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ブルゴーニュ公国の大公たち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジョセフ・カルメット 、 出版  国書刊行会
ボルトーと並んで有名なワインの名産地、ブルゴーニュ地方には中世に大きな公国があったのでした。その首都デイジヨンには大きな館があり、今では市庁舎と立派な美術館になっています。昔の栄華をしのばせる偉容には圧倒されます。
そして、デイジョンもボーヌも、まさしく美食の町です。星があろうとなかろうと、心ゆくまで美味しい食事を堪能することができます。ボーヌには2度行きましたが、ぜひまた行きたいところです。
初代ブルゴーニュ公のフィリップ・ル・アルディは、1342年生まれ。背が高く、頑健で、よい体付きをし、丸々と太っていて。色の黒い醜男だった。明敏な洞察力こそは、機を見るのに敏な感覚、決心とあいまって、公の主な長所とも言えた。
 二代目ブルゴーニュ公のジャン・サン・プールは、勇敢で大胆で、ひねくれ者で、際限のない野心家だった。1407年11月、ルイ・ドルレアンがジャンによって暗殺された。ジャン・サン・プールは、野望をみたすためには、目的のためには手段を選ばず、緊迫した情勢を解決できるなら、犯罪であってもやってのける政治家だった。逆にオルレアン公の方がブルゴーニュ公の暗殺を図っていた。だから、正当防衛しただけのことだと喧伝された。
 英国軍がヘンリー5世の下にアザンクールでフランス軍を大敗させた。ジャン・サン・プールはヘンリー5世と結んだ。そして、1419年9月、ルイ・ドルレアン公殺しの張本人が、モントロー橋の上で暗殺された。
 三代目のブルゴーニュ公は、フィリップ・ル・ボンである。背は高く、風采は立派、人並みすぐれ、見栄えする容姿の持主だった。その私生活は庶外れの自由奔放さで、30人の愛人がいて、公認の私生子は17人いた。
 このフィリップ・ル・ボンの時代に、あのオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクが登場する。ジャンヌ・ダルクは、金貨1万エキュという巨額でもって英国人に売られた。裁判長のピエール・コションは、残忍な対英協力派、何でもやってのける聖職者だった。フィリップ・ル・ボンはジャンヌ・ダルクの裁判をちゃんと知らされていた。
 四代目で最後のブルゴーニュ大公は、シャルル・ル・テメレール(突進公)である。
 自分にも、他人にもきびしく我慢を知らず、粗暴で執念深く、すぐに逆上した。
 ブルゴーニュ公国では、民衆的な劇が非常に好まれ、数多くの俳優がいた。まばゆいばかりのロマネスク芸術の一派が花を咲かせた。
ブルゴーニュ宮廷は、15世紀に、稀にみる輝きを発した。祝宴は、公家のお得意芸の一つだった。パントマイム、人体を組みあげてくるお城、軽業の見世物などが宴会にはつきものだった。たえず工夫をこらしていることが決まりだった。
 ブルゴーニュ公国には、制度上の一体性はまったくなかった。
ブルゴーニュ公国は、現在のフランス、ベルギー、オランダ(の一部)、ルクセンブルクなどにまたがった広大な版土を有していた。
そんな中世のフランス公国を知ることのできる本格的な歴史書です。
(2000年5月刊。6500円+税)

