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シベリア抑留全史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  長勢 了治 、 出版  原書房
 終戦直後、中国東北部(満州)にいた日本軍将兵がソ連軍によってシベリアに連行され、極寒の地で捕虜として働かされたシベリア抑留について、あますところなく明らかにした教科書的な全史です。600頁もの大作なので、読み通すのに骨が折れてしまいました。ともかく、大変な労作です。シベリア抑留を知りたい人にとっては欠かせない一冊だと思います。これを読んだら、あとは香月泰男や宮崎静夫・山下静夫などの画文集でイメージをつかむ必要もあるように思います。飢えと寒さと重労働というシベリア三重苦は想像をこえる辛さだったことでしょう。今の私たちには、ほんの少しだけ想像できるにとどまるのでしょうが・・・。
満州にいた日本人は、建国時の1932年に24万人、1936年に52万人、敗戦時には155万人だった。それにも増して毎年100万人もの漢人が流入し、3000万人に達していた。だから、終戦後は満州人は大量の漢人にのみこまれて、民族としてはほとんど消滅するに至った。
 実際のところ、どうなのでしょうか。満州族は消滅してしまったと言ってよいのでしょうか・・・。
 スターリンは、最終的に対日参戦を決意した段階で、日本兵のソ連領への連行を決めていたと思われる。ソ連は5年にわたる苛烈な独ソ戦を戦って、国土が荒廃し、経済が疲弊していた。2500万人といわれる膨大な犠牲者を出し、とりわけ若い男性労働力が決定的に不足していた。戦後の国民経済復興には、新たな労働力を必要としていた。
日本軍の将兵を1000名単位の作業大隊に再編成したのは、将官や上級将校を分離し、旧軍組織を解体することで日本兵の団結や抵抗を防ぐためだった。
ソ連は日本兵を一貫して「戦争捕虜」として取り扱った。シベリアに抑留された日本人にとって不幸だったのは、弾圧機関NKVDに管理された捕虜収容所に入れられたことだった。
 冷戦が始まり、米ソの対立が深まるなかで、捕虜が冷戦の人質となった。これが捕虜の本国送還が10年以上も遅れた要因の一つである。最初に本国送還されたのは、アメリカ人、フランス人、ルーマニア人であり、祖国への道が最も遠かったのがドイツ人と日本人だった。
 寒さに強い体質のロシア人が平気で耐えるシベリアの酷寒も、温暖な気候で育った日本人には殺人的な寒さとなる。日本人に凍傷が多かったのは、粗末な衣服と相まって体質に一因がある。ソ連人は、自分たちと同等もしくはそれ以上に食料を支給し、同じ酷寒で働いているのに、なぜ日本人に犠牲者が多いかといぶかった。
 ソ連の調査によると1946年(昭和21年)1、2月は、ドイツ兵に比べて日本兵の死亡率は3倍近かった。
 ソ連のノルマの大きな特徴の一つは、多少とも技術的な作業のノルマは低く、単純作業は高いことにある。
収容所では、日本人は、酷寒、飢餓、重労働の三重苦に耐えて、よく働いた。
 ドイツ人捕虜は、対照的に、出来るだけ仕事をサボろうとし、決して無理な労働はしなかった。収容所では、小さな配給食(パン)ではなく、大きな配給食が死をもたらす。少しでもパンを多くもらうために費やす体力は、増配されるパンのカロリーより大きく、かえって体力を消耗して死を早める。
 ラーゲリではパンを減らされようとも、なるべく働かないこと。空腹に耐えるほうが生きのびる確率は高い。
体格検査ではパンツをおろさせ、お尻の肉づきを見る。お尻の肉を手でひっぱってみる。体力のあるものの肉には弾力とつやがある。衰弱している者のお尻はたるんでいて、空気の抜けた風船のようにだらっと、たれている。
 日本人は、収容所のなかのないない尽くしの生活で、創意工夫と器用さを発揮した。最盛期には35ほどの劇団があった。
巻末の参考文献を見ると、シベリア抑留に関しては体験記をふくめて、たくさんの文献が出ていることに目を見張ります。『夢顔さんよろしく』(文春文庫)もその一つです。かの瀬島龍三の闇も知りたいところです。
(2013年10月刊。6800円+税)

