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黒田官兵衛、軍師の極意

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  加来 耕三 、 出版  小学館新書
 今や時の人、黒田官兵衛については、たくさんの本が本屋に並んでいます。
 官兵衛は、決して約束はたがえない、行動に一貫性があるという評判は、その一生に大きな宝となった。
 官兵衛は、生涯、妻を一人しかもたなかった。側室をもたなかった。織田信長には、男子12人、女子12人の子があった。徳川家康には男子11人、女子5人の子があった。
 官兵衛には2人の男の子がいたが、次男は水難事故で亡くなり、長男の長政(松寿)一人だった。
黒田家でお家騒動が起きたのは、官兵衛が功労ある重臣たちへ惜しみなく多額の家禄をはずみすぎたからだった。
 官兵衛の新しさは、この時代の流行であるキリシタンだったことが大きかったと考えられる。キリシタンになった官兵衛は息子の長政、そして弟の直之にもキリスト教を勧め、この二人は天正15年に豊前・中津で洗礼を受けている。
 この年、秀吉がバテレン追放令を発布した。官兵衛たちは、ただちに表向き棄教した。だが、キリシタン大名の小西行長の家来が追放されると、密かにこれを召し抱えた。
 弟、直之は自領の秋月においてキリスト教をその後も保護し続け、領内に司祭館(レジデンシア)を建設している。
本能寺の変で、信長が倒れたとき、秀吉は「中国大返し」といわれるように、毛利軍と和睦を結び、一気に上方へのぼった。このとき、秀吉は以下の将兵は、おのれの野心、出世を夢見て血相を変え、走り去った。
 秀吉に叱咤激励されたから、というのではなく、おのれの私利私欲を胸に抱いて、欲心を大いにふくらませ、上洛の道を我先にと急いだ。
 まさしく、官兵衛の入れ知恵によって、秀吉は断固としてやり遂げたのです。だからこそ、官兵衛は秀吉から警戒されたのでしょうね。
(2013年10月刊。740円+税)

英国二重スパイ・システム

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ベン・マッキンタイアー 、 出版  中央公論新社
 1944年6月のノルマンディー上陸作戦は、それを成功させるために大がかりな欺瞞作戦が展開されたのでした。
 まず、英米連合軍が上陸するのはノルマンディーではなくて、パドカレー地方だとドイツ側に思い込ませました。そして、ノルマンディー上陸は、あくまで本命のパドカレー上陸作戦を隠すための陽動作戦だと思わせたのです。というのも、パドカレー地方には精鋭のナチス軍隊がいたので、それがノルマンディーの方に移動してこないように足止めしておく必要があったのでした。
 パドカレー上陸作戦が準備されるとヒトラーに思わせるには、実在しない軍隊が集結しているように思わせる必要があります。無線をたくさん流し、張り子戦車や飛行機を置き、さらには指揮するパットン将軍までパドカレー上陸作戦に備えているように見せかけたのでした。総勢350人で10万人の軍隊がいるように見せかけたというのですから、たいしたものです。
 対するナチスの方では、スパイ作戦の元締めは、実は反ヒトラー勢力の拠点だったというのです。ですから、英米連合軍を実態以上に質量ともに強力だとヒトラーに報告していました。ある意味では、ヒトラー欺瞞作戦の片棒をかついでいたと言えそうです。そして、反ヒトラーの行動がバレて処刑されたり、左遷されたりしてしまったのでした。
 イギリスの諜報部の中枢にはソ連のスパイが何人もいて、スターリンに筒抜けになってしまいました。有名なキム・フィルビーなどのインテリたち(ケンブリッジ・ファイブ)です。ところが、スターリンは全部を知りつつ、果たしてスパイによる情報を信用して良いのか疑っていたというのです。これらの事実を、この本はあらゆる角度から解明していきます。
 イギリス軍参謀総長はノルマンディー上陸作戦が重大な失敗に終わるかもしれないと危惧していた。日記に次のように書いた。
 「戦争全体で、もっともひどい惨事になるかもしれない」
 スパイの送る情報がどこまで信用できるものなのか・・・。たとえば、ナチスのスパイがイギリスに潜入して送っていた情報は、実はポルトガルにいてあたかもイギリスへの潜入に成功したかのような嘘の情報に過ぎなかった。リスボンの図書館に行き、またニュース映画などで見たものをもっともらしくしたものだった。
 ドイツ軍の一大情報機関であるアプヴェーアは、国防軍最高司令部の指示によらず動いていた。その高級将校の多くがヒトラー政権に積極的に反対していた。
 ドイツはイギリスにスパイを多数送り込んだが、大半は無能で、職務を忠実に遂行する気がなく、その多くがドイツを裏切って二重スパイとして活動した。
二重スパイは非常に気まぐれで、問題を起こすこともあるが、使い方によっては利用価値が高い。気まぐれな性格の人間は、恐ろしいことに寝返ろうとする傾向を示す。
 ノルマンディー上陸作戦に関心のある人に一読をおすすめします。
(2013年10月刊。2700円+税)

