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旭山動物園で出会った動物の子育て

カテゴリー:生物

著者  小菅 正夫 、 出版  静山社
 旭山動物園の元園長が動物たちの子育ての様子を話してくれる、楽しい本です。
 元園長は私と同世代です。動物たちが本当に好きなんですね。その息づかいが、そくそくと伝わってきます。
 ハツカネズミは、出産したあと、人間にのぞかれただけで不安になり、自分が生んだ子を食べてしまった。わが子を殺されるくらいなら、自分で食べて殺してしまったほうがまし、と本能的に考えた。うむむ、考えさせられますよね・・・。
 動物は、交尾や妊娠、出産といった生命の根源にかかわることに自らの身を置くとき、神経が鍼のように尖(とが)り、自分以外はすべて敵に見える心理状態になり、完全に野生状態に戻っている。
アムールヒョウの赤ちゃんは、声を立てることの危険性を本能的に知っている。どんな動物でもそうだが、動物園で世代を重ねてきたとしても、野生の心を決して失わない。アムールヒョウの母親は、子どもに何事かがあったときに、自分が助けることができなくなると判断した状況では、大きな声をあげながら子どもの首をくわえて引きずりおろし、かみついていた。事前に、危険の芽をつんでおくのだ。
 哺乳類の動物の感覚で、もっとも重要なものは嗅覚だ。人間の生まれたばかりの赤ちゃんも、においで母親のおっぱいを識別できる。
アザラシの子は何の準備もなく、大自然に放り出されてしまう。ところが、持ち前の好奇心が子に食べ物を教え、飢えから救う。こうして、好奇心の強い子だけが生き残るので、アザラシは「種」として、好奇心の強い動物になっている。なーるほど、ですね・・・。
 オオカミは、例外的に父親が子育てをする、まれな動物である。
 オオカミの遠吠えは、子どもたちが1ヵ月ほど、父親の真似をして身につけるもののようです。それは父親が1日に何度も、根気よく練習されていた努力のたまものだ。
旭山動物園には私も行ったことがあります。この本を読んで、また行きたいと思いました。
 とりわけ、日本では絶滅してしまったオオカミの生態について関心があります。
(2013年12月刊。1300円+税)

シベリア抑留者たちの戦後

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  富田 武 、 出版  人文書院
 シベリア抑留の問題を実証的に追求した貴重な本です。
 先に紹介した『シベリア抑留全史』については、よくまとまった労作であると評価しつつ、関東軍の行動や日本の満州支配を正当化しかねない論調を首肯できないとしています。スターリン批判(断罪)のみでは、視点が一方的になるということですね。
 日本軍将兵は、自らが捕虜であるという認識をほとんど持っていなかった。というのは、戦闘もせずに、「天皇陛下の命令で武器をおいた」と思っていたから。なーるほど、そういうことだったのですね・・・。
 ところが、ソ連のほうは、9月5日まで戦闘を続け、拘束した軍人、軍属はすべて捕虜扱いとした。これをアメリカもイギリスも黙認した。
捕虜とは、軍隊の所属または指揮下にあり、戦闘に直接・間接に参加した軍人・軍属で、敵国に捕らわれた者をいう。
 抑留者とは、戦闘後に拘束された非軍人・軍属である。
収容所の所長が、対独戦で苦労していたり、近親者に政治犯がいたりすると、決して表には出さないが、スターリン体制を快く思っていないときには、日本人捕虜に寛容だった。
日本人捕虜は、自分の生き残りに必死で、他人のことを思いやる余裕を失っていた。
捕虜は、肉体的状態に応じて、三級にランクづけされた。一級は、どんな重労働にも耐えられる者。二級は、中程度の労働に適した者。三級は軽労働にしか向かない者・・・。
 最初の苛酷な1945-46年の大量の死者を出した冬が終わると、出勤率は少しずつ向上しはじめた。
 ソ連は、戦後復興の進展、国際世論の動向を見ながら、小出しに抑留者を日本に送還した。
 シベリア抑留者のなかに近衛文磨の息子である近衛文隆も混じっていた。しかし、文隆は収容所で病死した。
 シベリア抑留者の戦後は、さまざまだったわけですが、本当に大変なことだったと、つくづく思います。
(2013年12月刊。3000円+税)

