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言葉をおぼえるしくみ

カテゴリー:人間

著者  今井 むつみ・針生 悦子 、 出版  ちくま学芸文庫
 いま、私の孫(2歳)がコトバの羅列から文章を話せる段階に移行しようとしています。どうやって単語から文章になっていくのか、私にしても興味深いところです。動画で送られてくるので、その変化がよく分かります。
 高校3年生が知っている単語は6万語。18歳といっても、初めの1年間は話せないので、17年間で6万語を獲得したことになる。1日平均100語に近い。これは、今まで知らなかった言葉を、1日に10語覚えようと言われたときの大変さを考えると、とんでもない多さである。2歳から6歳までのあいだに、子どもは平均して1日6語、多いときには1日10語を覚えていく。
 2歳児の話すコトバで、意味の誤りは5%未満でしかない。子どもは、はじめて遭遇したコトバの意味をあれこれ迷わずに推論できる。これは、第一のパラドックスだ。
 そして子どもは、その領域の単語をすべて学習し終わるまで、個々の単語が使えないというわけではない。これが第二のパラドックスだ。
 生まれたばかりの子は、他の女性の声よりは、母親の声を好む。それは、胎内で耳にした音になじんでいることを示している。
 生後5日のフランスの乳児は英語と日本語のようにリズム構造の異なる外国語を区別することが出来た。
 子どもは、一種の「思い込み」をもってコトバの学習にのぞんでおり、その「思い込み」に合致したものを最優先して語の意味を考えている。
 4歳児は、形容詞が名詞(モノの名前)ではないことは分かっている。子どもは、2歳台で最初の助数詞を使いはじめる。それからしばらくしても、子どもの使える助数詞の種類は、なかなか増えない。5歳児になっても、助数詞を間違いなく使いこなせるレベルには達しない。
 外国人にとって擬態語の学習がとても難しいということは、音と意味とのあいだの「ぴったりくる」感覚を身体で覚えるためには、幼少時に日常生活のさまざまな状況で、大量の擬態語を聞き、自分で使うことが必要だということを意味する。
 日本語では、主語によって動詞の形が変わることはない。中国語では、動詞はそもそも活用せず、いつも同じ形だ。
 英語で「2犬」というが、日本語では「2匹の犬」というように、数えるための助数詞をつける。
 英語は、主語や目的語を省略しない。日本語は、主語を省略できるのが特徴だ。
 大人と一対一で向きあったとき、大人に対して自分の意見を述べるのは良くないこととする文化圏がある。日本も、その一つですよね・・・。そのような文化的圧力の下では、子どもは本当の力を発揮できない可能性がある。
赤ちゃん学って、本当に面白いですよね・・・。
(2014年2月刊。1400円+税)

