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社会脳からみた認知症

カテゴリー:人間

著者  伊古田 俊夫 、 出版  講談社ブルーバックス
 認知症とは、正常に成人になった人が、病気や事故などのために知的能力が低下し、社会生活に支障を来すようになった状態を指す。
64歳以下で発症した認知症を若年性認知症と呼ぶ。その多くは、40~50代で発症する。若年性認知症の患者は全認知症の1%を占める。40~50代で物忘れに深刻に悩む人は、高齢期に認知症になる確率が高い。
 若年性認知症は、症状の進行が早いという特徴がある。異常タンパクの生成が早いためだと考えられる。若年性認知症は周囲の人の気持ちを理解できない。他人への関心が薄くなる。性格の変化が目立つのも特徴。
 日本の認知症患者は460万人をこえ、その予備軍が400万人いる。
 認知症の人には、「配慮を受けている」という自覚が乏しく、同僚に感謝の気持ちを伝えられない。
 認知症の人に最初にあらわれるのは、新しいことを記憶できないこと。そして、物忘れしているという自覚が薄れてくる。
 日課や予定、約束や期限といった緊張感が失われると、人間の記憶力は低下していく。
 認知症の第二の重要な症状は、自分の置かれた状況が分からなくなること。さらに症状がすすむと、自分が病気であることを理解できなくなる。
 人の心の働きのなかで、もっとも重要なのは、他者の心や気持ちを理解するというもので、これは人間特有の働きである。
 認知症の人は、詐欺的商法の相手と長時間にわたって一緒に過ごし、すっかり信用しきってしまう。警戒心がまったくない。
 認知症に陥った人たちからは、苦悩が確実に減少していく。悩まなくなるのだ。
 うつ病が増加している。うつ病にかかった人は、羅患歴のない人に比べて、認知症になる危険性が2~3倍も高い。
 私の同級生も認知症になった人がいます。とても生真面目な性格でした。それと関係があるのでは、と思っています・・・。
(2014年11月刊。900円+税)