長篠合戦と武田勝頼

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  平山 優 、 出版  吉川弘文館
 とっても面白く、一心不乱に読了しました。著者は山梨県の高校教諭ということですが、これほど深い学識のある教師に教わる生徒は幸せですね。私は、この本を読んで、武田勝頼をすっかり見直しました。といっても、長篠合戦で決定的な敗北を喫したことの意味を軽視しているわけではありません。なぜ、これほど重大な決戦になったのかということが、よくよく理解できたということです。
 この本は、通説を否定する最近の学説をさらにひっくり返しているという点で、画期的な本だと思います。
 まずは、勝頼が凡愚の将ではなかったということです。そして、鉄砲の三段(三列)撃ちがあったかもしれないということ。その「三列」とは限らず、「三グループ」を意味していた。「三段撃ち」は、秀吉の朝鮮出兵のあと、中国に輸入されて、そこで同じことが図解されている。この点については、前に書評として紹介しています。
 長篠合戦(ながしのかっせん)ほど、数多くの謎に包まれ、その謎解きを巡って百家争鳴、百花斉放という状況になっているのも珍しい。
 武田勝頼は、同時代の人々から暗愚の主君とは見られていなかった。武田の家臣たちにとって、勝頼は「強すぎた大将」だった。父の武田信玄を超えるために無理を重ねていった。勝頼は、武勇に優れた武将だった。
 勝頼は父の武田信玄時代よりも領国を拡大していた。勝頼は、諏訪勝頼として誕生した。
 諏訪勝頼は、武田姓になったものの、官途もなく、武田氏の通字である「信」もいただかなかった・・・。
 武田信玄は53歳で亡くなった(1573年。天正元年)。そして、信玄は自分の死を3年間は秘密にしろと言い残していた。織田信長は、4月になくなった信玄の死を7月には確信していた。
勝頼は、古くからの武田家臣のなかには溶け込めなかった。
 織田信長は、信玄が死んだとき、その後継者である勝頼を完全に見くびっていた。ところが、勝頼の攻勢が成功すると、「若輩ながら、信玄の掟を守り、表裏を心得た油断ならぬ敵」だとして、高く評価した。
武田信玄・勝頼は、全軍の寄親にたいし、軍事に関する厳格な方針(軍法)を定め、しばしば通達している。
武田軍の騎馬武者には、「貴賤」が混在しており、それが騎馬衆を構成していた。身分の上下にかかわらず、装備は同じような完全装備にせよとしていた。
 武田軍では、騎馬武者は侍身分や一揆合衆のような小身の侍などのみで構成されたのではなく、被官、忰者、傭兵、軍役衆など、実に多様な身分の人々によって構成されていた。
 長篠合戦において武田軍に騎馬衆が存在していたことは、織田信長が警戒して「馬防」柵を構築させたことで証明できる。東国の平原を戦場とした人々は、騎馬武者が馬を疾駆して敵陣に乗り込み、続く足軽に働きどころをつくることにかけて、実に巧みだった。
 騎馬武者は、家来や指揮下の足軽衆と共同して戦った。
 武田軍の騎馬衆の突入は、敵の備えが万全で乱れのないときには実施されることがなく、合戦のとば口からいきなり乗込をかけるような運用法はなかった。鉄砲や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対し突撃を仕掛ける攻撃法は、当時として正攻法だった可能性がある。
 武田軍の兵力が少なく、織田軍の鉄砲を制圧することが出来なかったのが敗因となった。
当時、「三段」を「三列」と解する考え方はなかった。「段」とは、部隊の将兵を列に配置することを意味せず、「三段」を「三列に並べる」というのは、明らかに誤解であり、誤読である、織田軍の鉄砲衆3千挺は三部隊(備)に分割され、5人の奉行の指揮の下、三カ所(三段)に配備された。そして、その部隊内部で銃兵は、複数列に構成していた。
武田軍の重臣たちは、合戦の前、こぞって撤退を主張した。ところが、勝頼は決戦を決めた。勝頼は、織田・徳川軍の動きを誤認していた。勝頼は、信長と家康の二人が眼前に出てきた好機を逃さず、ここで撃破し、「本意」を遂げることだけに固執していた。つまり、勝頼は、信長・家康と戦って勝ち、不安定な当主の地位を一挙に確立させたかったのだ。
 織田軍の大半は、武田軍に隠れて待機していた。
 また、勝頼の判断ミスは、織田・徳川両軍の情報部門の情報不足に起因していた。
 信長は、馬防柵をかまえ、軍勢に対して柵の外へ出て戦わないように指示した。
 織田・徳川軍の擁する3千挺に及ぶ鉄砲と、それを間断なくうち続けることができるほど用意された玉薬、そして鉄砲衆を脇から援護する多数の弓衆は、武田軍がそれまでに対峙したことのない圧倒的な数量であり、数で劣る武田方の鉄砲衆、弓衆は徐々にうち倒されていった。また、支度した玉薬の量も、織田・徳川軍よりもはるかに少なく、全弾うち尽くしてしまい、対抗する余地がなくなった場合もあっただろう。
 武田軍の猛攻が始まるのは、背後の味方が壊滅した情報を知ってからだった。
武田勝頼の作戦は、武田勢が鉄砲や弓の攻撃をしのぎながら敵陣に突入し、これを無力化し、さらに後方から続く軍勢が続々と乗り込みをかけて勝機を見出すという浸透戦術だったと推察される。しかし、武田軍には、敵の火力をしのぎつつ、敵軍を制圧できるだけの兵力に欠けていた。このように、長篠合戦の帰趨を決定づけたのは、両軍の火力はもとより、兵力差にあった。
 勝頼が退去したあとも、これを狙う織田・徳川軍と武田軍は2時間に及ぶ殿(しんがり)戦を展開していた。
 勝頼は、長篠合戦での敗北からわずか2ヵ月あまりで、1万3千とも2万ともいわれる軍勢の組織・編成に成功した。しかし、軍勢の質的低下はいかんともしがたかった。
 勝頼の無謀な突撃作戦が失敗の根本というのは間違っている。突撃は、当時の合戦において常道だった。
 よくよく、ここまで調べつくしたものだと驚嘆しました。戦国時代に関心のある人に一読をおすすめします。
(2014年2月刊。2600円+税)

