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日本国最後の帰還兵

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

著者  深谷 敏雄 、 出版  集英社
 戦国の中国に潜伏13年、獄中20年の日本軍スパイだった深谷(ふかたに)義治氏とその家族の歩みを紹介する本です。著者は、この日本兵の二男です。中国に生まれ、今は日本で生活しています。私と同じ団塊の世代となります。中国での苦労とは違っていますが、日本でもかなりの苦労を余儀なくされたようです。
 深谷義治は大正4年(1915年)島根県太田市に生まれた。召集令状で軍隊に入り、戦時憲兵となった。そして、諜報謀略工作に従事するという特別任務についた。軍参謀部直属の謀略憲兵。敵にばれたら、直ちに銃殺されるのは必至という任務である。
 人相を変えるため入れ歯(特殊なマウスピース)を入れた。中国人に成りすまして密輸集団に加わって、工作資金を稼いだ。また、中国(国民党)軍の紙幣の精巧な偽紙幣をつくって大量の物資を購入し、中国軍の経済を破綻させて、日本軍への投降を早めた。
 このようにして、一人でいくつもの師団に匹敵する貢献をしたので、27歳の若さで勲七等瑞宝章が授与された。昭和18年(1943年)のこと。
 終戦後も、上海で任務を続行せよという極秘の任務が命じられた。そこで、中国人に成りすました生活が続いた。中国人の妻と結婚し、4人の子どもをもうけて生活していた。そして、1958年(昭和33年)5月、ついに中国の公安に逮捕された。
 深谷義治は、日本国に命を捧げてきた軍人であり、日本が戦後までスパイを中国大陸に置いていたという汚名を死んでも日本に着せてはならないという確固たる信念があった。だから、戦後日本のスパイではないと答え続けた。その結果、拷問を受けた。
 中国政府は日本人戦犯に寛大な措置をとっていましたが、それに逆らったわけです。
 深谷義治は刑務所で一日一食となり、やせ細った。カルシウムを補うため、年に1個か2個もらう卵は、殻まで、きれいに食べ尽くした。そして、生きて日本に帰るため拳を立てて、腕立て伏せを続けた。しかし、178センチあった身長が168センチに縮んでしまった。
 文化大革命の嵐のなかで、深町義治の家族は日本人スパイの家族として、ひどい苦痛を味わされた。16年ぶりに、妻と再会したとき、自分の家族とは思えなかった。妻は49歳にして、すっかり白髪になっていた。
 そして、父親は、背の低い眉毛が完全に抜け落ちていた。16年ぶりの再会のとき、娘は最後まで「お父さん」とは呼ばなかった。ようやく「お父さん」と呼んだのは、4回目の面会のときだった。娘は、一家が離散して貧困と差別という二つの苦しみを受け続けた原因が、父親ではなく、その戦争にあり、父親は戦争の犠牲者だと思うようになった。そして、父親の言葉から、自分と家族のことを誰より案じてくれていることを知った。
 そうして、4度目の再会のとき、娘は囚人である父親の悲愴な姿をついに受け入れられるようになった。娘は16年の歳月をかけて探し続けた父を、やっと暗黒の刑務所で見つけ、慣れない口調で、生まれてはじめて、「お父さん」と呼んだ。呼ぶと同時に、娘の月から涙が流れた。
 深谷義治は、勾留された20年間、風呂はもちろん、シャワーさえ浴びることがなかった。深谷の父親は1951年に亡くなったが、そのとき大田町の町長だった。
 深谷義治は、獄中記録8冊を監獄から持ち帰った。釈放までの4年間に書き続けたもの。もう一つ、ボロボロのズボンを持ち帰った。妻が差し入れた服は20年間、一枚も捨てず、寒さから実を守るため、五重六重に縫いつけ、厚みと重みのある原始人顔負けの服をつくり出していた。重さはズボン2枚で3キロほどもあった。
 拘禁される前には針など使ったことのない手で縫いつけたのは、単なるボロ布ではなく、20年間の苦しみだった、無数の縫い目は悲惨をきわめた地獄絵そのものだった。ボロ服に残されたのは、拷問の爪痕、滲み出たのは望郷の涙だった。
 深谷義治とその家族は昭和53年11月に日本に帰国した。
これだけ苦難の生活を余儀なくされながらも99歳の長寿だというのです。すごい生命力に驚嘆します。440頁ほどの分厚さにも圧倒される感動的な長編ドキュメンタリーです。
(2015年1月刊。1800円+税)
 夜、マイカーで帰宅していると、目の前をウサギがぴょんぴょんと跳んでいきました。先日は、ほぼ同じところにタヌキが2頭いるのをみました。1頭が道路を横断し、すぐにもう1頭が道を横切りました。
 山に近い団地なので、タヌキはときに見かけるのですが、野生のウサギを見たのは初めてです。
 わが家の庭にチューリップが一斉に咲きはじめました。