小西行長、史料で読む戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  島津 亮二 、 出版  八木書店
 小西行長の実像に触れた思いのする本です。秀吉の有能な部下、キリシタン大名、関ヶ原の戦いで敗れて斬首された武将・・・。
 小西行長は官僚として有能ではあっても武将としては、いまひとつだったというイメージがあります。でも、武将としても、それなりの人物だったことが本書で明らかにされています。
 小西行長の史料は抹殺などされていなかった。
 小西行長の両親、兄弟、子そして血縁関係にある堺の日比屋(ひびや)氏のほとんどが、洗礼名をもつキリシタンである。
 日比屋氏は6世紀の堺で活躍した豪商である。九州と堺を結ぶ海上輸送ルートと資金力をもつ日比屋氏と小西行長の父・立佐は強力なコンビを組んでいた。
小西行長は、青年期のはじめ、宇喜多氏に仕官していた。それまで宇喜多氏に仕官していた行長が、天正8年(1580年)ころから秀吉のもとで活躍しはじめた。ここから行長の立身出世が始まった。
 行長は信長方に、秀吉の配下となった直後から海上交通で活躍し、後に「海の指令官」と称された能力の片鱗を示していた。
 行長は瀬戸内海の海上輸送の一端を担う任務をつとめ、秀吉の家臣の中で頭角をあらわしていった。行長は、小豆島の支配にも関与していた。書状が、それを裏付けている。
 行長が水軍の将として奔走して功績を挙げるのと同時に、父の立佐は秀吉の側近として財政管理能力を発揮して地位を高めていた。
 秀吉は九州攻めをするときに、現地での兵粮徴収ではなく、もっとも確実な大坂からの兵粮輸送という方法を選んだ。そして、この重要な役割を任されたのが行長だった。
 秀吉は、各地の諸大名とのやりとりをするにあたって、大名ごとにその仲介・交渉を担当する人物(取次)を特定し、その人物に命令を詳しく伝達・補足させるという方針をとっていた。
 秀吉のキリシタン弾圧が始まったとき、重要なことは表向きにしろ、行長は「秀吉家臣」としての立場を優先させている。行長の信仰とは、常に政治的立場が優先される「信仰心」であった。秀吉の在世中に、行長が秀吉の命令に背き、自らの「信仰心」を優先させたことは一度もない。
 行長の主たる属性は、「秀吉家臣」であり、行長の第一目標は豊臣政権の発展と安定そして自分自身の地位向上だった。
 強制的な布教さえしなければ、イエズス会宣教師と日本における共存は可能だと行長は予測していたのだろう。行長はイエズス会との関係を維持しつつ、秀吉家臣としてイエズス会の行動を監督する役割を果たしていた。
秀吉は大陸侵攻の「先勢」として小西行長と加藤清正を選んだ。行長には、海上輸送能力や交渉能力が求められ、清正については高い軍事能力が期待されたのだろう。
 文禄の役において、行長は、あくまで交渉による朝鮮国王の服属、そして明との講和交渉の開始を狙った。行長は、「征明の実行不可能」を秀吉にあえて進言した。行長は、明との直接戦争は避けるべきだと考え、秀吉の「唐入り」を「冊封要求」へとすり替えて交渉をはじめた。行長は、平壌から先へは侵攻しようとはしなかった。
 当初は、電撃的に明国に迫ろうとしていた秀吉の戦略は、沿岸部に城塞(倭城)を設置して、じっくり朝鮮を侵略していく方針へと転換した。秀吉自身、それまでの戦況報告によって、明の征服などは非現実的だと悟り、当初の「唐入り」構想は大きく転換していた。
 秀吉は、ある程度は、対明交渉の実情は承知していた。明は、秀吉を日本国王に封じると同時に、日本の大名や武将へ官職を与えることにした。行長による官職要請と授与の結果は、秀吉と諸大名とに受け入れられている。
 この侵略戦争を日本の勝ち戦として終結させなければならない秀吉にとって、朝鮮服属の象徴である朝鮮王子日本への渡海と朝鮮南部四道の割譲だけでは譲れない条件だった。
 行長は、とにかく明勅使による秀吉の日本国王任命と冊封さえ実現すれば、実態は収拾できると見通ししていた。しかし、最終的に朝鮮からの日本軍撤退をめぐる双方の利害の矛盾調整ができないまま、明勅使は日本に渡った。これが講和破綻の主要因となった。
秀吉は、9月1日、大阪城で明勅使と対面し、明皇帝から書面と金印・冠服の進呈を受けた。行長を筆頭とする諸大名にも、明皇帝から官職任命書と衣服が与えられた。このように、秀吉は、はじめから明と冊封を受け入れる方向で行長に交渉させていた。
 秀吉は明の冊封は受け入れつつも、朝鮮皿道の割譲が命じられず、朝鮮要請されたことに激しく抵抗した。これに失敗したとき、秀吉の権威は揺らいで、政権の瓦解につながる芽が出てきてしまう。
 朝鮮からの日本軍撤退と朝鮮王子の日本末渡海の二点が秀吉には受け入れられず、講和は破綻した。
行長が対朝鮮・明との交渉において果たした役割は大きく、厳しい戦況と多大なストレスのなか、戦争終結のため秀吉が求めた明勅使の派遣を実現させた手腕は評価されるべきだろう。明との講和が破綻したあとも、行長は戦争を回避すべく朝鮮王子の日本渡海を条件として、朝鮮との講和を模索していた。行長は、その過程で朝鮮側に清正の朝鮮渡海ルートと日程を知らせて、朝鮮軍に清正を迎撃させようとしたこともある。この行長の行動からは、すでに清正との確執が決定的なものになっていることを意味する。
 清正は、行長によるこれまでの対朝鮮・対明交渉の実態を知り、行長への不信案をさらに募らせた、
 小西行長と石田三成には共通点が多い。行長が2年年上だが、ほとんど同世代。両者とも、父子そろって秀吉に仕えている。三成は、奉行として朝鮮に渡り、日本軍の統括にあたっている。行長は、実質的な朝鮮出兵の現場担当者だった。
江戸時代の前期までは、武将としての行長の才能は積極的に評価されていた。ところが、やがて清正の行動などが強調されるようになったのと反比例して、行長のイメージは低下の一途をたどった。
行長が熊本の宇土にお城を構えていたことを初めて認識しました。小西行長のイメージを一新させてくれる本です。
(2010年7月刊。480円+税)