植民地朝鮮と日本

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  趙 景達 、 出版  岩波新書
 1910年8月、韓国併合条約が調印され、大韓帝国は滅亡し、日本帝国の一部となった。
 首都の漢城府が京城府と改められた。
 韓国統監が初代の朝鮮監督に就任した。総督は陸海軍大将から選任された。
 天皇に直隷する総督は、実際にも総理大臣の指揮を受けなかった。その地位は、各省大臣と同格のはずだったが、実は総理大臣と同格とも言える政治的地位にあった。
 朝鮮総督は、軍事はもとより司法・行政・立法の三権を掌握し、天皇直属のもと小天皇ごとき存在として朝鮮に君臨した。憲法上においても、朝鮮は、それを施行しない異邦域のごとく見なされた。
 朝鮮総督の政治的地位は、内閣の監督下に置かれた台湾総督とは異なるものだった。
 総督府は、1907年に竣工した、南山麓の倭城台にたつ総督府庁舎をそのまま庁舎とした。
 1912年3月、総督府は朝鮮笞刑令を交付した。犯罪即決令によって笞刑に処された数は、総刑罰の5割近くを占めた。日本人には、当然のことながら適用されなかった。
 同じく、1912年3月の朝鮮刑事令では、判事が証拠を示さずに判決を言い渡すことができた。これによって、政治犯を恣意的に裁くことができた。
 朝鮮には、日本国籍法が適用されなかった。これは、台湾や樺太とは違っている。朝鮮人から国籍離脱の権利を奪い、第三国への帰化を認めなかった。
 帝国憲法が施行されなかったため、朝鮮半島にいる朝鮮人、そして日本人にも参政権が認められなかった。
 総督府の諮問機関として中枢院があったが、会議が開かれない時期もあり、議長は政務総監だった。
 1919年1月、高宗皇帝が亡くなった。高宗の国葬にあわせて、朝鮮独立運動の示威行動が企画された。それは、当初、3月3日を予定した。
 3月1日、パコダ公園には数十万人の市民が集まり、独立万歳を高唱した。
 当時、京城の人口は25万人ほどだったが、3月3日には、全国から50万人が京城に結集した。
 この3.1運動のなかで、16歳の女子学生、柳寛順が逮捕され、獄死した。
 3.1運動は、アメリカのウィルソン大統領が揚げた民族自決主義への期待を契機として展開された。しかし、アメリカ国務省は正式に朝鮮独立の要求を退けた。
 3.1運動に理解を示したのは、日本の大正デモクラシーの中心人物であった吉野作造だった。このころ、日本の社会主義者は大逆事件(1910年)のあと、「冬の時代」にあった。
 独立派の一部は日本支配層へテロ行為に走りました。
 1932年1月、桜田門外で天皇暗殺未遂事件が起こり、同年4月には上海で白川・陸軍大将が爆殺され、日本公使も重傷を負った。
 1925年12月、新しい総督府庁舎が景福宮の前に竣工した。光化門は移築された。
 939年11月、朝鮮民事令が交付され、創氏改名が決められた。創氏は義務(強制)であり、改名は「任意」とされた。それでも、20%の朝鮮人は創氏しなかった。
朝鮮人の労働動員は計画では86万人だったが、実際には70万人以下だった。
朝鮮人慰安婦は、数万人と考えられている。戦地で「性奴隷」とされた。
 日本帝国が支配していた植民地朝鮮の実情の一端を知ることのできる貴重な通史です。
(2013年12月刊。820円+税)