セブン・アイ9兆円企業の秘密

カテゴリー:社会

著者  朝永 久見雄 、 出版  日本経済新聞出版社
 私はなるべくコンビニを利用しないようにしています。なるべくなら普通の小売店で買物したいからです。ところが、今は町に出てもコンビニしか店がないところばかりで、やむなくコンビニに入らざるをえません。困ったものです。
 この本はコンビニ礼賛で貫かれています。世の中すべてをコンビニが支配してしまったら怖いですよね。そうなったら統制経済みたいなものではありませんか。
 季節、天候その他で人間(ひと)の好みを推測して商品を並べて買わせる。食材も調理ずみ料理も、すべてコンビニで買うようになったら、味気ないと言うだけではなく、生産統制にまでつながってしまいかねませんよ。
 怖い、こわい、おおコワ・・・、と思いながら読みすすめた本です。セブン・イレブンがロフトや赤ちゃん本舗まで買収していることも知りませんでした。
 そして、なによりコンビニ内にATMがあること、セブン銀行設立で利用者が急増したことなど、知らないことばかりでした。
アメリカではリッチ層は高級百貨店をつかい、一般階級の人はショッピングモールを利用する。このショッピングモールにもABCのランク分けがあるというように階層分化がはっきりしている。しかし、日本では高級ブランドを買う人が安い商品も買うというように階層分けがはっきりしていない。
 セブン銀行の設立によって、1万8000台もの現金の入出金拠点をもっている。
 セブン・アイ・ホールディングはコンビニから百貨店まで幅広い商品を取り扱っている。グローバルで5万2000店、毎日5300万人以上が来店している。年に194億人となり、世界中の人が1年に3回も来店していることになる。
 セブン・イレブンの雇用者は14万人。パート・アルバイトをふくめると、50万人以上を雇用している。
 セブン銀行は2003年11月、開業2年半で黒字になった。誰も予想しなかったことが起きた。1年間のセブン銀行の利用件数は7億件。1日120件の利用のうち8割100件が出金で、1回あたり4万円。18件が入金(平均5万円)。ATMのなかには2500万円入っていて、毎日150万円ほどしか減らないため、警備会社による現金の補充は2週間に1度で足りる。
 セブン・イレブンのお届けサービスである「セブンミール」の利用者(会員)は40万人。65歳以上が45%。80歳以上の会員が全体の2割を占める。年代が上がるほど、利用頻度が高くなる傾向がある。
 コンビニの販売管理費の内訳を見ると、人件費が低く、賃借料の比率が高い。セブン・イレブンは1店あたり300万円という広告・宣伝費を投入している。
 2000年2月に8153店舗だったのが、2013年2月期には1万5072店と、倍近い6919店の純増となった。
 セブン・イレブンの商品を配送するトラックの総数は4300台。かつては客の6割が30歳未満だったが、今や40歳以上が半分になった。
 コンビニ、とりわけセブン・イレブンの躍進ぶりには目を見張るばかりです。でも、昔ながら商店街も残しておかないといけないように思うのですが・・・。
(2013年9月刊。1600円+税)

