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中国抗日映画・ドラマの世界

カテゴリー:中国

著者  劉 文兵 、 出版  祥伝社新書
 中国では反日教育が日頃から徹してやられているとよく言われますが、この本は映画やテレビにおける「抗日」をテーマにした作品、ドラマがつくられている舞台裏を明らかにしています。なーるほど、だったら、日本と変わりないじゃん、と思ってしまいました。
戦前の中国(1941年)では、日本軍の恐ろしさをあまりに強調しすぎると、国民が恐怖にかられ、かえって戦意を喪失するのではないかという批判があり、日本軍の残虐な真実をストレートに表現しなかった。
 なーるほど、映画は真実を伝えすぎても、逆効果になることがあるのですね・・・。
 農民をふくめた一般の観客に対して、いかに分かりやすく抗日のメッセージを伝えるのか、当時の映画人たちは腐心していた。
中国の反戦映画には、日本兵が二通りの姿で登場する。一つは残虐な「敵」であり、もう一つは、中国の民衆に共感して抗日運動に参加する「同志」である。
 1945年8月から中華人民共和国が成立する1949年までの4年間に150本の劇映画が造られたが、抗日戦争にまつわるものは30本ほどでしかなかった。そして、日中の大規模な戦闘を題材にしたものは、まったく見当たらない。これは8年にわたる抗日戦争によって国民党政府が財政上の困窮状態にあったため、スペクタクルを盛り込んだ本格的な戦争映画をつくるだけの環境になかったことによる。
 蒋介石は、みずからの政権の正当性を主張すべく、抗日戦争を勝利に導いたのが国民党の力であったことを、映画をはじめとするメディアを通じて国民へ広めようとした。
 しかし、表面的には国民党が優位だったが、実際には、多くの映画人の心は明らかに共産党に傾いており、国民党のプロパガンダ映画の制作に手を貸そうとはしなかった。左翼的映画の急速な台頭を危惧した国民党政府は、映画検閲の基準をより厳しくした。
 中国共産党が政権を握ってから、政府は戦争映画を重視した。映画撮影所は軍部の直轄下におかれ、映画人は現役の軍人として丁寧に扱われた。
 抗日映画に出てくる日本人は、強力な敵として描かれているのは、注目すべき点である。
 しかし、1950年代半ばから、中国映画における日本兵の描き方には大きな変化が起こった。
 戦争映画では、中共軍の高級将校が登場してはならないとされた。それは、誰をモデルにしているか、すぐに分かってしまうこと、すると映画に取りあげてもらえなかった将校たちの不満を招くという理由からであった。
 加えて、その後の中国共産党内部の権力闘争において、1959年に彭徳懐が、1971年に林彪が失脚し二人が関わった「百団大戦」や「平型関戦役」など、共産党軍と日本軍との大規模な戦闘を取りあげることも完全なタブーとなった。そこで生まれたのが、抗日ゲリラ戦ものである。そこでは、時と場所を特定することなく、抗日戦が描かれている。
 1966年の映画『地下道戦』は、結局、18億人がみることになった(2005年までに)。爆発的にヒットした。もともと民兵に戦術を身につけるために制作された映画だが、娯楽作品として中国の国民に受容された。
 1960年代の中国映画に登場する日本軍人は、かつての残虐さと恐ろしさの代わりに、その愚かさと滑稽さが強調された。日本兵をあえて嘲笑の対象として描くことによって、残忍な日本人という従来のイメージを書きかえ、中国の国民のなかに鬱積していた日本人に対する深い憎悪を、笑いのなかで発散させようとする政治的な意図が働いていた。
 文化大革命の10年間に、中国でつくられた映画は、わずか数十本のプロパガンダ映画のみだった。そこで登場する日本兵は、文革以前より、さらに滑稽でかつ無害な存在だった。
 1985年になると、中国政府は国民党が率いた日本軍との正面戦の意義を客観的に評価するようになった。
 中国の映画については、中国人の一般観客がみたい物語と、政府が見せたい物語、国際映画祭で賞をとるための物語が分離していった。
 コメディタッチの抗日アクション映画は、ほとんど中国国内市場に限定して流通しているが、一つのジャンルとして確立し、現在なお人気は衰えていない。
 中国のテレビドラマ市場は、中国の産業において、もっとも市場メカニズムが支配する世界となっている。視聴者の教育レベルは決して高くはない。だから芸術性を追求するどころではない。
 抗日ドラマがブームになった要因は、主としてブームになった要因は、主として市場の側にあり、政府はむしろドラマに対する指導や規制に追われている。
 抗日ドラマの主な視聴者は、毛沢東時代を経験し、かつ、その時代に強いノスタルジーを抱く中高年層であり、彼らの支持により、一定の視聴率が保証される。
 国共内戦を描くときには、適役が同じ中国人であるために一定の配慮が必要だし、リアリティも求められるが、敵役を日本軍にしたら、格別の配慮はいらないし、ドラマティックな設定や暴力的な表現がいくらでも可能になる。そして、大物スター俳優でなくても、一定の視聴率は確保できるので、制作予算も少なくてすむ。つまり、エンターテイメント性をともないながら、歴史に向きあうというパターンの抗日ドラマが実際に多くの視聴者に受け入れられている。それは、日本の「水戸黄門」のような世界なのである。
 この解説は、本当によく分かりました。なるほど、なるほど、です。
(2013年10月刊。800円+税)