スクリプターは、ストリッパーではありません

カテゴリー:社会

著者  白鳥 あかね 、 出版  国書刊行会
 私のような、映画好きの人には、たまらない本です。私も、この本を3時間かけてじっくり読んだあと、映画館に駆け込みました。
日活の創成期から、その全盛期、そしてロマン・ポルノ、純愛路線、暴力団抗争映画・・・。映画製作の現場を記録し続けた女性への聞き書き集です。
 スクリプターという職業を、私は初めてしっかり認識しました。といっても、デジタル映画ではスクリプターはあまり必要がないとのことです。
 スクリプターとは、スクリプト・スーパーバイザーのこと。洋の東西を問わず、映画制作スタッフの一員として欠くことの出来ない重要存在。1933年に、トーキー(同時録音)が現場に導入され、撮影済みのフィルムと録音された音を合わせる編集作業が大変複雑になった。そのため、撮影現場では克明なメモをとるようになった。このメモをスクリプトと呼ぶ。そして、記録を取る人をスクリプターと呼んだ。
 前のカットからつながるように指示を与えるのはスクリプターの役目で、演技だけでなく、服装や持ち物に至るまで細かくチェックする。撮影中は、常時、シナリオ全体の流れを念頭に置いて、前後のシーンの流れとマッチしない演技や台詞について、監督に対して適切にアドバイスする。
 完成試写を見終わっても、スクリプターは撮影中に変更した芝居の内容やセリフをすべてあらたに書き直して完成台本を作成する。
 著者は、昭和27年に破防法反対のデモをしているときに警察に捕まったのですが、その直後の写真があります。珍しい写真です。
早稲田大学文学部仏文科を卒業して、やがて日活に入社します。若き森繁久彌と一緒に仕事するなど、有名なスターとともに映画製作の現場でがんばるのです。映画づくりの裏話が満載ですから、本当に面白いです。
今の天皇を主人公とした映画(『孤独の人』)がつくられたなんて、ウソのような話です。主人公の皇太子は絶対にうつしていけなかったとのこと。見てみたいですね。DVDで手に入るのでしょうか・・・。
 映画って、どこか抜けているほうがいい。そのほうが、みる側にとってはアラ探しができるし、アラが見えるくらいのほうが楽しい。
 なーるほど、完璧な映画というのでは、ダメなんですね・・・。
著者の結婚式は、公民館で公費200円の会費制結婚式。それも、なんと二組同時に。そして、「ケーキ入刀!」と叫ぶと、スクリーンに大きなウエディング・ケーキがうつり、それに入刀。本物のケーキは買えなかったのです。この合同結婚式の司会が、なんとフランキー堺と小沢昭一。すごい司会者です。
 小林旭の「渡り鳥」シリーズを制作する話が続きます。石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎という豪華スターが活躍する時代です。
吉永小百合主演の映画「愛と死をみつめて」は残念ながら、みた記憶がありません。その制作現場のスタッフが全員泣いていたというのは感動的です。
 小百合の眼に光をあてている証明部の助手が、その演技に感動して手がふるえて光が揺れ始めた。撮影する人も泣いていてキャメラの商店があっているのかどうか、ラッシュを見るまで不安でしょうがなかった。スタッフ全員が泣いていた。もう一回とは絶対に言えないカットだった。
ここまで書かれると、みないわけにはいきませんよね。吉永小百合と浜田光夫の映画です。
 日本の映画史を知るうえでは欠かせない貴重な本だと思いました。いやはや、映画も本当に奥が深いですね。最後に、この本のタイトルは意味深・・・でした。人生、何が起きるか分からないものです。
(2014年4月刊。2800円+税)

筑紫君磐井と「磐井の乱」

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  柳沢 一男 、 出版  新泉社
 福岡県八女市には北部九州最大の前方後円墳である岩戸山古墳があります。
 この古墳は、6世紀の前葉に築造された。同時期の古墳としては、日本列島第四位の規模。
岩戸山古墳の特徴は、膨大な数の人物や動物、そして多種の器財を模した石製表飾(ひょうしょく)。これは石人石馬とも呼ばれる。
 そして、何より、この古墳をつくったのが、古墳時代最大の内戦といわれる「磐井(いわい)の乱」の当事者である筑紫君(ちくしのきみ)磐井の可能性が強いことで注目を集めている。
 磐井は、日本書紀や古事記にも登場する人物である。
 岩戸山古墳の石製表飾の石材は、ほとんどが阿蘇山から噴火した阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇石)である。八女地方の近くにまで阿蘇山の噴火による溶岩が流れてきていたのですね。
 岩戸山古墳の石製表飾の最大の特徴は、種類と数、そしてサイズにある。その数は、収蔵されたものだけで100点をこえる。大胆なデザインとそれを実現した製作技量。そして靫や楯に加えられた多様な図形表現のアイデアは、現代の彫刻とくらべて遜色がない。
 胄をかぶった立像を推定すると、高さ2.5メートルもの立像となる。これは磐井ではないかと推定されているようです。その他の石像も2メートルほどの大型サイズである。
 岩戸山古墳の石製品は、精緻な表現と卓抜名アイデアが詰め込まれた造形物である。二体ある馬形は、当時の最上級の馬装で整えた飾り馬をほぼ実物大に表現しており、古墳時代の石像物の最高傑作。
 古墳時代最大の内戦であった「磐井の乱」は、事件後200年たった奈良時代になっても、語り継がれるべき重大な事件として記憶されつづけた。そこで、「日本書紀」には、詳細な記述がある。
 岩戸山古墳の墳丘を築造するだけでも、毎日300人を動員して、3年の月日が必要となる。磐井の勢力は、九州中北部の諸勢力のリーダーとして倭王権の百済支援を担いながら、他方、独自に高句麗、新羅・大加耶との交渉ルートをもち、また、西日本各地の諸勢力とも連携していた。王権の絶対的強化と他方勢力の直接支配を目ざす絶対王権にとって、このような磐井勢力の動向は見逃せない事態であったに違いない。
 「磐井の乱」を制圧した倭王権は、ミヤケ制と国造制を介して地方支配と中央集権化を推し進め、古代律令国家へと突き進んでいった。すなわち、「磐井の乱」は、倭国のおける古代国家形成への転換点であった。
 昔、朝鮮半島南部に「任那日本府」が設置されていたと教えられたように思いますが、今では否定されているそうです。
 それでも、朝鮮半島南部に倭系古墳があることは事実なので、百済からの要請のもとに倭王権唐派遣された九州北部勢力がまとまった倭人勢力としていたと推定される。
なーるほど、そうだったのですね。要するに、今のような国境はない時代ですから、日「韓」自由に行き来できていたというわけです。
 岩戸山古墳に久しぶりに行ってきました。皆さんも、ぜひ行ってみて下さい。
(2014年8月刊。1500円+税)