ザ・ファイト

カテゴリー:アメリカ

著者  ノーマン・メイラー 、 出版  集英社
 カシアス・クレイ改めモハメッド・アリが、1974年、アフリカはザイールで行われたジョージ・フォアマンとのタイトル・マッチを描いた本です。
 私の父はプロレスの熱心なファンでした。テレビにかじりついて、身体をよじって応援していました。同じようにキックボクシングについても、プロレスほどではありませんが見ていました。
 1974年というと私が弁護士になった年です。モハメッド・アリがフォアマンにKO勝ちしたのは記憶に残っていますが、アフリカでの試合とは知りませんでした。そのボクシング試合の観戦記なのですが、さすがはノーマン・メイラーです。心理描写がすぐれていて、格好の読み物になっています。
 リングでのモハメッド・アリの強みは、自分の心理状態に忠実であること。マスコミに向かってしゃべるときには、甲高くもヒステリカルな調子でまくし立てるが、リングに上がったときには、決して半狂乱になったりはしない。
 アリはリングの上で、蝶のように舞い、蜂のように刺す。
 これは、すごいフレーズですよね。
ベストコンディションとは、どういう状態なのか。ボクシングでは他人にはうかがいしれないものがある。ヘヴィ級において、15ラウンドを最良のスピードでこなしうる心身を維持するのは、至難の技である。
 モハメッド・アリは、徴兵を公衆の面前で拒否した。そのときのアリの言葉は、
「ベトコンは、おれを黒人坊と呼んだことなどない」 というもの。
 荒々しい力を養うにはどういうわけか、肉を食べる必要があるようだ。
 重いサンド・バックを長時間たたき続けるほど、ボクサーにとって辛いことはない。それは腕を痛め、頭を痛め、両手によくバンデージを巻いておかないと、拳の骨を折りかねない。
80ポンド以上はある重い物で、タックル用の人形みたいに巨大である。したがって、パンチが正確にあたらないと、身体がショックでしびれてしまう。パンチのひとつひとつに十分にウエイトをかけるため、1分間に40発から50発の間隔に調整しつつ、連打しつづける。
ブロウを1発でもくらったら、ふつうのボクサーなら簡単に肋骨を砕かれてしまうだろう。腹筋を鍛えていない者であれば、背骨まで折られてしまうにちがいない。
 リング上。二人は円を描き、フェイントをかけあい、一進一退をくりかえしてみせた。まるで、おたがいに銃口を向けあっているみたいだった。一方が発砲し、命中させそこなったら、相手に確実に仕留められるといわんばかりの様相である。パンチを放った場合、相手にそれを読みとられてしまえば、逆にしたたかパンチをくらうことになる。これほどショックなことはない。
 高圧線を素手でつかむようなものだ。いきなり、ぶっ倒れてしまうだろう。
アリは防戦一方の形をとって、自分のペースに相手のフォアマンをまきこんでいった。
 アリは、フォアマンに左のパンチを浴びせ、つづいて右を放った。チャンピオン同士が対戦する場合、右のリードパンチなど出さないものだ。第一ラウンドではなおさらである。
 それは非常にむずかしく、かつまた、危険をともなうパンチだから。命中率が悪く、しかも、自分にとってはガードが甘くなる危険性がある。ボクサーにとっては、1インチや半インチのリーチの差が勝敗の分かれ目となる。
 それだけのハンディを負いながら、右をくり出そうものなら、たちまち相手にそのすきを見破られ、絶好の反撃のチャンスを与えてしまう。
連打の雨をくぐり抜けおおせたアリは、何度もフォアマンの首をつついている。それは、家庭の主婦のケーキの出来ぐあいを爪楊枝でつついて試してみるような感じを与えた。フォアマンのパンチの威力は、ますます弱まるばかりである。アリは、ついにロープから放れ、ラウンドの終盤30秒のうちに、めまぐるしいパンチをくり出した。少なくとも20発は放っただろう。そのほとんどが命中した。
 何発かは、この夜の試合でも、もっとも効果的なパンチであった。
アリが狙いすましてパンチをくり出した。パラシュートを背負って、飛行機から飛び出す男みたいに、フォアマンの両腕が横に開き、このバランスを失った姿勢のまま、フォアマンはリングの中央によろめき出た。バランスを崩し、ふらつきつつ、ずっとモハメッド・アリを見つめつづけ、どうすることもできず、つまずき、よろけ、身を沈めた。その心は、チャンピオン・シップの誇りとともに高きにありながら、その身体は大地を求めていたのだった。
 フォアマンは、悲報を受けとった直後の、6フィートも背があり、60歳にもなる老執事みたいに、その場に倒れ伏した。そう、2秒間は、うちひしがれて身動きひとつしなかった。あらゆる階級のなかで最強のチャンピオンがダウンしたのである。
 なんともはや、目の前で実況中継されている気分になる描写の続く本でした。
(1997年10月刊。古本)

維新政府の密偵たち

カテゴリー:日本史(明治)

著者  大日方 純夫 、 出版  吉川弘文館
 江戸時代には、忍者や隠密(おんみつ)と並んで御庭番がいた。御庭番は、将軍やその側近役人である御側御用取次の指令を受けつ、諸大名の実情調査、また老中以下の役人の行状、さらには世間の風聞などの情報を収集していた。そして、明治中期になってからは、内務省警保局が情報収集にあたっていた。では、その間はどうしていたのか・・・。それが本書で取り上げている「監部」(かんぶ)です。
 明治維新の当初、弾正台(だんじょうだい)が置かれ、探偵の仕事をさせた。弾正台は、1871年(明治4年)に刑部省(ぎょうぶしょう)とともに廃止され、司法省に吸収された。同時に中央政府の最高中枢機関として正院(せいいん)が設置され、その課の一つとして監部が出現した。監部の下に密偵が動いた。その人数は1874年ころ50人ほどだった。
 第一は、恒常的に探索活動する諜者(ちょうしゃ)、第二に異宗教掛諜者、第三に臨時雇諜者、第四に、探偵。
 1876年4月、正院の密偵機構の廃止以降も、密偵機能はその規模を縮小しながら、大臣・参議のもとで維持されていた。明治政府はキリスト教禁止政策をとり、そのためキリスト教宣教師のもとに密偵を潜入させその動静を探らせていた。
 そして、キリスト教の禁止がやむと、諜者は失職してしまった。
 大隈重信には、お抱えの密偵集団がいた。
密偵たちは、政府要人の目や耳として、世上の噂に耳をすまし、それにもとづく通報活動を自らの生活の糧としていた。
 自由民権運動の内部にも密偵がした。内局第一課の配下にあった密偵たちは、「仮面」をかぶって民権派の内部に潜入し、スパイ活動を展開していた。密偵たちが潜入していたのは、東京の民権運動だけではない。福島事件の安積戦、高田事件の長谷川三郎、群馬事件の照山峻三のように、自由民権運動には常に密偵の影がつきまとっている。
 自由党や立憲改進党の会議の様子などが、発言者と発言内容までふくめて克明に記録・報告されている。警視庁が集めた情報は警視総監から大臣に報告され、各府県の警察からもたらされた情報は、内務卿から大臣に報告されている。
 密偵たちの末路は哀れだったようですが、なかには表街道に出て、出世した者もいます。明治維新政府の裏面の一端が分かる本です。
(2013年10月刊。1800円+税)