瞽女 キクイとハル

カテゴリー:社会

著者  川野 楠己 、 出版  みやざき文庫(鉱脈社)
 なぜか宮崎の出版社から出た本ですが、テーマは新潟県で活動していた盲目の女性芸人集団・瞽女(ごぜ)の生きざまです。
 生まれつき、あるいは病気によって失明してしまった女性が何を願ったか・・・。
 次の世に生まれ変わるときには、たとえ虫になっても明るい目をもらいたい。虫になってもいいから、明るい眼がほしいと百歳のときに語ったハル。そこには視覚障害者なるが故に体験しなければならなかった苦難の数々が、いかに耐えがたいものとして、ハルにのしかかっていたかを物語っている。
 鼓の下に目と女を書いて、瞽女・ごぜと読ませる。これは貴人の御前(ごぜん)で鼓を打って曽我物語を語るなどに携わっていたことからくる。元禄時代に三味線が普及してから、彼女たちも鼓を放して三味線を持った。
 旅の途中でも、5月13日の妙音講には必ず出席するために帰宅する。瞽女たちにとっては年に一度の祭典である。髪を整え、似合った着物を着て集まり、仲間と健在をよろこびあう。
 農村では、季節ごとに訪ねてくる瞽女を待っていた。ラジオがやっと始まったことのこと。娯楽としては、瞽女や浪曲語りが回ってくるのを待つ以外に、何もなかった。だから、瞽女の来訪は、村にとって「ハレの日」になる。
 宿は「瞽女宿」と呼んだ無償で泊めてくれる大きな農家があった。その家では代々瞽女の世話を引き受けていた。
 組ごとに決まった旅をもち、一つの村にいくつかの組が時期をずらして訪れていた。高田瞽女は、上越全体に100件もの宿をもっていたようだ。
 瞽女の旅は、通常3人か4人が一組になって歩く。一行のなかで、弱いながらも視力のあるものが先頭に立つ。
 農家の間口の戸を開けて、「ごめんなんしょ」と奥に声をかけて三味線を弾きだし、3分ほどの「門付け唄(かどつけうた)」をうたう。この門付(かどつけ)は、瞽女の一行がこの村に北ことを知らせる役割がある。
 宿の家では、間仕切りの襖を外し、表座敷を開放して臨時の会場をつくる。
 瞽女たちは、口説(くどき)、民謡、段物を次々にうたい続ける。終わるのは、夜10時、11時になることがある。演目は、驚くほど広い。
 ストーリーのある八百屋お七、佐倉宗五郎、小栗判官(おぐりはんがん)、照手姫(てるてひめ)、葛の葉子別れなどの古浄瑠璃を中心として、段物(だんもの)と呼ばれる「瞽女松坂」地震・災害・心中事件などのニュース性のある話題を歌い込んだ口説(くどき)清元、端唄、新内から、民謡や流行りうたなど、あらゆる分野にまたがっている。
 そして、瞽女が途中の村々で仕入れた情報も伝えられる。瞽女は、芸能と情という文化を村人に伝える存在なのだ。
瞽女社会には、男の肌に触れることは、能動的であろうと、受動的であろうと許されないという厳しい掟(おきて)がある。瞽女には、結婚は許されない。結婚すると瞽女仲間から離脱し、二度と戻ることは出来ない。
 文字ではなく、すべて聞いた音で覚え、三味線を弾いて語り、うたうという瞽女の声をぜひ聞いてみたいと思い、この本に紹介してあるのを早速注文してみました。なるほど、80歳とか90歳とは思えない張りのある声でした。
(2014年10月刊。2000円+税)

「カジノで地域経済再生」の幻想

カテゴリー:社会

著者  桜田 照雄 、 出版  自治体研究社
 カジノに頼る経済なんて、そもそも発想が間違っています。
 そして、この本は、カジノに頼って地域経済が再生するなんて、嘘っぱちだと実証しています。アベとかハシモトのインチキ宣伝に乗せられてはいけません。
 「IR型カジノ」の基本的な考え方は、エンターテインメントやショッピングなど、魅力ある「楽しみ」を提供する施設を組み合わせた複合施設を集めることで、観光客の大幅な増加を図ろうとしているもの。そのなかで、カジノ施設が、今までにない「楽しみ」を人々に提供する集客施設として位置づけられている。
 コンベンションを誘致する「切り札」としてカジノが考えられている。
 九州では、カジノに頼ることを北九州、佐世保(ハウステンボス)、別府、宮崎(シーガイア)、沖縄が名乗りをあげている。
 おぞましい、恐るべき事態です。
 賭博はコントロールできるか?現実には、人間の脳への刺激に起因する依存症の発症をコントロールすることは出来ない。
 カジノは、既存のビジネスを共喰い(カニバライズ)する。大阪のUSJの経済波小効果は5900億円だったが、地元の商店街は潤っていたという事実はない。
 カジノのもうけは、「客の負け分」にほかならない。大阪にカジノがオープンしたとしても、すでに飽和状態にある商業施設のなかで、多くの競争相手を向こうにまわしてカジノが生きのびるという保障はまったくない。
 かつて30兆円産業といわれた日本のパチンコ産業も、今では20兆円を大きく下まわっている。4割近く落ち込んだ。パチンコへの参加人口も、1790万人(2004年)から970万人(2014年)へと、半減している。
 そのなかで、マルハンとダイナムの2社で、半分の売上げを占めている。カジノと両立できるパチンコ店というのは考えられない。
 アメリカでは、IR型カジノが次々に閉鎖に追い込まれている。
 カジノは、バクチです。人の心を荒廃させ、まわりに不幸を持ち込むものです。そんなものにたよる社会は不健康ですし、長続きするはずもありません。
 大阪の橋下市長も、安倍首相も狂っているとしか言いようがありません。ところが、そんな彼らが、子どもに道徳教育を強制しようとするのです。世の中は、本当にわけが分かりませんよね。どうなっているのでしょうか。有権者は、一刻も早く目を覚ますべきだと思います。
(2015年1月刊。1100円+税)

