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憎むものでもなく、許すものでもなく

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ボリス・シリュルニク 、 出版  吉田書店
 1944年1月1日、フランスのボルドー地方でユダヤ人の一斉検挙がありました。著者は、このとき6歳でした。
 「ユダヤ人の子どもたちには消えてもらう。さもないと、やつらはいずれヒトラーの敵になる」
 要するに、大人になったら悪いことをするので、死刑宣告されたのだ。
 その晩、第二の私が生まれた。私を殺すための拳銃、夜のサングラス、小銃を肩から下げたドイツ。いずれ、私は犯罪者になるのだという宣告を背景に。
 6歳のころの著者の可愛らしく、そして、いかにも聡明な男の子だという写真があります。
両親の死は、私にとって事件ではなかった。父と母は、私の前から急にいなくなったのだ。両親の死に対する感情は残らなかったのに、突然、目の前からいなくなったという事実だけは、心にしっかりと刻印された。
 人生は馬鹿げている。でも、だからこそ面白い。平和な暮らしの中で安穏としていれば、試練、危機、トラウマもなく日々の繰り返しだけで、記憶には何も残らないのだろう。自分は何ものなのかを、そう簡単には見いだせない。試練がなければ物語は生まれず、自分自身の役割も見い出せないのではないか。私は逆境をくぐり抜けたからこそ、自分が何者かを心得ることができた。人間の存在は馬鹿げているからこそ、面白いのだ。
 トラウマの記憶があると、心が傷ついた子どもは、トラウマの記憶によって絶えず警戒心を抱く。虐待された子どもは冷淡な警戒心を示し、戦時下で育った子どもは、平和が訪れてもほんのちょっとの物音でも飛び上がるほど驚く。自分の記憶に残った恐怖のイメージに怯える人は、自分を取り巻く世界を遠ざける。彼らは、世間の出来事に無関心で、無感動であるように見える。
 トラウマの記憶は、対人関係を悪化させる。苦しみを軽減させるために、心が傷ついた者は、自分がトトラウマを被った場所、トラウマを思い出す恐れのある状況、トラウマをひき起こす物を避ける。とくに精神的な痛手を呼び起こすような言葉を避ける傾向がある。
 愛情に恵まれ、安心して育ち、他者と会話する能力のある者は、恐ろしい状況に直面した場合であっても、トラウマに悩まされることが少ない。そうは言っても、逆境を生き抜く際には、孤立し、言葉を奪われながら、毎日のように小さなトラウマに悩まされ、克服したはずの脆弱な心が戻ってくる。
 発育段階で心がもろい者が、不幸が生じたときにトラウマ症候群に悩まされるのは、トラウマに悩まされる前に、孤独感にさいなまれ、言葉をうまく操ることができなかったから。
 幼年期に母親が注いでくれた深い愛情のおかげで、他者との出会いが寛容になり、人間関係を構築しやすくなった私は、援助の手が差しのべられると、すかさず、これに反応するようになった。
 戦争中、死と背中あわせだったので、感覚は麻痺していた。悲しみも苦しみも苦悩もなかった。それらは、むしろ死を目前にした非日常的な出来事だった。戦後になって、生きのびていた二人の親族と出会ったとき、私は生まれて初めて孤独と不幸を感じた。
 私は一つの教訓を得た。過去を振り返ると、ろくでもないことが起こる。人は涙を流すと塩柱になり、人生はそこで停止するのだ。生きたいのなら、後ろを振り向かず、常に前を見つめよ。前進するのだ。過去を考えれば悲しくなるだけ。未来は希望にみちている。さあ、未来に向かって歩もう。
 私の悲惨な子ども時代は、例外的な出来事だったのだ。平和な時代になってからは信じてもらえなかった。自分の物語を語ると、自分が異常な人物であるような気がした。聞き手の視線によって、誇らしい気持ちになったり、不名誉を感じた。包み隠さずしゃべったときには、気持ちが楽になることもあったが、ほとんどの場合、周りの反応は私を沈黙させた。
 9歳にして、年寄りのような少年になっていた。私は、かなり前から、すでに子どもではなかった。
安心して暮らしていた子どもは、自分にみあった愛情を注いでくれる人物のもとへ向かう。そうした大人を見つけ、微笑みながらしゃべりかける。
 愛情に恵まれなかった子どもは、相手の大人が微笑んでもいないのに、さらには相手が拒絶する場合でさえ、接近していく。大人を必要とするあまり、追い払われても、その人の近くから離れない。このとき、子どもは快適さを感じるが、自律性は失われ、自分に興味のない誰かと暮らすことを受け入れてしまう。自分を不幸にするような親や配偶者から離れられない子どもや若者がいるのは、こういうわけである。
 そうした人間関係は、精神的な発育障害を生み出し、彼らを意気消沈させる。自律性を養わなければならない思春期に、自信がもてず、自分に注意を払わない、あるいはひどい扱いをする人々の元に留まろうとする。
 フランスでのユダヤ人一斉検挙のときにフランス警察につかまり、強制収容所に送られる寸前に脱走して、逃亡できた6歳の少年が、戦後、孤児院を出て、ついにはパリ大学医学部を出て精神科医になったのです。ベストセラー作家でもあるそうですが、トラウマ分析はさすがです。本当に勉強になりました。
340頁もある本ですが、トラウマとは何かを知りたい人には強くおすすめの本です。
(2014年3月刊。2300円+税)