21世紀のグローバル・ファシズム

カテゴリー:社会

著者  木村 朗 ・ 前田 朗 、 出版  耕文社
 先日の都知事選挙で61万票も取った候補は、東京裁判を否定していたようです。そして、ネット社会では人気を集めたというのですから怖いと思いました。
 うっぷん晴らしから強いものにあこがれ、武力と軍隊賛美につながっているようで、恐ろしさをひしひしと感じます。
 「在特会」のデモ行進に若者が参加している。不況、失業、疎外感、既得権益への反感が社会変革ではなく、排外主義と弱いものいじめに転化している。
 ザイトク会の異常な差別煽動デモに対して、安倍首相は具体的な対処はしない。ヘイト・クライムの法規制には無関心を貫く。
 「カレログ」とは、つきあっている男性が、今どこにいるのか、女性のほうに分かるもの。
 「カレピコ」とは、つきあっている男性が風俗街とか、元カノの家のそばに行くと、女性のケータイが「ピコピコ」と鳴る仕掛け。
 石原慎太郎は、差別するためなら何でもする。露払い役が彼の役割。強きにへつらい、弱気に酷薄。それが石原慎太郎。
安倍首相は世界中で原発のトップセールスを重ねている。同じく、リニア・モーターカー。それで、日本国内をショールームにしたがっている。
 避難民の誘導は民間人が行うのが常識。それを軍隊がしたら、攻撃の対象になってしまう。メディアが自由を失ったときには、「発表」と「美談」であふれかえる。戦争中の報道が、まさにそうだった。
 独裁と独裁の生まれる全課程が、まずなによりも注意をそらせることだった。とにかく考えることをしたくない人びとには、独裁は、考えないでいい口実になった。
 安倍首相は、「先制攻撃はしませんよ。しかし、先制攻撃は完全に否定しませんよ。要するに、『攻撃に着手したのは攻撃』とみなす」と言った。恐ろしいコトバです。
 「領土紛争」をめぐって、マスコミは自国の主張を絶対視する意識を読者に刷り込む。そして、相手の主張に耳を傾ける姿勢を摘みとってしまう。
 「国家と国家の争い」という思考の枠組みだけに、人びとの意識を追い込む。大手メディアも、領土ナショナリズムの魔力にとらわれ、自覚のないまま、知的退廃がすすんでいる。
 安倍政権は、「日米同盟を強化して中国を包囲する」政策をとり、多くの大手メディアも、それを支持している。
 しかし、アメリカのオバマ政権の主要な関心は、中国包囲網の形成にはない。日中対立が不測の事態を招き、武力衝突に発展するのを止めること、それこそがアメリカ政権の関心事だ。
 ヘイトスピーチが傷つけるもの、それは在日韓国・朝鮮人だけではない。社会的少数派だけではない。なによりも平和に生きようとする人びとの精神に対して、コトバと物理的な暴力で憎悪を投げつけ、悔辱し、傷を負わせる。なるほど、そうなんでよね・・・。
 台湾は、1950年以来、37年間蒋介石によって戒厳令下に置かれ、1987年に戒厳令が解除されてから、民主化運動の爆発があり、現在、政治的禁忌はほとんどない状態にある。週600便以上の飛行機が大陸から250万人の訪問客を運び、500万人が両岸を往来している。
 100万人の台湾人が大陸に居住しており、台湾の輸出額の4割を中国が占め、中国へ進出した台湾企業は10万社に及んでいる。5万人の台湾の高卒者が大陸の大学に進学し、来年からは徴兵制が廃止される。
 考えるべき素材を、たくさん提供してくれる本でした。
(2013年12月刊。2000円+税)