日本人は、いつから働きすぎになったのか

カテゴリー:社会

著者  礫川 全次 、 出版  平凡社新書
 日本人は勤勉すぎるように思います。といっても、私もその一人であることには間違いありません。だって、この毎日一冊の書評を、誰もお金をくれるわけでもないのに、なんと10年以上も続けているのですから。いったい、どれだけ読まれているのでしょうか?
 まあ、好きでやっていることなので、読まれなくても文句を言うつもりではありません。
 それにしても、二宮尊徳の実際を知って驚きました。薪(たきぎ)を背負う二宮尊徳の像は、全国各地の学校にありました。しかし、それは、二宮尊徳が死んで35年もたって、あらたに創り出されたものだった。ええーっ、なんということでしょう。すっかり、だまされていました。
 二宮尊徳は、人々を思想的、宗教的に教化するカリスマ的な思想家、宗教家ではなかった。むしろ、「勤勉にして謙虚な農民」を「権力」によって育成しようとする官僚的な実践家、教育者だった。
 二宮尊徳の試みた改革に対して、村内の各層から根強い抵抗・非協力が起きた。
 それは、江戸後期の日本には、断固として「勤勉」になることを拒む農民たちが存在していたという厳然たる事実を証明している。
 江戸時代の農民は、必ずしも勤勉とは言えなかった。多くの農民が「勤勉」になるのは、明治30年代に入ってからのこと。
 福沢諭吉は、たしかに勤勉家だった。しかし、福沢諭吉は、「武士」というよりは、「商工」に近いメンタリティをもっていた人物だった。
 第二次大戦に敗れて、日本人は多くのものを失った。しかし、決して意気消沈することなく、ただちに復興に向かって動きはじめた。そのとき、日本人にとって最大の武器となったのが、その勤勉性だった。敗戦という衝撃によっても勤勉性という価値を日本人は疑うことがなかった。
 しかしながら、日本人の勤勉性は、わずか「数百年間の特徴」でしかない。前述したとおり、二宮尊徳の指導に対して、断固として「勤勉」になることを拒否した村民がいた。明治30年代までは、江戸時代以来から伝わる「多めの休日」を楽しんでいた農民たちがいた。
 報酬の多いことより、労働の少ない方を選ぼう。怠ける勇気をもとう。怠けの哲学をもとう。
 日本人とは何かを考えさせてくれる本でもありました。
(2014年8月刊。820円+税)