風がおしえる未来予想図

カテゴリー:社会

著者  原発なくそう・風船プロジェクト実行委員会 、 出版  花伝社
 海外へ原発を輸出しようとしている安倍首相は、それだからこそ一刻も早く原発を再稼働させようとしています。とんでもないことです。
 だって、いまでも福島第一原発の周囲に人が住むことは出来ず、15万人もの人々が狭くて不自由きわまりない仮設住宅に住まされているのです。
 使用済み核燃料がどうなっているのか、3年たった今も皆目わからず、放射能に汚染された水や空気が拡散し続けているのです。
 東京電力の無神経さは今に始まったことではありませんが、九州電力だってまったく同じです。いずれも経済団体を牛耳ってきました。そして、彼らは教育に注文をつけ、教科書を思うように書き替えてきました。要するに、疑うことを知らない子ども、そして大人になることを求めています。そうなったら、まるで会社いいなりのロボット人間ではありませんか・・・。
九州にある玄海と川内(せんだい)の二つの原発を絶対に再稼働させてはなりません。
 原発はクリーンなエネルギーだと言っていましたが、3.11のあとは、とんでもない大嘘だということが誰の目にも明らかになりました。
 この風船プロジェクトは、玄海原発の近くから風船を飛ばしたら、いつ、どこへ落ちるだろうか、それを調べようというものです。もちろん、前例があります。2012年3月に福井県にある美浜原発から1000個の風船を飛ばしたのでした。100個が発見され、うち83個が岐阜県内で発見されたのでした。
玄海原発の周辺から風船を飛ばしたのは4回です。2012年12月8日が第1回目で4回目は2013年10月27日でした。
 ヘリウムガスを風船につめて飛ばしました。ゴム風船ですが、環境負荷(影響)の少ないものに工夫しています。
風船と放射性微粒子の動きは、水平方向では似たような飛行軌跡を示した。
 風船は捨てられたら環境から除外する。放射性物質は違う。地上に降り積もった放射性微粒子は、自然環境や生活環境中にとどまり続け、晴れて乾燥した日や、風が強い日などには、再び大気中に浮遊し、風などに乗って拡散する。この半減期は長く、30年であり、何十年も生き続ける。
 風船プロジェクトは楽しい企画でした。一杯100円の豚汁、コーヒー1杯100円だなんて、まさしく困ったときの神頼みですよね。
 100頁あまりの手頃なブックレットです。ぜひ、あなたもお読み下さい。読みやすく、ためになる面白い本です。
(2014年6月刊。1000円+税)

アフリカ系アメリカ人という困難

カテゴリー:アメリカ

著者  大森 一輝 、 出版  彩流社
 オバマ大統領が誕生したことは、アメリカにおける黒人差別が解消したことのシンボルだとは、とても言えないようです。
オバマは、「黒人大統領」ではない。逆に、「黒人」であることを封印された大統領である。自分が人種差別主義者であるとは夢にも思わない白人たちによって、オバマの手足は固く縛られている。オバマ大統領の口から「人種」という言葉が出るのを許さないという圧力は強烈だ。
 白人国民は、人種主義が見えないが、見えるつもりもない。人種を見ないことにすれば問題は解決するのだという「カラー・ブラインド」論が横行している。
 「黒人」というカテゴリーは、異郷で生きることを余儀なくされたアフリカ諸民族に、共通の経験をもたらし、共通の心性を育んだ。「黒人であること」の屈辱と誇りを、苦悩と喜び、絶望と祈りこそが、「アメリカ黒人」を新たな民族に鍛え上げた。
 南北戦争後のボストンに住む黒人エリートたちは、能力主義(メリトクラシー)が徹底されたら、人種主義は克服されると信じた。これらの黒人エリートたちは、黒人生活の実態を見ようとしなかった。
 1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、黒人は人口比に相当する以上に徴兵に協力したにもかかわらず、軍内部でさまざまな差別を受けた。両人種は厳格に分離されており、黒人兵のほとんどは勇気を疑われ、戦闘部隊ではなく、補給その他の雑役に回された。
 そして、戦争が終わって「母国」アメリカに帰った黒人兵士たちを待ち受けていたのは、人種暴動とリンチだった。1919年末までに、30県の暴動が起こり、80人がリンチで殺された。そのうち14人が火あぶりにされたが、うち11人は、征服を着た元兵士だった。
 現代アメリカにおいてリーダーたるべき黒人知識人の多くは自縄自縛に陥る。人種差別はたしかにある。しかし、だからといって、黒人への特別な配慮や対策を要求したり、黒人が団結して抵抗してしまえば、本来あってはならない人種という区分を許すどころか強調することになる。今やるべきなのは、人種カテゴリーの解体なのだから、差別は個人の努力と才覚によって乗りこえるほかないのだ・・・。
 人種主義から逃げるのではなく、それを直視し、正面から受けとめるべきだという声は同時代の黒人からも上がった。
 現実に対して「ブラインド」になる、つまり目をつぶっていては何もできないのだということを、ボストンの黒人は長い時間をかけて学んだ。自分たちの人生を変えるためには、人種による格差に目を向け、人種差別のない未来を創り出していくしかない。
 アメリカにおける黒人差別の解消は、今なお容易ならざる課題であることを痛感させられました。
(2014年3月刊。2500円+税)