月神

カテゴリー:社会

著者  葉室 麟 、 出版  角川春樹事務所
8月初めに網走刑務所(旧)を見学してきました。2度目の訪問ですが、20年ぶりに行ってみると、すっかり見学者向けの近代的施設ができていました。
 それでも、放射線状に並ぶ、天井の高い監獄の部屋は当然のことながら昔のままです。こんな高い天井から脱獄した囚人がいたなんて信じられません。今も、まさしく脱獄しようという男が天井のはりから外へ出ようとしています。その人形が不気味です。そして五寸釘寅吉という脱獄を繰り返し、最後は模範囚となった人物の人形が門のそばで待ち構えてくれます。
 夏でも20度あまり、寒になると、零下20度の世界。そんな厳しい寒さのなかで働かされていた囚人たちは哀れです。
 この本の主人公は、福岡藩の藩士だった月形潔が、幕末の嵐を生きのびて北海道に新設された集治監(監獄)の初代典道(所長)になったのでした。網走ではなく、樺戸のほうです。
 ですから、まずは幕末期の福岡藩で何が起きていたのかが語られます。福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は尊王攘夷(そんのうじょうい)派に対して厳しい態度でのぞんだ。彼らが藩主の威光を恐れず、それどころかたてつく存在であるのを嫌い、警戒した。
 江戸で桜田門外の変、そして坂下門外の変が起きた。
 長洲藩は禁門の変をおこして、敗北した。福岡藩内の情勢は複雑だった。尊王攘夷派も幕の中枢にのぼっていった。そして、彼らは薩摩と長洲が連合するよう働きかけていた。
 そして、藩主は筑前尊攘派を弾圧した。リーダーである月形洗蔵は斬首された。
 明治となり、石狩地方に樺戸(かばと)集治監が設置されることになり、その初代典獄に月形潔が就任した。
 囚人たちは道路建設工事に施設された。囚人1150人のうち、900人が発病し、死者は211人にのぼった。
 月形潔は初代典獄を3年つとめて福岡に戻り、明治27年に48歳のとき病死した。
 囚人のなかには政治犯もいたと思うのですが、ひたすら典獄として秩序維持にいそしむ潔の心情が哀れです。
 幕末から明治の雰囲気を知ることのできる本です。
(2013年7月刊。1600円+税)

憲法は政府に対する命令である

カテゴリー:司法

著者  C・ダグラス・ラミス 、 出版  平凡社ライブラリー
初版は2006年8月、小泉内閣の前の第一次安倍内閣のときに刊行されています。
第一次の安倍内閣は憲法改正を始める力はなかった。しかし、第二次安倍内閣には憲法改正のための政治力があるかもしれない・・・。
 そして、自民党は2012年4月、憲法改正草案を発表した。この草案の正確は、国民に対する命令である。草案102条にある「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という条項は、主権者にいう言葉ではない。
 安倍首相のいう「日本を取り戻す」とは、大日本国帝国政府のよさを取り戻すという意味だ。しかし、明治憲法が現憲法に変わったとき、日本がどれほど変わったのかを思い出す必要がある。
憲法とは国の政治を形づくるものである。
 近現代の憲法の多くは、国家権力の制限を基本としている。
 明治憲法のもとでは「臣民」が存在していた。明治維新より前には「国民」という言葉は存在もしなかった。政府は、社会契約の相手であり、その契約を守るかぎりにおいて市民も、それを守る。つまり、市民は、「政府」として認めて、法律に従う義務がある。日本国憲法に命令として従う義務があるのは国民ではなく、政府である。厳密にいうと、政府を構成する人間である。
 問題は押しつけ憲法がどうか、なのではない。誰が誰に、何を押しつけたのか、ということである。日本の民衆は、総司令部(GHQ)の大日本帝国政府への新憲法の押しつけに参加した。
 施行されてしばらくして、アメリカ政府は、とくに9条に関して、後悔した。しかし、それは後の祭りだった。
 交戦権とは、兵士が人を殺す権利である。
 交戦権とは、侵略戦争をする権利ではなく、戦争自体をする根本的な権利である。
 交戦権とは、兵士が戦場で人を殺しても殺人犯にはならないという特権だ。それは兵士個人の権利ではなく、国家の権利である。
 侵略戦争を起こしたときには、それが禁止されているものである以上に、交戦権は成り立たない。自衛戦をする場合のみ、立派な交戦権が成り立つ。
日本国憲法において重要なのは、その国家の正当暴力の権利を、すべてではないが、その一部の交戦権を放棄しているということ。
 自衛隊は軍隊の組織をもち、軍服を着、軍事訓練を受け、そして戦争のための武器をもつ。しかし、軍事行動はできない。このように、かなり訳のわからない組織である。
 不思議な自衛隊である。このように矛盾した状況だが、結局、憲法ができてから今までの60年あまり、日本の交戦権の下では一人の人間も殺されたことはないという現実がある。
 自民党の改憲草案は、戦争で日本は害を受けたが、害を与えたことはないという歴史観に立っている。
 いやはや、なんという間違った、狭い考えでしょうか・・・。情ないです。いまは沖縄に住むアメリカ人の著者による歯切れのいい憲法を論するの文庫本です。一読をおすすめします。
(2013年8月刊。1000円+税)