無罪請負人

カテゴリー:司法

著者  弘中 惇一郞 、 出版  角川ワンテーマ21新書
 現代日本の刑事弁護人としてもっとも有名な人による本です。マスコミを騒がす大きな刑事事件となると、なぜかこの人が弁護人として登場してくるのです。不思議です。いくらか同意しにくい部分もありましたが、この本で書かれていることの大半は私も同感するばかりです。
 冤罪事件には、共通する構造がある。予断と偏見からなる事件の設定とストーリーづくり、脅しや誘導による自由の強要、否認する被告人の長期勾留、裁判所の供述調書の偏重。社会的関心を集める事件では、これにマスコミへの捜査情報リークを利用した世論操作が加わる。
 弁護人の仕事は、黒を白にするというものではない。
 私が無罪判決を得たのは、10件程度しかない。
 これには驚きました。もっとたくさんの無罪判決をとっているとばかり思っていました。ちなみに私は、40年間の弁護士生活のなかで、2件だけです。
弁護の仕事に際して心がけてきたのは、依頼人の話をよく聞くこと。依頼人に対して、先人観をもって接することはしない。そもそも弁護士は、あらゆることについて、予断や偏見をもつべきではない。依頼人との依頼関係は、弁護活動の大前提なのである。
 人生でもっとも忌むべきもの、それは「退屈」だ。刑事事件を面白いと思って取り組んできた。仕事を選ぶ基準は、まず自分が納得できるかどうか、である。筋が通らないこと、理不尽なことに納得できない。それは、「社会正義」という大上段にかまえた理念ではなく、自分のなかの価値基準のようなもの。
 厚労省のキャリア官僚であった(である)村木厚子さんの事件では、大阪地検特捜部は、検察庁の従来の手法をそのまま受け継いだ捜査をした。弁護人として助言したことは、事件当時の手帳や業務日誌のコピーをとっておくこと。そして、そのコピーを弁護人に渡すのは何ら問題にならない。
 毎日、被疑者と面会(接見)する目的は、三つある。最大の目的は、事実に反する自白調書を検察にとらせないこと。二つ目は、被疑者のたたかう意欲を維持すること。三つ目は、弁護活動に役立つ情報を得ること。無罪判決を得た最大の要因は、村木さんが当初から一貫して容疑を否認し、自白調書を一本もとらせなかったこと。刑事事件では、当人がそれまで送ってきた全人生、人間性のすべてが試される。
 不運にどう対処できるか。検察官と対峙して取調べにきちんと対応する。無実を信じて支援してくれる仲間がいる。囚われの身となっても、家族や職場がそのまま保たれている。これがない人間は、非常に弱い存在となる。
 被告人の精神的なコントロールが大事になるのは、逮捕後よりも、むしろ起訴後である。起訴されると、他人と話す機会がなくなり、非常に辛い状況に陥ってしまう。
 たちが悪いことに、マスコミも捜査当局も、ともに自分たちは正義だと信じこんでいる。だから、マスコミは、捜査官のリーク情報とともに、平気で都合の悪い部分は捨て、都合のよい部分だけをふくらませ、読者の興味をひくストーリーをつくる。
人間という者の弱さに対する寛容や、人が人を裁くことの難しさゆえの謙虚さが社会で薄れてきた。代わりに「犯罪者」の烙印を押した人間を徹底的に叩きのめすという仕打ちが目立ってきた。
 おそらく人々は、「かわいそうな被害者」を引き受けたくないのだろう。被害者に同情を寄せながら、では、その被害者を受け入れるかどうかというと、それはしない。被害の原因・責任追求、制度改善の努力など、その被害の全体を社会で引き受けることは避け、「悪者」を叩くことで自分たちを免責する、ということなのだろう。
 刑事弁護人としての苦労をふまえた、価値ある指摘のつまった本だと思いました。
(2014年4月刊。800円+税)