明智光秀の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  小林 正信 、 出版  里文出版
 明智光秀とは何ものだったのか?
この本は、明智光秀の正体を執拗に追跡し、明らかにしています。その立証過程は実に詳細であり、こまかすぎで辟易するほどです。
 でも、それがいかにも研究者による真面目な学術的研究なので、最後まで、何とかおつきあいさせていただきました。推理小説ではありませんので、ネタバラシしてもいいでしょう。
 著者の結論を紹介します。
 ①明智光秀とは、室町幕府の奉公衆であった進士源十郎藤延である。その父は、進士(しんし)美作守(みまさかのかみ)晴舎(はるいえ)である。
 ②室町幕府の将軍・足利義輝の側室の小侍従は、明智光秀の妹のツマキである。
 ③ツマキの子・明智光慶は、足利義輝の遺児・小池義辰である。
著者は、「本能寺の変」と呼ぶのは誤りだと主張します。明智光秀が動員した軍勢1万3千という規模、織田政権の転覆を意図したことから、これは大規模な軍事的反乱であった。つまり「乱」であって、小規模な兵力による襲撃を指す「変」とは言えない。なーるほど、ですね。
 織田信長は、足利義昭を追放しておらず、室町幕府を滅ぼしたわけでもはない。
 室町幕府の統治機構を実際に統治していたのは明智光秀である。
 明智光秀は、天正10年(1582年)6月2日に信長、信忠親子の殺害に成功はしたものの、徳川家康とその重臣たちを取り逃してしまった。これが光秀の破滅をもたらした。
 この乱の直接的な要因は、信長の政権構想をめぐる家康の処遇をめぐっての信長と光秀のきわめて深刻な対立にある。
 光秀は、室町幕府の官僚機構の中心的存在であった「奉公衆」の出身者であったからこそ、「奉公衆、奉行衆」などを統括する存在として、織田政権においても重きをなしていた。
 織田政権における光秀の役割とは、事務方全体をまとめる官房副長官として幕府の官僚機構全体を取りまとめ、信長の幾内統治を円滑に担うことにあった。信長の要請・命令に応じて幾内の軍事力として室町幕府の幕臣たちを動員することが、織田政権内における光秀の高い地位を規定していた。
 明智光秀は、奉公衆・奉行衆など将軍直臣としての信条、武家社会における名門としてのエリート意識、そして歴史的に形成された伝統・慣習にもとづく室町幕府のカルチャーを代表する存在だった。
 明智光秀の乱を主導した勢力は、京都を中心として信長の強大なカリスマ的支配を支えてきた基盤であるとともに、その実態は室町幕府機構そのものであった。光秀は、このような既存の奉公衆・奉行衆などによる伝統的かつ官僚的支配層の利益を代表することにより将軍・足利義昭の出奔後も織田政権を支えていた。
 幕府の周辺勢力を動員して兵力にも転用しうる、即戦力として、あるいは潜在的にその能力が十分にあったからこそ、光秀は信長から格別の地位を与えられていた。
 織田政権の全期間にわたって室町幕府は存在していた。足利義昭は、信長の死後もなお、天正16年(1588年)正月まで将軍であり続けた。
 明智光秀は、その前半生、そして父母兄弟も妻も不明である。
 この本を読んで驚いたことの一つとして、昔の武将が、何度も姓名を変えていることです。これでは、うわすべりに歴史の本を読んでいても、同一人物が名前を変えているだけかもしれないというわけですから、歴史の迷路にさまよいかねません。
 私のご先祖様だと勝手に思っている上杉謙信は、虎千代、平三、長尾(平氏)、上杉(藤原)、上杉政虎、輝虎、謙信と変遷しています。大変です。
 信長は、これを利用して、家臣に九州の名族を名乗らせ、九州の国々にちなんだ官を受領させた。東国の者がそれを聞けば、信長は既に九州の土地を併合しているかのように錯覚させることを目論んだ。それで畏服させようというのだ。
 同じく、光秀も改姓によるものでは・・・。
 信長の側近には「秀」の字が目につく。秀吉も、その一人だ。
 光秀の享年は不明である。54歳、いや67歳と、いろいろあって定まってはいない。
 進士(しんし)氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家の故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。進士氏は、「御前奉行」としても知られ、武家儀礼において特に重要な将軍が重臣や守護大名の邸宅を訪問する「御成」の際の手順、その料理に関する総合プロデューサーという役割を代々になってきた式法の家である。
 幕府官僚機構を統括していた光秀が信長の「御成」を認めることは、信長を足利将軍に代わる武家の棟梁として認知することになり、それは足利(室町)幕府体制の否定を意味するものだった。
 大変刺激的であると同時に、説得力のある本でした。400頁のずっしりした本に、ついつい読みふけってしまったことでした。
(2014年7月刊。2500円+税)