ノモンハン1939

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  スチュアート・D・ゴールドマン 、 出版  みすず書房
 アメリカの学者がノモンハン事件を徹底的に分析・検証した本です。
 1939年5月から9月まで、戦闘が断続的に続いた。
 この紛争は単なる国境衝突事件ではない。10万人もの人が、また1000もの装甲車両と軍用機が4ヵ月のあいだ激烈な戦闘に投入された。死傷者は4万人にのぼる。宣戦布告なき小戦争だった。
 日本軍は、攻撃機が200機、陸軍唯一の独立戦車旅団も出動した。
 ノモンハンでの戦いが頂点に達したとき(1939年8月)、ヒトラーとスターリンは独ソ不可侵条約を締結した。だから、スターリンは、ノモンハンで日本に対して断固たる措置をとることができた。
 満州事変のあと、日本の陸軍内では、「関東軍」は中央の命令を無視する部隊として定着した。
満州における日本の軍事作戦は1931年秋から翌年春まで続いたが、極東地域におけるソ連の軍事的弱点を知っていたスターリンは、厳正中立の政策をとった。ソ連が軍事介入しなかったばかりか、国境線沿いで示威活動することもなかった。
 1937年時点で、ソ連赤軍は順風満帆とはとても言えない状況にあった。その2年前に始まったスターリンの大粛清が規模と激しさを増し、軍に波及していた。赤軍の首脳部がほとんど粛清され、消えていった。
 1937年6月の時点で、日本の陸軍は、司令官レベルの処刑は赤軍の統制を乱し、日本にとって赤軍はもはや恐れるに足りない存在だと結論づけた。
 1936年11月に、日本はドイツと防共協定を結んでいた。
 1939年3月、ドイツ軍がチェコスロヴァキアに侵攻した。
 1938年6月、ソ連のリュシコフ少将が日本に亡命した。
 1938年の張鼓峰の戦いでソ連軍に敗北したことによって帝国陸軍の名誉と威信は大いに傷ついた。関東軍は、屈辱感を味わった。
 砲や戦車、飛行機といった物質面で質量ともにソ連が優位に立っていることが明らかになったにもかかわらず、日本軍の首脳は、この点をまったく顧みなかった。
関東軍の小松原中将は当時52歳。帝国陸軍きってのロシア通だったが、戦闘を経験したことはなかった。かつて、ハルビンで特務機関長をつとめていた。
 辻政信少佐(関東軍作戦課)は、奇矯な人種差別者で、獣性をむき出しにして蛮行に及ぶことがあった。辻少佐のつくった「満ソ国境紛争処理要綱」は、問題を解決するより、むしろ紛争をひきおこすためにつくられたようなものだった。
 関東軍を抑え込むためには、軍司令部の人員を大幅に異動させるという強硬な措置が必要だった。だが、ときの参謀本部には、あえて波風を立てるようなことを考える者は誰もいなかった。関東軍は野放しにされ、独断にもとづく行動を許されたも同然だった。
 日本軍の過剰な自信は、日本軍の情報活動の不満の結果でもあり、原因もある。ソ連の戦力を関東軍が過小評価し続けたのは、彼らの慢心に帰することができる。
 陸軍大臣の板垣中将は顔見知りの辻少佐を擁護した。
 1939年に満州国にあった自動車のうち、関東軍がつかえたのは800台。これに対してソ連は420台以上の自動車を動員し、兵站業務をすすめていた。
 ノモンハンでは、飛行機とパイロットの数において、ソ連が2対1で日本に優位に立っていた。ノモンハン事件で日本軍の死傷者は2万3000人。これに対して、ソ連は2万6000人。
 しかし、赤軍の力がはっきり実証され、関東軍が無残な敗北を喫した事実は否定しようがない。関東軍はソ連に対する全面戦争を決断した。しかし、陸軍中央はそれを許さず、大々的な人事異動を行った。こうして関東軍司令部の中枢グループは崩壊した。ところが、別の場所で息を吹き返した。
 ノモンハン事件で関東軍の味わった苦い経験は、深い刻印を残し、それが北進から南進への日本の方針転換への主な要因となった。
 ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の有力な開戦論者になった。服部卓四郎中佐と辻政信少佐である。この二人は参謀本部作戦課の中枢にポストを得た。
 1939年に起きたノモンハン事件が、日本とヨーロッパに大いなる影響をもたらした大事件だったことがよく分かる本です。
(2013年12月刊。3800円+税)
 私の住む団地の桜が満開となりました。熊本城の桜は8分咲きでした。週末がちょうど見頃になりますね。
 ハクモクレンそしてシモクレンも、あちこち満開です。我が家の庭のチューリップもに日に日に花が増えています。春は、いいですね。なんだか浮き浮きしてきます。