恋するソマリア

カテゴリー:アフリカ

著者  高野 秀行 、 出版  集英社
 実に面白い本です。知らなかったことを知る喜びに包まれる本なのです。
 『謎の独立国家ソマリランド』も大変面白く読みましたが、この本は、前著にもましてソマリアの尽きせぬ魅力を徹底的にレポートしています。
 その白眉がソマリア料理をつくる体験です。ソマリア女性にソマリア料理を教えてもらい、一緒につくるのです。なーんだ、と言うことなかれ。男性が大人の女性と接することはありえない社会で、それを実現したというのですから、それは賞賛に値する偉業なのです。
あるグループの人々を理解するための文化的な三大要素は、言語、料理、音楽だ。
 ソマリの一般家庭に入ってソマリの家庭料理を習いたい。しかしソマリ人は、素の姿を見られたくない。ソマリ世界の台所こそ「アフリカの角」における最大の秘境ではないかと思わせるほど、その接近は困難だった。
 ソマリアでは、煮炊きはすべて炭とソマリ式七輪で行っている。ソマリア人は、御飯でもパスタでもサラダでも、つまり何にでもバナナを上に載せ、一緒に食べるのを好む。バナナを3センチほどに切って上に散らしておくのがソマリ風なのだ。
 ソマリ料理は、なんでもとりあえず粗みじんに切ったタマネギを油で炒めるところから始める。そのあと、肉や米や野菜を入れる。ニンニクを入れるのは、日本と違って、常にラストに近い。ソマリ料理のつくり方の特徴は、とにかく「てきとう」ということ。
ソマリ人は誇り高い民族であり、自分たちのことを世界に知られたいとは、ちっとも思っていない。その反面、冷徹なアリストでもある。世の中を動かすのは、しょせん、お金と武力であると正しく理解している。
ソマリ語は複雑で、風変わりで、あまりにも難しい。ソマリ語に比べると、フランス語やアラビア語ですら、文法構造は単純かつ素直に思える。
 ソマリランド(ソマリアの北方の国)の人々は、実に熱心に本を読む。道端の茶屋では、おしゃべりと新聞のまわし読みが二大娯楽となっている。
 テレビとかインターネットは、どうなっているのでしょうか・・・?
 ソマリランドは、イスラム国家なので、酒は所持も持ち込みも禁止されている。
 ソマリランドが平和なのは、土地が乏しいうえに、何の利権もないから。
 伝統的な民族社会に生きているソマリ人は、「自分とは何者か?」とアイデンティティに悩む余地が少ない。
 一般にソマリ人は非常に飽きっぽくて、他人の話など5分と聞いていられない。ところが、カート宴会だけは3時間も続く。アルコールの代わりに、カートという木の葉を口中に入れてかみ。「酔って」しまう。
 ソマリ人は、驚くことに、若者をふくめて誰も西洋の音楽を聴かない。ソマリ人がソマリ語でうたうソマリ・ミュージックをきいている。
 ソマリ人は世界じゅうに300万人いるが、外国人と結婚する人は1%もいない。
 故郷にソマリ人が送金するのは、故郷で認めてもらいたいがため。
 ソマリ人は、めったに客を自分の家に呼ばない。もし客を呼ぶなら、徹底的にもてなさなければいけないという使命感にかられるから。
 ソマリアではジャーナリストが殺されている。この5年間で11人のジャーナリストが殺された。暗殺された8人のうち7人は、モガディショのジャーナリスト。
 ジャーナリストは、女性が一番なりやすい職業。ソマリアでは、何をするのも氏族単位だけど、ジャーナリストは違う。
 ソマリアでは、メディアも政治家も公正ではないし、手段を選ばない。
ソマリ人の氏族へのこだわりは、病気というほかない。おなじ氏族の人間しか信用しない。
 氏族で人間を判断する。別に理由もなく、誰がどこの氏族か知りたがる。一言でいえば「氏族依存症」だ。
 ソマリ人は誰にも助けを求めていない。一方的な同上や愛情を必要としてもいない。
 野生のライオンみたいな存在だ。
ソマリアのボガデイショでアメリカ軍の精鋭が群衆と戦った映画「ブラックホークダウン」を思い出しました。そのモガデイショに日本人のジャーナリストが素手で、もちろん護衛兵つきで取材した体験記です。こんな勇敢なジャーナリストが存在するおかげでソマリアのすばらしい素顔を知ることができるのです。ありがたいことです。
日本の自衛隊がソマリアの海賊を逮捕して東京地裁で刑事裁判にかけたとき、著者は通訳をしたようです。ソマリア語が話せる日本人に出会って、びっくりしたといいます。
 やっぱり武力(軍事力)一辺倒では何事もなしえないことを、この本でも思い知らされます。ご一読をおすすめします。
(2014年10月刊。780円+税)

跳びはねる思考

カテゴリー:人間

著者  東田 直樹 、 出版  イースト・プレス
 自閉症の人の素顔を初めて知った思いでした。
 本人の書いた文章とインタビューによって、自閉症の人がどういう状況にあるのか、どんなことを考えているのかが、よく分かります。
 青空を見ると泣けてくる。空を見ているときには、心を閉ざしていると思う。周りのものは一切遮断し、空にひたっている。見ているだけなのに、すべての感覚が空に吸い込まれていくよう。この感じは、自閉症患者が自分の興味のあるものに、こだわる様子に近い。
 ひとつのものしか目に入らないのではなく、言いようもなく強く惹かれてしまう。それは、自分にとっての永遠の美だったり、止められない関心だったりする。心が求める。
 声は呼吸するように口から出てしまう。自分の居場所がどこにあるのか分からないのと同じで、どうすればいいのかを自分で決められない。まるで壊れたロボットの中にいて、操縦に困っている人のようなのだ。
 ひとりが好きなわけではない。ありのままの自分で、気持ちが穏やかな状態でいられることを望んでいる。
 必要とされることが人にとっての幸せだと考えている。そのために、人は人の役に立ちたいのだ。
動いているほうが自然で、落ち着ける状態なのだ。行動を自分の意思でコントロールするのが難しい。そのため、気持ちに折りあいをつける必要がある。だから、時間がかかる。
 自閉症という障害をかかえていても、ひとりの人間なんだ。
 表情を自由自在に変えるなんて、信じられないこと・・・。
 現実世界は、ふわふわした雲の上から人間界を見ているような感覚だ。
 話せない自閉症者は、人の話を聞くだけの毎日。知能が遅れていると思われがちだが、そうとは言い切れない。人の話を黙って聞く。こんな苦行を続けられる人間が、世の中にどれくらいいるだろうか・・・。
 著者は、アメリカなど外国にまで出かけて講演しています。
 講演会などで他の土地へ行くと、心が解放された気分になる。誰も自分を知らないという状況が心地いい。
 質疑応答とは、疑問に回答するだけでなく、登壇者と参加者の心と心をつなぐかけ橋のような対話だ。相手を思いやりながら、言葉をかわすことに意味がある。
 自閉症の人の置かれている世界を垣間見ることのできる本です。
(2015年1月刊。1300円+税)