抗日・霧社事件の歴史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版
1930年(昭和5年)10月27日、台湾の山岳に住む原住民は反乱を起こし、運動会に参集していた日本人を皆殺しにしたのが霧社事件です。
 3冊シリーズの第1冊目を紹介します。霧社という地名は、このあたりは霧が深いために名付けられた。海抜1148メートルある。
 1930年当時、霧社の町には、日本人が36戸157人、漢人が23戸111人住んでいた。
 樟脳(しょうのう)製造に従事する従業員と家族は700人にのぼった。
 日本の植民地政府は、日清戦争後に台湾を支配し、武力討伐で原住民を包囲し、それぞれの部族に「和解」や「武装解除帰順」を迫った。日本人は、原住民族を野蛮民族とみなして、大日本帝国の民族主義の優位のもとに、彼らの人間性を尊重することはなかった。
 タイヤル族は、代々、狩猟と粟、陸稲の栽培で暮らしをたててきた。日本人は、それに対して焼畑工作をやめさせ、水稲の定地工作を強制した。タイヤルの人々にとって、水稲農耕への転換はつらい道のりだった。
 タイヤル族の銃器も押収され、伝統的な狩猟は制限された。出草して敵の首を狩ることは、本来タイヤル族の大切な祖霊崇拝の習俗だった。
 首狩りは、部落の行事に加わる手段であり、男性の武功と栄誉の象徴でもある。敵の首を狩ったことのないものは、顔に刺青を入れることができないし、顔に刺青がないものは結婚することができない。刺青は、成人のしるしでもあった。
 タイヤル族の風習では酒をすすめるのは、その人への尊敬の気持ちをあらわす。ところが、逆にタダオ・モーナは酒をすすめた相手の日本人警官から殴打され、侮辱されてしまった。
 10月27日に霧社事件が始まり、全部で134人の日本人が殺され、26人が負傷し、日本の服を着ていた漢人2人が殺された。
 10月31日、日本軍が総攻撃を始めると、抗日6部落の人々は山深く潜入して、長期抗戦に入った。
 日本陣営への参加を迫られたタイヤル族には「戦地勅令」が適用され、命令にそむいたり、警察の指摘に従わず、戦地から逃亡したものは、即刻銃殺あるいは拘留して厳罰に処した。その一方、勇猛果敢に戦功をあげた原住民には褒賞を与えた。
日本人によって育てられた花岡一郎と二郎は、民族の感情と恩義の葛藤のなかで矛盾におちいり、一族21人を連れて小富士山に行き、そこで首を吊ったり、切腹自殺をして、部族の人々と日本人の両方への忠誠心を表明した。
 タイヤル族は、祖先は巨木(ボソコフニ)のなかから生まれたと信じ、死の苦しみに直面すると、巨木のしたて首を吊って死ぬことをえらび、霊魂を自ら祖霊のもとにかえす。そのため、タイヤル族が日本軍の討伐や包囲懺滅に対抗するとき、徹底的に闘うか、さもなくば自ら首を吊って殉死する。
 事件が発生したとき、抗日6部落の住民は1236人。戦死者85人、飛行機による爆死者137人、砲弾による死者34人、「味方蕃」による死者87人、自ら首を吊って死んだ者290人(45%)。いずれにしても日本人とタイヤル族の双方に大惨事となった事態です。
(2000年6月刊。2095円+税)