狼の牙を折れ

カテゴリー:警察

著者  門田 隆将 、 出版  小学館
 公安捜査の実態が紹介されています。
 捜査対象とする事件は三菱重工爆破事件です。三菱重工は原発そして軍需産業のトップメーカーですから、そのことは厳しく批判されてよいと思いますが、爆弾テロの対象としてはいけません。あくまで言論による批判によって、そのあこぎな死の商人の姿勢をただすべきです。
 事件が起きたのは1974年8月30日の昼のことです。私が弁護士になったのと同じ年です。
 東京駅近くの丸の内仲通りにある三菱重工本社ビルが狙われたのでした。
死者8人、重傷者376人という史上最大の爆弾テロ。4000枚もの窓ガラスが破壊され、その窓ガラスの粒が通りを埋め尽くすダイヤモンドの海のように見えた。
 警視庁公安部には総数2500人もの公安部員がいた。本庁に1500人、そして各署に公安係が合計1000人いた。公安一課の5人の管理官は中核・革マル・革労協・赤軍・共産同(ブント)といったようにセクトを担当した。警察がウォッチしていたセクトは5流22派、8派90などと言われていた。
 セクトの情報をつかむうえでもっとも重要なのは「協力者情報」。要するに、警察のスパイをセクトに侵入させているわけです。
 捜査官の腕とは、どんな「協力者」をもっているかにかかっている。協力者のことを「タマ」と呼ぶ。どれだけ重要なタマをもっているか、すなわちタマをどう「運営」していくかによって、捜査官の真価が問われる。誰がタマなのか、それは当事者である捜査官しか知らず、記録にもタマの「本名」は残さない。もし情報が洩れたら、いつタマが消されるかも分からないから。
 1週間が10日に1度、接触し「捜査協力費」という名目での金銭を渡し、次の情報収集を頼む。活動家には生活に困っている者は多い。公安部から貴重な「捜査協力費」をもらっている活動家は少なからずいた。
 警察内部では激しい派閥抗争が展開中だった。政治派と独立派。あるいは、名門組と平民組。三井脩(当時51歳)は、独立派、平民組のリーダーだった。対抗する政治派、名門組のリーダーは警視庁総務部長の下稲葉耕吉(48歳)。
公安一課は、当時、第一担当から第二、第三担当そして調査第一、調査第二という五つの担当に分けられていた。一担は庶務、二担は中核・革マル、三担はブントと日本赤軍。調一は黒ヘルと諸派、調二は事件担当という役割分担だった。
 公安部は尾行と呼ばず、行確(こうかく)と呼ぶ.行動確認の略。
 行確のターゲットが自宅や会社から出てくることを「吸い出し」といい、逆に会社や自宅など目的の場所に入っていくことを「追い込み」と呼ぶ。
 爆弾を見分けるのに大事なのは、爆破装置と雷管。これに同一性があるかどうかを見る。
 行確(尾行)をするときは靴底がゴム製のものを履く.音をなるべく出さないため。革靴のように見えても、そこだけはゴムのものを履く。
 ゴミを捨てるのは、犯人グループにとって、もっとも注意しなければいけないこと。
 犯人と目される男が置いたゴミ袋を回収し、似たようなゴミ袋を代わりに置いておく。そして、この回収したゴミ袋から証拠となるブツを得たのでした。
 このときの逮捕はサンケイ新聞がスクープしています。サンケイ新聞は公安部に「協力者」がいたのです.そして、逮捕の瞬間をサンケイのカメラマンが撮影したのでした。なるほど、本当によく撮れています。
 1975年5月19日に大道寺将司を逮捕した瞬間の写真が紹介されているのです。なんだか気の弱そうな青年が小雨のなか傘を差したまま屈強な刑事4人に取り囲まれた写真です。
いま、大道寺将司は65歳。死刑判決が確定して26年たった今も、東京拘置所に収監中です。共犯者の佐々木規夫と大道寺あや子が超法規的措置によって国外へ逃亡中のため裁判が終了していないことによります。
40年も前のことなので、当時の関係者が実名で登場しています。大変読みごたえのある本でした。それにしても、この二人は、今どこで何をしているのでしょうか。まだ、本当に生きているのでしょうか・・・。
(2013年10月刊。1700円+税)

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