私の人生・社会・読書ノートから

カテゴリー:司法

著者  小林 保夫 、 出版  清風堂書店
 大阪の先輩弁護士が来しかたを振り返り、書いてきたものをまとめて本にしました。
 タイトルのとおり、長い弁護士人生を語っていて、味わい深いものがあります。
まずは、著者の母と父について語られています。私も父と母の一生を伝記(読みもの)としてまとめてみました。その作業を通じていろんなことを学ぶことが出来ました。
 著者の生みの母親は29歳の若さで亡くなっています。夫が三度にもわたって召集されて中国へ兵隊として駆り出され、その留守を守って家業と4人の子どもの世話に追われるうちに肺を病んで、29歳で亡くなったのです。
 そして、父親の再婚で稼いできた新しい母親は、伏せ字だけの『蟹工船』を嫁入り道具の中に入れていたといいます。
 著者の父親は71歳で亡くなり、母親は95歳で亡くなったとのことですが、私もほとんど同じ年齢で両親を亡くしました。
著者の父親は、21歳から38歳までという人生最良の時期に3度も兵隊として中国の戦場に駆り出された。中国大陸での作戦行動の詳細が几帳面な筆跡で記録したものが残っている。
 1937年の日本軍による南京大虐殺事件のときにも、南京城郊外に布陣していた。
 そして、中国人に対して残虐な行為をしていた日本兵は、同時に、善良な夫であり父でもあった。
 著者の父親は日本にいる子どもたちへ、中国の風物を色エンピツで描いた手書きの絵ハガキを送っている。
私の父は、病気になり、そのため中国本土から台湾の病院へ送られ、日本内地に帰還して命拾いをしました。
 著者は阪神・淡路大震災を体験しています。その体験記を読んで、水不足とトイレ問題が深刻だったことを改めて思い知りました。
 著者は、長い弁護士生活のなかで、一般の市民事件において11件の無罪判決を得たとのことです。たいしたものです。私は、一般的な市民事件で得た無罪判決は1件しかありません(もう1件ありますが、それは、公選法違憲・無罪判決です)。
 著者は労働・公安関係の刑事事件で、9件もの無罪判決を得たといいます。いやはや、たいしたものです。頭が下がります。
 法廷で証人尋問した警察官はのべ100人を下まわらないというのですから、恐れ入りましたというほかありません。私も警察官は何人か尋問していますが、せいぜい片手ほどしか思い出せません。
 無罪判決を獲得した事件で、反対尋問を成功させる秘訣について、著者は次のようにコメントしています。
 反対尋問の成否は、弁護士が被告人の無罪について確信をもつかどうかに大きく左右される。そして、そのためには、弁護人として被告人の訴えに敏感に反応する正義感あるいは素朴な情熱が求められている。
 そのうえで、徹底的な調査と事実の分析をして、事実に精通しておくことだ。
敵性証人に対する尋問にあたっては、開始直後の数分の応酬において証人に対して心理的な優位を獲得しておく。この優位の獲得は、尋問者を勇気づけ、余裕を与え、反対に証人を萎縮させる。その結果として、尋問者にとって状況を実際よりもはるかに有利に変えてしまう。
 はじめのうちの重要な尋問事項において、証人に抵抗しがたいことを悟らせ、諦めさせ、事実を述べるほかないという心境に追い込むことによって、被告人の無罪や行為の正統性の事実を明らかにすることができる。
 弁護人は、反対尋問の内容、過程で、絶えず裁判官の態度や反応を観察し、尋問とこれに対する証言を通して裁判官の疑問にこたえて、その理解を深めるという観点を貫かなければならない。
 著者は旺盛に読書し、また海外へ旅行しています。私も同じようにがんばっていますが、読んだ本はともかくとして、出かけた海外の国では私が圧倒的に負けています。私は、たとえば南アフリカとかロシアなどには行っていません。
 ただ、私はフランス語が少しばかり話せるので、モロッコやカナダなどには行ってみたいと思ってはいます。
 小林先生、ますますお元気でご活躍ください。
(2015年1月刊。1500円+税)

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