観察の記録、60年

カテゴリー:生物

著者  矢島 稔 、 出版  平凡社
 すごい写真のオンパレードです。その息を呑む美しさに圧倒されます。
 アオスジハエトリというクモがいる。昆虫を食べて生きている。このクモは、前脚をいかにもありの触覚のように動かして、ときどきアブラムシの背中をトントンと叩く。すると、アブラムシが尻から甘い液を分泌する。クモは、それを飲むのではなく、アリになりきって、アブラムシの回りを動きまわっている。そこへクロオオアリがやって来る。すると、クモは体をひるがえしてアリに飛びかかってきた体をおさえこむ。牙でかみついて、そのままクモの餌食になってしまう。
 クモはアブラムシのいる所にアリが集まってくるのを知っていて、アリそっくりの動きをして待っているのだ。この瞬間を写真に撮っているのですから、すごいものです。よほど辛抱強くなければなりません。
 クヌギがコナラの樹液を求めて昆虫たちが寄り集まる。だいたい勝つのは、カブトムシのオスで、次がクワガタのオス。カミキリの大型種は、脚が長いせいか、力負けしてしまう。意外に強いのは、スズメバチ。
樹液にはお酒というより、薄いビール程度のアルコール分が入っている。木から樹液がしみ出してくるのは、篩管に穴を開けるものがいるからのこと。それは、ボクトウガの幼虫である。
 ニホンミツバチが天敵であるスズメバチを取り囲んで熱死させる情景をとった写真もあります。これも、すごいと思いました。
 ニホンミツバチは、集団で体温を上げ、48度でスズメバチを殺す。自らの体温を限界ぎりぎりまで上げて相手を熱死させる。これは、いわば捨て身の戦法だ。この習性は、セイヨウミツバチにはない。おそらく、ニホンミツバチが長い間、同じ地域にスズメバチとともに生活してるために生まれた護身術であり、それが世代をこえて伝えられているということだ。
 驚異の写真といえば、カンガルーの袋のなかの、生まれたばかりの「胎児」の写真はすごいものです。「胎児」は、目が見えなくても、生まれ落ちたあと母親の乳首を目ざして、ついにたどり着くのです。感動しました。
 写真をめくるだけでも楽しい大自然のすばらしさを語る本です。
(2014年4月刊。1800円+税)

浮世絵に見る江戸の食卓

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  林 綾野 、 出版  美術出版社
 浮世絵に描かれている江戸の人々の食べているものが紹介されています。同じものが、現代の日本の料理として写真で紹介されていて、比較できるのです。どちらも食指を動かす秀れものでした。
 ガラスのすのこの上にもられた紅白の刺身が描かれています。うひゃあ、ガラスのすのこって、江戸時代にもあったのですね・・・。
 江戸前ウナギを女性が食べようとしている浮世絵があります。「江戸前」とは、隅田川や深川でとれたウナギのことを言い、江戸の外でとれたウナギは「旅うなぎ」と呼ばれた。
 江戸のうなぎは、背中から開き、蒸してからタレをつけて焼く。身はふんわりとやわらかく、外は香ばしく仕上げるのが江戸流だ。
 今まさに串に刺したエビの天ぷらを食べようとする女性が描かれています。
 天ぷらは、江戸の屋台料理の定番だった。火事の多い江戸では、室内で油を使うことが禁じられていたため、天ぷらはまず屋台で普及し、値段も安かった。そのうち、天ぷらは屋台だけでなく、料理店でも供されるようになった。
 5月になると、初鰹(かつお)。江戸っ子の初夏の楽しみの一つだった。初物を食べれば、寿命が75日のびると言われ、粋な江戸っ子は、いくらか無理してでも初物を買い求めた。
 江戸の人々も猪や鹿などの獣肉を食べていた。ただし、「山くじら」と呼び、それを食べさせる店は「ももんじゃ」と呼んだ。
 江戸の豆腐は、堅く、しっかりしていた。江戸っ子にとって、茄子(ナス)は身近で、かつ愛された野菜であった。
 幕府は、ナスやキュウリなどの促成栽培を幕府はたびたび禁止した。野菜の価格高騰を恐れてのこと。
 毎年夏、本郷にあった加賀屋敷の氷室(ひむろ)から、将軍に雪を献上する儀式があった。
 芝居が始まるのは午前6時のころで、終演は夕方5時ころ。土間に座る客を「かべすの客」と呼んだ。
 江戸時代の人々とがたくましく生き抜いていたこと、美味しく食べるのを好んでいた点は現代日本と変わらないことなどを知ることができました。それにしても、浮世絵って、まるでカラー写真のようですね。
(2014年3月刊。2000円+税)

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