ついでに、NHKの朝ドラ「虎に翼」の原爆判決に至る展開は実に素晴らしいものでした。原爆投下は当時の国際法に照らしても違法である、しかし、司法ではどうしようもない、行政と立法で救済すべきだという判決文が読み上げられるのを聞いて、私が心が震えました。NHKって、すごいことをやることがあるんですね。そんなNHKには心から声援を送ります。でもでも、普段のNHKにはひどすぎます。
 奈良でがんばっている佐藤真理弁護士より贈呈を受けました。ありがとうございます。
(2024年8月刊。1500円+税)

袴田事件

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 青柳 雄介 、 出版 文春新書
 事件発生は1966年6月30日のこと。清水市にあった味噌製造会社の事務宅が放火され、焼け跡から一家4人の惨殺遺体が発見された。「犯人」として逮捕されたのは、従業員で元プロボクサーの袴田巌(30歳)。直接証拠は何もないまま死刑判決となり、1980年に死刑は確定した。それからすでに40年以上がたっている。死刑囚は確定したら数年のうちに処刑されることが多い。しかし、2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は再審の開始と同時に、死刑と拘置の執行停止を決めた。
「捜査機関が重要な証拠を捏造した疑いがあり、(袴田を)犯人と認めるには合理的な疑いが残る」
「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にある」
袴田厳を取り調べしたときの状況が録音されていて、法廷で再現されました。それによると、長時間の取調べのなか、尿意を訴えても、便器を取調室に持ち込んでさせているのです。そして、取調官は袴田厳に対して、「お前、もうあきらめなさいよ。婆婆に未練をもつのはもうやめなさい。はっきり言ってね、あきらめなさい」と迫った。ひどいものです。
そして、「血染めのパジャマ」とされていますが、実際には、「肉眼で確認できないほどわずかなものだった」のです。そのうえ、袴田のズボンとされたものを袴田はいくら努力してもはくことができなかった。この現実に対して検察官は「袴田厳が太った」とか、強弁しています。 また、衣類に「鮮やかな赤み」が1年2ヶ月間も味噌につかっていたなんて信じられません。
まさしく警察によるデッチ上げ(冤罪事件)ということができる事件です。
袴田厳が福岡拘置所にいたのは19年間のうちに、十数人の死刑囚仲間が死刑へ消えていった。
現在、死刑囚として確定しているのは133人。うち70人が東京拘置にいる。
再審判決が迫っていますが、今度こそ、無罪判決を出してもらいたいものです。
(2024年8月刊。1100円+税)

ドキュメント・生還2

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 羽根田 治 、 出版 山と渓谷社
 私は九重山を歩いたことくらいはありますが、本格的な登山をしたことはありません。また、したいとも思いません。苦労して頂上にのぼって、はるか彼方まで見通したら、さぞかし気持ちがいいだろうというのは分かりますが、それまでの苦労に耐えられそうもありません。登山ではありませんが、大学2年生のとき、授業をズル休みして尾瀬沼に行ったのは、今もいい思い出になっています。
 この本は山で遭難して無事に生還した人たちの手記、聞き取り、そして対談から成っています。みんな長期間の遭難です。重傷を負いながら13日間、道を間違えて8日間、とかです。2週間とかではなく、3週間も山中で一人生き抜いた人もいます。人間の生命力はなかなかのものなんですね…。
ヤマの地図をスマホのアプリで活用するYAMAPは福岡の春山九州男弁護士の長男さんが創設した会社だと聞きました。便利なようですね。
でも、バッテリーが切れてしまったらどうしようもありませんよね。やはり水が大切。石をひっくり返して、アリやミミズを食べたり、苔をむしって食べたとのこと。でも、それで空腹感が満たされるほそのことはない。食べられる山野草の知識があれば良かったでしょうね。
 死ぬかもしれないとは考えないようにしていた。絶対に助かるんだという気持ちでずっといた。簡単にあきらめないということなんですよね。寒いので、夜は寝ずに乾布摩擦をして、昼に寝る。日にあたると、太陽エネルギーのすごさを感じた。太陽光を浴びることによって、体に活力が湧いてくる。
 絶対に無理はしない。迷ったら引き返す。引き返す勇気が大切。ライターやマッチは必需品。脱水症状にならないように、沢の水を積極的にたくさん飲んだ。
 この本の最後に、「自己責任なんだから遭難者なんか助ける必要はない」とか、「救助費用を税金でカバーするな。全額自己負担にしろ」と、心ない攻撃をしてくる人が少なくないとのこと。悲しい現実です。そんなことを言う人は、きっと本人は他人からたすけてもらった経験がないのでしょうね。
人間は誰だって失敗するわけです。その失敗をした人を切り捨ててしまったら、この人間社会はますますギシギシしてしまいます。助けられる限り全力で救出するのは当然のことです。
アメリカ軍の不要不急の高額な戦闘機やイージス艦などを買うお金(税金)は日本は持っているのです。そんな戦闘機を買うよりも生きた人間の救出に使うほうが、よほどいい税金の使い道です。
(2024年6月刊。1760円)