人民解放軍と中国政治

カテゴリー:中国

著者  林 載桓 、 出版  名古屋大学出版会
 中国の文化大革命と中国軍(人民解放軍)との関わりについて、大変興味深い分析がなされていて感嘆しながら読みすすめていきました。
毛沢東の最大の目的は、通常の独裁者と同じく権力の維持、つまり政治的存続だった。死ぬまで「挑戦不可能な権威」として毛沢東は君臨し続けたが、かといって国内外に競争相手のいない安泰な状況が保証されていたわけでもない。毛沢東は意思決定過程への支配力を保持することに格別の注意を払っていた。
 毛沢東は、権力の維持とともに、あるいは、それを通じて中国社会の全面的変革を図ろうとした。
 毛沢東は過度な抑圧によって大衆を政治から遊離させることを決して望ましく思わなかった。単なる服従ではなく、社会の積極的な協力にもとづいた統治を好んでいた。スターリン流のテロと人殺しは、毛沢東にとって、あくまで最後の手段だった。
 1969年に発生した中国とソ連の武力衝突、珍宝島事件は、中国側の周到な「仕掛け」の結果だった。対外的に「適切な」危機をつくり出し、国内動員の挺子にしようとする毛沢東の政治的意図が色濃く反映されていた。
 戦備体制の構築の大前提として、各地で派閥闘争の即刻の解消、とりわけ「武闘」の無条件停止が求められ、同時に軍内部の団結、軍政団結、軍民団結の強化が強く訴えられていた。なかでも、駐留部隊に対する大衆団体の攻撃・批判の厳禁、違反行為に対する厳しい処分が強調された。
 文化大革命による社会の混乱を収拾するため、中国とソ連の「武力衝突」が利用されたというのです・・・。
 林彪勢力の組織基盤の強化には、毛沢東が直接に関与していた。そして、林彪勢力が政権を簒奪する「陰謀」を企図していたとか、その影響力が「膨脹」していたという実態は疑わしい。では、なぜ、林彪は排除されなければならなかったのか・・・?
 毛沢東の林彪勢力への攻勢は、現に実在する脅威を対象としたというよりは、将来の情勢変化に対する一種の予防策としての性格を帯びていた。林彪事件は、独裁者による後継者の否定に、その本質がある。
林彪の突然の死は、毛沢東にしてもほとんど予期できなかった出来事だった。毛沢東は、林彪を「消滅」させようとまでは思っていなかった。
 この林彪事件のもたらした衝撃により、毛沢東は、国政全般で一定の妥協を迫られた。毛沢東は林彪を「極左」ではなく「極右」批判とした。「極左」批判の高まりが文革の全面否定につながることを恐れたのだろう。
毛沢東は、人民解放軍を自らのイデオロギーの宣伝と実践に忠実な組織にすべく、直接の軍統制を妨げる制度的、人格的爽雑物を取り除くことに細心の注意を払ってきた。それは、制度的には、軍を党の党勢から切り離すことを意味し、その過程で党と軍にまたがる、あるいは国家と軍をつなぐ制度的立場にあった多くの軍幹部が犠牲になった。前者の典型は羅瑞卿であり、後者は楊成武である。
 1973年12月の八大軍区司令員の相互移動は、政治における解放軍の影響力の縮小を最大の課題としていた。同時に、毛沢東は鄧小平の政治局と中央軍委入りの、総参謀長への任命を公表した。
 1975年に、省指導部における軍人の割合は一気に20%台へ減少した。
1979年2月から3月までの中国のベトナム侵攻作戦は中国軍の惨敗で終了した。
 中越戦争は、大規模な軍事動員とは対照的に、国内ではほとんど宣伝されず、およそ秘密裏に行われた戦争だった。人民解放軍(中国軍)は、適切な戦術を通じて、大規模な兵力を運用できなかった。
 ランソンをめぐる戦闘では、ベトナムの一個連隊が中国側の2個軍を相手に1週間も抗戦に成功している。中国軍は、とても効率的な作戦が行える状態ではなかった。その原因は、解放軍による統治活動の長期化にあった。
 鄧小平は、それにもかかわらず、権力の維持と強化に成功した。それは、対ベトナム戦争の遂行を軍改革の「プロセス」のなかに明確に位置づけることに成功したからである。
 中国軍を毛沢東は思うように操っていたこと、しかし同時に必ずしも思うようには中国軍が動かなかったことが明らかにされています。複雑・怪奇な中国政治の断面を鋭く分析している本として、中国軍と文化大革命との関わりに関心のある人には強く一読をおすすめします。
(2014年11月刊。5500円+税)

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