戦火のシンフォニー

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ひの まどか 、 出版  新潮社
 ナチス・ドイツによってソ連の主要都市であるレニングラードは陥落寸前までいきましたが、なんとかもちこたえたものの、900日間も封鎖されてしまったのでした。食糧が尽きてしまい、何十万人もの市民が餓死しました。ところが、なんと、その最中にオーケストラを復活させ、演奏していたというのです。しかも、ショスタコヴィッチの交響曲第7番を「初演」したのでした。
 ええーっ、という、信じられない実話を関係者に丹念に取材して再現した本です。
 大阪の尊敬する大先輩である石川元也弁護士のすすめで本を読みました。石川先生、ありがとうございました。引き続きご活躍ください。
 ソ連では、スターリンの圧制下で理不尽な粛清の嵐が吹き荒れた。ショコスタコヴィッチも、若手作曲家の頂点に輝く星だったのが、その作品がスターリンの不興を買い、一転して奈落の底に突き落とされた。そのとき、救いの手を差しのべてくれたのが、トハチェフスキー元師だった。ところが、その元師が、なんとスターリンによって銃殺されてしまったのです。再びショスタコヴィッチは危機に陥ります。ところが、やがて交響曲第5番が成功して、辛じて名誉を回復しました。
 レニングラードの最高指導者はジダーノフ(当時45歳)。ジダーノフは、スターリンの最側近の3人のうちの1人。残る二人、(マレンコフとベリカ)から、絶えず足を引っぱられていた。
 ナチス・ドイツによってレニングラードは直接の攻撃にさらされるようになった。ところが、ドイツ軍による大空襲があっても、ミュージカル・コメディ劇場は公演を続け、観客で満員だった。これって、信じられませんよね・・・。
 レニングラードでは、ナチス・ドイツ軍の包囲下にあっても、普通の生活を続けていたし、それを外の世界に伝達しようとした。
 ヒトラーは、一気にレニングラードを陥落させるつもりだった。ところが、包囲が長引くなかで気が変わり、モスクワ攻防戦へ戦力を引き抜いていった。これによって、レニングラードは陥落するのを免れた。
 ミュージカル・コメディ劇場は連日公演を開くだけでなく、日曜日には2回公演さえ行った。
 音楽家たちも食糧不足のため、腹が減って、力が入らなかった。それでも、楽器をもったら、力が戻ってきた。音楽は、最高の食糧だ。
 栄養失調は怖いが、それ以上に怖いのは精神失調だ。
芸術家はパンだけでなく精神力で支えられている。精神力が弱ると意気も落ちて、死んでしまう。
 コンサートはイギリス向けだけではなく、レニングラードを包囲する塹壕に潜っているドイツ軍にも開かせた。
 1942年3月、ジェダーノフは自ら電話をかけて「何か音楽をやらんか!」と指示した。
 そこで、音楽家が呼び集められ、一定の食事が与えられた。死の寸前にあった音楽家たちが再びよみがえった。このとき、オーケストラの団員50人のうち、ほぼ半数がまだ生きのびていた。特別食堂では、朝10時と昼2時に「強化食」が出た。ふだんなら、口に入らないものが提供された。
 今一番大切なことは、飢えのことを忘れる。夢中で働くこと。精神力と信念が今こそ必要である。芸術家を動かすのは精神力。食事をして体力をつけ、精神力を高めることが何より大切。
 観客となった市民は、少なくとも舞台を見ているあいだだけは飢えのことを忘れられている。劇場に行くのは、飢饉と死んだ人のことを考えないため。
コンサートの指揮者は、糊のきいた真っ白なシャツに燕尾服を着て登場した。その姿に、観客は、どよめいた。
 「こんなとき、どうやって、あの服を用意できたの!」
 「万事、順調ってわけ?」
 1942年8月9日、レニングラードでショコスタコヴィッチの交響曲第7番が初演された。
 レニングラードは、依然としてナチス・ドイツ軍に包囲され、危機的状況のさなかにあった。
 ソ連赤軍の捕虜となったドイツ兵は異口同音に語った。
 「我々は、塹壕のなかで、いつもレニングラードの放送を聞いていたが、いちばん驚き、戸惑ったのは、このとてつもない状況のなかで、クラシック音楽のコンサートがやられているということ。いったい、ロシア人はどれだけ強いのか、そんな敵をやっつけることなんて、とうてい出来ない。恐ろしかった」
 そうですよね、よく分かる気がします。
 この本の最後に交響曲7番を演奏した音楽家の顔写真が紹介されています。男性が大半ですが、女性も何人かいます。みなさん、餓死寸前までいきながら、なんとか演奏を成功させた人々です。
 とても感動的な、心温まる本でした。石川先生ご夫妻、ご紹介ありがとうございました。
(2014年3月刊。1800円+税)

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