氷川下セツルメント史

カテゴリー:社会

著者  氷川下セツルメント編纂委員会 、 出版  エイデル研究所
 私は、大学1年生から3年余りセツルメント活動に全身全霊で打ち込んでいました。18歳から21歳までのことです。まさしく多感な学生時代というか、青春まっさかりのころでした。それだけ私を魅きつけるものがあったということです。
 1967年4月に18歳で上京し、意気高く大学生活を始めたものの、バラ色の学生生活が始まったなんていう気分ではありませんでした。それほど得意でもない英語の授業のレベルは高度すぎてついていけませんでした。なにしろ、ギリシャ悲劇がテキストなのです。高校までの英語とはレベルが違いすぎて、途方に暮れました。第2外国語として選択したフランス語も、初めこそ入門編でしたが、すぐに応用編になったのには驚きました。あまりの急テンポに、とまどうばかりだったのです。そして、法学概論の講義を大教室で受けましたが、教授は、はるか彼方の演壇です。いやはや、とんだところに来たものだと思いました。
 そのうえ、クラスでは、自家用車で登校してくる学生がいて、いかにも格好のいいブレザーを着こなしています。私といえば、詰め襟の学生服で入学したのです。学生気分で自家用車を運転するなんて、考えたこともありません。
 そんな私にとって、救いは6人部屋の寮生活でした。さすがに九州弁丸出しは出来ませんでした。関西弁は臆することなく丸出しです。東北弁はおずおずと話している感じでした。でも、みんな真面目でしたから、お互いの方言をけなすなんていうことはありませんでした。
 そんな屈折した思いに沈んでいるとき、私の目の前に出現したのがセツルメント・サークルだったのです。
 そこには、なにより生きのいい女の子があふれていました。まばゆいばかりの光を発散しています。たちまち私は、そのとりこになってしまいました。そして、司法試験の受験勉強を始めるまで、大学の授業そっちのけでセツルメント活動にいそしんだのでした。まさに、人生にとって大切なことはすべてセツルメントで学んだと言い切ることができます。それほど、ショッキングなサークル活動でした。正直いうと、今ではもっと大学で授業に出ていれば良かったと思うことが、実はあるのです。でも、かと言って、後悔しているわけではありません。
 セツルメントって、いったい何なのですか。このように問われると、実は、答えるのに窮するのです。
 セツルで何を学んだのか?
何も知らないことを・・・。これ以上の大きな収穫があるだろうか。
本当に、そうなのです。何でも知っているようで、実は何も知らないことをしっかり体験させてくれる場でした。自分という存在が、他人とは大きく異なることがあること、そして、それは親と地域の影響による違いが大きいことを認識させられました。それまで親に頼って生きてきたのに、その親を小馬鹿にしていた自分という人間の愚かさも認識させられました。さらに、物事の本質をしっかり認識するためには、自分自身が、自分の問題意識をもって変革しようと働きかけて、その結果の体験を経る必要があることも体得しました。じっと、受け身でいても、何も分からないのです。
 セツルメントが最盛期を迎えたのは、私が大学生のころではありません。実は、もっと後なのでした。
 1970年代には、全国に4000人というセツラーがいて、全セツ連大会には、1100人もの参加者があった。全セツ連には全国66のセツルが加盟していた。
 ところが、1980年代に入ると、セツルメント活動は、時代の変化に応じて急速に消滅してしまった。まさしく、時代の変化なのです。でも、どんな変化があったのか、十分に分析しきれているわけではありません。
 私は川崎セツルメント、幸区古市場にあったセツルメントです。そこで青年部に所属し、若者サークル(山彦)で活動していました。フォークダンスをしたり、キャンプをしたり、何という活動をしていたわけでもありません。でも、世の中の仕組みをじっくり考えさせられる契機とはなりました。ほかに、子ども会があり、栄養部や保健部、もちろん法律相談部もありました。
全国から1000人以上もの学生セツラーが年に2回集まって、交流する全セツ連大会は本当に活気あふれるものでした。新鮮な刺激を大いに受けたものです。語り明かすことが楽しい日々でした。そして、大いに歌もうたいました。音痴の私ですが、声をはりあげたものです。
 我妻栄や穂積重遠などの著名人たちが、戦前・戦後のセツルメント活動を支えてくれました。
 氷川下セツルメントの活動の歴史を通じて、日本史の一断面を知ることのできる貴重な歴史書になっています。セツルメント活動に関心のある人には、ぜひ読んでほしい本です。
(2014年3月刊。3500円+税)

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