ショック・ドリクトン(下)

カテゴリー:アメリカ

著者  ナオミ・クライン 、 出版  岩波書店
 ロシアに対しては、衝撃は大きすぎ、治療は不十分というのが、ショック療法についての大方の見方だった。西側諸国は、苦痛にみちた「改革」を容赦なくロシアに要求しながらも、その見返りとしてはあまりに貧弱な額の援助しか与えなかった。
 世界で共産主義が脅威だったときには、ケインズ主義によって生きのびるのが暗黙のルールだった。しかし、共産主義システムが崩壊すると、ケインズ主義的な折衷政策が一掃され、フリードマンの自由放任主義がやってきた。
 フリードマンは、すべてを市場にまかせるべきで、いかなる救済措置にも反対すると述べた。弱者は溺れるがままに放っておけという、金持ち視点の冷酷な見方を公然と述べたのです。いやなやつですね。自分と大金持ちさえよければいいなんて、そんなの学問と呼ぶに値しませんよ。
 IMFは、アジアの人々を失望させても、ウォール街を失望させることはなかった。10年たってもアジア危機は収束しなかった。わずか2年間で2400万人が職を失い、新たな絶望が根を張り、どの社会においても問題の収拾に苦労している。絶望は、その土地土地で違う形をとってあらわれる。インドネシアではイスラム過激派が台頭し、タイでは児童売春が激増した。
 ブッシュ政権の国防長官に就任したラムズフェルドは、戦争を物理的なものから心理的なものへと、肉体を駆使する戦闘から派手な見世物へ、そして、今までよりはるかにもうかるものへ変えていった。しかし、ペンタゴンの幹部たちは、ラムズフェルドの「軍隊空洞化」構想に強い敵意を抱いた。国防省の人件費をできるだけ削減し、膨大な公的資金を民間企業に直接送り込もうとした。つまり、ラムズフェルドは米軍に「市場理論」を適用しようとした。
 ラムズフェルドの子分だったディック・チェイニーも、現役部隊の規模を縮小し、民間委託契約を大幅に増やした。戦争を収益性の高いサービス経済の一部にしてもいいのではないか。にっこり笑って、軍事侵略を、というわけである。
 9.11のあと、表向きはテロリズムとの戦いを目標にかかげつつ、その実態は、惨事便乗型資本主義複合体、すなわち国土安全保障と戦争および災害復興事業の民営化を担う、本格的なニューエコノミーの構築にほかならなかった。
 ブッシュ政権になってから、国防総省の民間企業への委託契約金は、1370億ドル増の年2700億ドルになった。米諜報機関から情報活動の外注費として民間企業に支払われた金額も、1995年に比べて2倍以上の年間420億ドルになった。
 今や、セキュリティー産業とは、抑制のない警察権と抑制のない資本主義が、いわば秘密刑務所とショッピングモールが結び突くように合体した前代未聞の産業なのである。
 アメリカが支配したイラクにおいて、経済的ショック療法として、国家を大幅に縮小し、その資産を民営化することが実行された。略奪行為も、その一環となった。
 イラクでの「大失敗」は、歯止めのないシカゴ学派のイデオロギーを入念かつ忠実に適用しようとしたことによって起きたもの。これは資本主義が引き起こした惨事であり、戦争によって解き放たれて際限のない強欲の生み出した悪夢にほかならない。
 自由放任主義の原則をこれほど大規模な政権事業に適用した結果は、悲惨な失敗だった。アメリカの大手企業は、3年半後にすべて撤退した。何十億ドルというお金が費やされたにもかかわらず、膨大な仕事の大半は手つかずのままだった。イラクの混迷で、最大の利益を得たのは、ハリバートンだった。
政治家や企業人など、エリート層の多くが地球環境の変動に楽観的なのは、自分たちはお金の力で最悪の状況から脱出できると思っているからだ。自分たちだけは、プライベートヘリコプターによって空中に引き上げられ、聖なる安全圏に逃げ込めるというわけだ。
 アメリカ初のとんでもない「経済学説」が世界中を荒らしまわっていることがよく分かる本です。そして、日本でも、同じことが起きています。TPPも、その一つですよね。大変な力作です。
(2013年4月刊。2500円+税)