アーリヤ人の誕生

カテゴリー:インド

(霧山昴)
著者 長田 俊樹 、 出版 講談社学術文庫
 新インド学入門というサブタイトルのついた刺激的な文庫本です。
 本論に入る前に、最後の補章にある論述がとても印象に残りました。文系と理系の研究のすすめ方の違いです。理系では再現可能性の有無が重要になる。同じ条件なら、誰がやっても同じ結果が得られなければならない。しかし、文系ではそんなことは必要ない。ひたすら、独創性があるかどうかがカギとなる。理系の評価基準で文系の成果物を「零点」と評価するのは、おかしい。なーるほど、そうですよね。文系では、誰がやっても同じ結果というのを求められることはまずありません。
ついでに言えば、私が50年にわたって扱ってきた裁判では、民事も刑事も、双方の主張がくい違っているとき、どちらが正しいのか、最後まで分からないということは決して珍しくありません。最高裁判所まで行って確定した判決が、実は間違っていたというのは、今も、そして、これからも決して珍しいことではないと思います。真実(真相)は、思い込みも含めて、簡単に分かるものではないのです。
 「役に立つ大学教育」というのは、大変な問題があると私も思います。何が「役に立つ」のかは、実のところ、長い目で見ないといけないものです。目先の、投資したらすぐにでも回収できるか、という近視眼的なモノの見方だけで大学を運営するのは、大変危険だと私も思います。大学は、いろんな意味で、「遊び」が必要なところなのです。
その意味で、北欧のように、大学には20歳過ぎてからゆっくり入学できるようにしたらいいと思いますし、大学生にはアルバイトしなくても勉強し、生活できるように、学費をタダにし、生活費も支給してやったらいいのです。日本は今、軍事予算を倍増しようとしていますが、そのお金を教育予算に振り向けたら、すぐに簡単に実現できます。
さて、ここから本題です。インダス文明は大河文明ではない。インダス川流域に分布する遺跡は多くないし、川の水だけでなく、モンスーンによる降雨を利用した農業もあった。インダス文明の時代、すでに大河ではなかった。
 「古代四大文明は、いずれも大河文明だ」と教えられてきたし、今も教科書はそうなっている。なので、これが簡単に書き改められることはないだろう。でも、違うものは違う。いやあ、これには大変驚きました。そうなんですか…。
 世界一の人口を誇るインドについて、人名、地名のカタカナ表記は、現地発音を無視している。たとえば、マハートマー・ガーンディー。日本では「ガンジー」と表記される。しかし、おかしい。ヒンドゥーをヒンズーと表記するのもおかしい。世界一の人口を誇るインドには多種多様な民族と言語がある。なので、単一的なインド観から、多元的インド観へ改められるべき。
 インドのことは、すべてサンスクリット語文献で理解できるというのは勝手な、間違った思い込みというのが著者の主張です。「あるべき」インドから、「ありのままの」インドに、ということです。よく分かります。
 著者は、ムンダ語族を専門に研究した学者であり、6年間の留学経験もあります。奥様もムンダ人のようです。
 さて、「アーリヤ人」です。「アーリヤ」とは、サンスクリット語で、「高貴な」という意味のコトバ。「インド、ヨーロッパ語族」の自称。そして、「アーリヤ人の侵入」というのは、考古学的な痕跡がないというのです。それでも、サンスクリット語とギリシア・ラテン語は系統関係を有する。つまり、ことは単純ではないということ。
 ムンダ人は、農業を生業とする農民族であり、インドに東南アジアから稲作をもたらしたのは、ムンダ人の先祖たち。ムンダ人は、乳製品をまったく摂取しない。
 知らない世界が目の前に一気に広がった気のする文庫本でした。
(2024年6月刊。1100円+税)

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