新・ローマ帝国衰亡史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  南川高志 、 出版  岩波新書
 ローマ帝国とは何か、改めて認識することが出来ました。
 ローマの征服軍が要塞の周辺には、軍に関係する民間人の定住地ができた。これをカナバエという。カナバエは発展して村落となり、軍が移動したあとの要塞敷地も含みこんで拡大した。
 境界地帯での移動を前提としていた正規軍団は、次第に一定の基地を得て長く駐屯するようになる。そして、軍を退役した兵士は故郷に戻らず、在勤中に非公式にもうけていた妻子とともに基地の近くに定着し、カナバエから発展した町で暮らし、その有力者となる者も出てきた。
 軍隊は新しく「ローマ人」を生み出すうえで大きな役割を果たした。「ローマ人」とは、ローマ市民権をもつ「ローマ市民」のことであり、故地ローマ市と結びついていた。国家が拡大してからは、新市民はローマ市の郊外地区に登録され、政治的な意味はなくなる。それでも、「ローマ人」であるためには、ローマ市民権の取得が前提だった。
 皇帝政府は、ローマ市民権をもたないため正規軍団に入れない部族の男性を補助軍として組織した。補助軍といってもローマ人指揮官の下、正規軍団とともにローマ軍の一翼を担ったから、指揮命令系統と訓練は、ローマ式になされる。そして無事に兵役をつとめあげるとローマ市民権が与えられ、その子はローマ市民として正規軍団に入隊して、ローマ社会の階悌を上がっていくことができた。
 こうやって、ローマ帝国は辺境において、兵員を確保するだけでなく、ローマ帝国に対する忠誠心を期待できる人材を養成していた。
 ローマ社会は、人々やその集団を出自によって固定させてしまうカースト的な社会ではなく、流動性があった。そのため、奴隷に生まれても、主人の遺言などによって奴隷の境遇から解放されて解放奴隷となり、その子孫は都市の有力者となって都市参事会員として活躍し、さらには実力と幸運に恵まれて騎士身分に状況し、元老院議員にまでのぼりつめる可能性があったし、実際にもそうした上昇例は多かった。
 属州に生まれてローマ市民でなかった者も、外部世界から属州に入って市民権を得た者も、実力と幸運に恵まれたら、社会の最上層にまで到達できたのだ。
 ローマ帝国は、国家として硬直した存在ではなかった。担い手である「ローマ人」は法の民であり、法にもとづく国家の制度をもち、奴隷制と身分制を備えた社会に生きていた。ローマ人とは、きわめて柔軟な存在であって、排他的な生活を有していなかった。
 ローマ帝国が「幻想の共同体」でなかった第一の要素は、軍隊の存在である。
 次に、「ローマ人」としての生き方である。ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践すること。
 広大なローマ帝国を統治するうえで中央行政を担当していたのは、わずか300人ほどの「官僚」だった。
 ローマ異国を実質化する第三の要素は、外部世界の有力者たちの共犯関係にあった。
 今日では、ローマ人対ゲルマン人という二項対立の図式は適切ではないと考えられている。
 「ゲルマン人」と呼ばれる集団は、今日、固定的で完成された集団とは考えられていない。非常に流動性の高い集団で、そのときどきの政治的な利害によって離合集散を繰り返し、その構成員や集団のアイデンティティが形づくられていったと理解されている。
 古代ローマ帝国が柔構造をもつ社会だったことを初めて知りました。
(2014年5月刊。760円+税)

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