日本国憲法の初心

カテゴリー:司法

著者  鈴木 琢磨 、 出版  七つ森書館
『路傍の石』の山本有三が日本国憲法の成立に深く関わっていたことを初めて知りました。直接的には、口語化ですけれど、広い意味では日本国民の意思を体現して現憲法の成立を推進したと言えると思いました。
 山本有三は1887年7月、栃木県で生まれた。一高から東京帝大独文科に入って学ぶ。一高時代、同級の近衛文磨と生涯と友となる。
 山本有三は強度の近眼のため、微兵検査で不合格となり、兵役は免れた。
 1920年に文壇にデビューしたが、1933年、共産党との関係を疑われて検挙された。
 戦後、日本国憲法をつくるというとき、山本有三は口語体にすることを強く主張し、口語体の文案をつくった。政府は山本有三の口語体文案をおおいに参考にしながら、現在の憲法をつくりあげた。
 山本有三は、戦後、1947年の参議院選挙に全国区から出馬し、9位で当選した。そして、無所属議員による緑風会に所属する。そして、文壇の大先輩である幸田露伴の死去にさいし、参議院本会議で追悼の演説をした。
 1956年の参院選挙のとき、自民党が憲法改正を叫んだのに対して、山本有三は次のように主張した。
 押しつけられた典に不満もないわけではない。いつかは改正しなければならないと思う。しかし、憲法改正は非常に重大なことであるから、軽々しく取り扱うべきものではない。
 本当にそのとおりですよね・・・。次に、山本有三の戦後の反省のコトバを紹介します。
 軍部や右翼がのさばったのは、たしかに不都合には相違ない。しかし、それをのさばらせたのは、国民の中にも何かがあったからではないのか。官僚や議員や報道陣が、常にときの権力に屈従しているのは、必ずしも彼らだけが悪いのではなく、そうさせるものが国民の中にもあるからではないか・・・。
 いのちを投げ出すことを最高の美徳と考えたり、それをほめたたえる思想は、封建主義的な思想だ。ヤクザ仁義の思想であり、軍国主義的な思想だ。こういう考え方、気風というものは、ぜひとも根だやしなければならない。
 日本は領土を広めようとして海外に乗り出したときは、必ず失敗している。
 「もし他国から攻撃を受けたとしたらどうするか」「武力をもたない日本は、ひとたまりもないではないか」
 この質問に対しては、逆に問い返したい。
 それなら、どれだけの兵力をもっていたら侵略をくいとめることができるのか?
 デンマークとナチスの例を考えたら、国防軍を備えていたところで、なんになったろうか・・・。問題は、どれだけ武力をもつかということではない。そんなものは、きれいさっぱりと投げ出してしまって、裸になることである。そのほうが、どんなさばさばするかもしれない。裸より強いものはない。なまじ武力なぞ持っておれば、痛くもない腹をさじられる。それよりは、役にも立たない武器なぞは捨ててしまって、まる腰になるほうが、ずっと自由ではないか。そこにこそ、本当に日本の生きる道があるのだと信ずる。
 戦前の厳しく辛い経験をふまえた山本有三の指摘は、今も生きているものだと思いました。
(2013年8月刊。1600円+税)
 稲穂が垂れて、畔に紅い彼岸花の咲く秋になりました。久しぶりに庭に出て、花を整理しました。
 夏のカンナを刈り、夜に芳香を漂わせる夜光木をカットしました。その隣には、エンゼルトランペットが黄色い花を咲かせています。
 娘が庭に植えていた芋を掘りあげました。なんとか食べられそうな芋を収穫することができ、さっそく秋の味覚として美味しく、みんなでいただきました。

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