マンション再生

カテゴリー:社会

著者  増永 理彦 、 出版  クリエイツかもがわ
 私は幸いにして庭付きの一戸建てに住んでいます。これまで、マンションに住んだことはありません。
 弁護士として、隣人とか、上や下の階の住人とのトラブルの相談を受けたことが何回もありましたので、マンション生活って、案外、大変なんだなと思っています。そして、マンションの管理組合の運営も大変そうです。
 この本は、老朽化したマンションを建て直すのか、修理・修繕でなんとかなるのかという切実な問題を扱っていて、とても実践的な、役に立つ本だと思いました。
 著者自身が私と同じ団塊世代なのですが、団塊世代は、もっとマンション再生のためにがんばるべきだと、強いエールを送っています。
 日本のマンションは590万戸、居住者は1450万人(2012年末)。全国の住宅総戸数と総人口の10%をこえる。とりわけ、東京・大阪ではマンションは住宅戸数の過半数を占めている。
 公共・民間の賃貸集合住宅までふくめると、全国の低・中・高層の集合住宅は2000万戸をこえ、4000万人以上の人が集合住宅に居住している。建設後30年以上の年月を経たマンションを「高経年マンション」と呼ぶ。全国に100万戸ある。
 マンション再生の一つとしての建て替えは、全国で129件、1万戸程度でしかない。これから、建設後30年をこえる高経年マンションは、毎年10万戸以上ずつ増えていく。
 15階以上ある超高層マンションは1980年代以降、急増している。2001年からは、年間3万戸以上が供給されている。日本のマンションの平均床面積は70㎡ほど。1970年ころまでは40~60㎡。1990年ころに60~80㎡、2000年には70~90㎡と拡大傾向にある。
 マンションにおける居住者の高齢化がすすんでいる。65歳代以上が25%、31%、39%と増えている。高経年マンションの居住者の半分が65歳以上である。マンションに永住したいという人が着実に増加しており、半分ほどになっている。
 もはや建て替え一辺倒ではなく、リニューアルを中心とする再生へ舵(かじ)を切らなければならない時代になっている。
 鉄筋コンクリート造(RC造)について、建築学会は、一般論としてRC造集合住宅の総合的耐久性について、大規模補修の不要期間を65~100年としている。100年もつのでしょうか・・・。
リニューアルだと、同じマンションに住み続けることができる。
 老後に、慣れない土地で、友だちもいないというのでは、寂しいですよね。
マンションの自治がどれだけ機能しているのかを見きわめるためには、自転車置き場の整理整頓状態をみるとよい。その状態を見れば、マンション居住者のマンションへの思いやりや、関わり具合が判明する。
 マンションを建て替えではなく、リニューアルによって、みんなで住み続けられるようにするためには、日頃の管理組合の運営や自治会のつきあいが大切のようです。
 とても参考になりました。
(2013年10月刊。1600円+税)

小椋佳・生前葬コンサート

カテゴリー:人間

著者  小椋 佳 、 出版  朝日新聞出版
 小椋(おぐら)佳(けい)の歌は、心に沁みるものが多いですよね。
 この本には、歌詞がたくさん紹介されています。私の聞いたことのないものがほとんどです。本名は、神田こうじですが、小椋というのは、大学時代に訪れた学生村の所在地の名前です。
 学生村と言えば、私は、長野県の戸狩(とがり)村に一夏(ひとなつ)過ごしました。そこで司法試験の勉強を本格的にはじめたのです。長野の暑さを、たっぷり体験しました。
 「シクラメンのかほり」は有名ですが、著者の奥さんは幼ななじみで、名前は「かほり」さん。佳は、その「かほり」さんの一字をとったのでした。
26年間の銀行員生活を50歳になる直前にやめて、大学に入り直して哲学を勉強したというのです。すごいことですよね。ただ、二度目の大学生活のとき、毎日、昼に喫茶店でカレーライスを食べていたというのには、ちょっと残念な思いがしました。やっぱり、昼食だって、いろいろ変えて楽しんでほしいものですから・・・。
先日亡くなったセゾングループの総師であり、詩人兼作家だった堤清二氏と親交があったというのには驚きました。モノカキ同志として美食をとりながら、途中からは美女も混じえて。さぞかし話ははずんだことでしょうね。本当にうらやましい限りです。
 70歳になったのを記念して、なんと「生前葬コンサート」を企画し、そのための本を出版したという発想もすごいですよね・・・。
著者は、幼いころ、可愛い子だと言われたことがない。よほど、おかしな顔をしていたのでしょう。今では、愛敬たっぷりの、個性的な顔といえるのですが・・・。それでも、祖母は、「この子はいい顔をしている。絶対に食うに困らない顔だ」と、ほめていたとのこと。見る目があったのですね。
 実際、この70年間、著者は食うに困るどころか、その心配したことが一度もない。食うことに神経を使うことすらなく、幸運なめぐりあわせで過ごしてきている。
 小学校低学年のとき、著者は信じられないことに、劣等生だった。目立たず、人にほめられることが何ひとつなかった。ところが、ある日、女の先生から、「きみ、お歌、とっても上手ね」とほめられたのだった。この一言が、その後の人生を決定づけた。
 私も、中学生のとき、国語の先生(女性)から、あなたの文章は良く出来ているわよ、とほめられ、その一言で、文章に変な自信がついたのでした。
お金がない、お金の苦労と言えば、弁護士の卵(司法修習生)のとき、新婚旅行の途中でお金がなくなり、同じクラスの友人のアパートにころがり込んで借金し、旅を続けたことがあります。お金をもたずに旅行するなんて若くなければ出来ないことですよね。今は、いつも少しだけ余計に財布にお金を入れています。もう、変なことは出来ません。
 著者は57歳のとき、胃がんの手術を受け、胃の4分の3を切り取りました。ところが、その結果、糖尿病が完治してしまったというのです。おかげで元気に長生きできているのです。人生、何が幸いするのか、分かりませんね。
著者の長男が2歳になったとき、『ほんの二つで死んでゆく』というLPアルバムをつくった。この歌は、私も好きな歌です。
著者は、中学生になってからは優等生になって、夜まで勉強していました。すると、母親が、いきなり戸を開けて、「お止め。よしな、勉強なんてしていると、頭がおかしくなるから、よしな。早く寝な!」と言った。
 ええーっ、うそでしょ、と、叫びたくなります。
 なかなか「発展家」の母親だったようです。なにしろ、著者が40歳のとき、母親の生んだ子(いわゆる私生児)が別にいるのが分かったというのですから・・・。
 著者は東大法学部出身で、法曹を目ざしたことにもあるそうです。大学ではボート部での生活に明け暮れていたとのこと。私はセツルメント活動一筋でした。授業も真面目に出ず、川崎市内をうろうろしていました。本だけは、いろいろ読んでいましたので、司法試験には早く合格できたのです・・・。
 著者の生涯について、なんと、「挑み」と「挫折」の連鎖だったと本人が語っているのには驚きました。私とちがって成功の連鎖とばかり思っていました。だって、毎年50曲もの歌をつくりつづけ、総計200曲もつくったのですよ。そして、毎年、50回から100回ものステージ公演を全国各地で敢行しているのです。そのタフネスぶりには圧倒されますよね。そんな著者にも、「挫折」があったというのです。人生とは、こんなにも複雑怪奇なのですね・・・。
(2013年11月刊。2381円+税)

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