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徹底批判!カジノ賭博合法化

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 全国カジノ反対連絡協議会   出版 合同出版
 
日本はすでに世界一のギャンブル大国と言われる。パチンコ、スロット、競輪、競馬、競艇、オートレースと、、、。
全国のパチンコ店は、減ったといっても、まだ1万2000店以上もある。
カジノの収益の90%は、10%のギャンブラーに依存している。大金を賭ける優良顧客は10%であり、優良顧客をいかに確保するかがカジノ収益を左右する。
カジノ企業は、1人でも多くの客をギャンブル依存の状態に誘導し、「滅びるまで賭け」させ、限られた「優良顧客」から高収益を得ている。
アメリカでは、一般受刑者の30%がギャンブル依存症だと言われている。
日本ではギャンブル依存症の60%に500万円以上の借金がある。
日本にカジノを設置しようとしているのは、日本に来る外国人の金持ちが狙いではない。あくまで、日本人ギャンブラーからお金を吸い上げようというもの。ここをカジノ協議連盟などのカジノ推進派はごまかしている。
カジノの「経済効果」とは、「不幸をまき散らすビジネス」でしかない。
カジノの実現を狙う議員の多くは、戦争法案の推進派でもあります。根っこはひとつ。自分の金もうけのためには、国民の多くが不幸になってもかまわないという我利我利亡者であるということです。情ない連中です。
   (2014年8月刊。1200円+税)

人びとはなぜ満州へ渡ったのか

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 小林 信介   出版 世界思想社
 
戦前の満州(現在の中国東北部)には、100万人をこえる日本人がいた。その3分の1は農業移民だった。そして、長野県は満州移民をもっとも多く送り出した。
満州への農業移民には、3つのパターンがあった。
自由移民・・・個人単位で満州に渡った。
分村移民・・・ひとつの村が送り出しの母体となって移民を送り出す。
分郷移民・・・近隣町村が合同してひとつの開拓団を組織した。
戦前の恐慌は1934年が底で、その後は長野県の経済は回復傾向にあった。そして、徴兵・徴用が相次いだことから、農村は労働力不足の状況となった。そこで、農家の過剰人口を前提とする大量の移民送出は困難になったが、大陸政策上の理由から、満州移民は要求され続けた。
一般開拓団が行き詰まりをみせはじめると、多くの青少年が義勇軍として満州へ送られた。関東軍の予備兵力である。
1945年8月9日、ソ連軍は満州へ侵攻を始めた。このとき、関東軍は主力が南方に派遣されており、また、関東軍による「根こそぎ動員」によって満州各地の開拓村には壮年男子はおらず、老人、女性、子どもが残されていた。
満州開拓は、日本の大陸侵略を前提としたものであり、満州の大地に根をおろしていなかった。現地の中国人は、開拓民をうらんでおり、日本人を歓迎するどころではなかった。
長野県が送り出した開拓民2万6000人のうち、日本に帰還したのは1万1000人ほど。半数以上が日本に帰国していない。帰国できなかった。
この本は、阿智村の長岳寺の住職・山本慈昭氏の活動を紹介しています。私も先日、映画『望郷の鐘』をみました。山本慈昭氏ら開拓民の悲惨な体験を身近に実感できる内容の映画です。泣けて仕方がありませんでした。2013年4月には、満蒙開拓平和記念館が開館しています。
長野県が青少年を満州へ義勇軍として送り出すのが多かった原因の一つに、教師が農家の二・三男をそそのかしたことがあげられる。それは、前段に長野県では「教員赤化」事件で138人という、大量の意欲的な教師が特高警察から逮捕されたこと、このとき信濃教育会も当局からにらまれたことによる。そこで、信濃教育会は、「海外発展」を打ち出すことによって信濃教育会への風当たりを援和させようとしたのだろう。
国の政策(国策)は、コロコロ変わる。その犠牲(しわ寄せ)は国民にかぶってくる。
このことを改めて実感させられる本でした。アベ政権にだまされてはいけません。「国を守るため」というのは、「国民を守る」ことに直結しておらず、矛盾することが多いことを学ぶべきだと痛感させられました。
(2015年8月刊。2500円+税)
 

幕末史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  佐々木 克、 出版  ちくま新書
 ペリーの来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、アメリカ大統領フィルモアの日本に開国を勧める親書をたずさえて、四隻の軍艦とともに浦賀に来航した。1853年6月のこと。ミシシッピ号は全長69メートル、1692トン、大砲12門、乗員268人の外輪式フリゲート艦。
当時の日本には、軍艦というものがない。最大の千石船は150トン、乗員20人、もちろん大砲は積んでいない。
そうだったんですね。1桁ちがう大きさの船に、大砲が12門も積んであれば脅威そのものです。しかも、その大砲の威力がすごいのです。
新型の大砲パクサンズ砲は、6000メートルの有効射程距離にあるから、江戸城はやすやすと攻撃可能だった。
私が驚いたのは、浦賀奉行の与力・中島三郎助が大砲を見てパクサンズ砲ではないかとたずねたという事実です。江戸幕府も、外国の新鋭兵器について相当の知識をもっていたのです。
1867年、長崎でイギリス人水兵が何者かに殺害された。イギリス公使パークスが土佐の高知に乗り込んで、土佐藩政・後藤象二郎と談判した。パークスは、テ-ブルを叩き、床を踏み鳴らすなどして傲慢な態度で後藤を威嚇した。ところが、これに対して後藤はひるまない。
「大英帝国の外交官・紳士がそのような節度のない、粗野な態度では、いかがなものか」と、逆にたしなめた。
卑屈にならず、ぶれず、礼節をわきまえ、高い志をもつ。この幕末日本の外交姿勢は、中国とは違っていた。日本を侮っていた欧米列強をたじろがせた。
これはすごいことです。今のアメリカの言いなりになる屈辱的外交とは、まるで違いますよね。首都圏に外国軍の基地がある国なんて、日本だけだと思います。しかも、その基地に入管もパスポートも無用のままアメリカの将兵が自由に入出国しているというのです。信じられません、、、。
1862年(文久2年)、薩摩藩の島津久光(44歳)は、藩兵1000の大軍を率いて京都に着いた。幕府の許可なく、届出もしていない。ただし、天皇の内命(上京するように)は得ていた。そして、浪士を取り締まる役目を、天皇が京都所司代をさしおいて、幕府に断りもなく直接、特定の諸候(大名格の久光)に命じた。近世社会の常識ではありえないことがおこなわれた。幕府の権威の失墜であるが、幕府は異議を申立することもなく、これを黙認してしまった。
民衆が尊王攘夷運動を支持したのには明白な理由があった。このころの日本は、かつて経験したことのない急激なインフレーションが進行していた。開港このかた、よいことが一つもなく、生活が苦しくなるばかりだと幕府をうらんでいた民衆が、尊攘運動に期待したのは、自然のなりゆきだった。
1864年(元治 元年)、徳川慶喜25歳、松平春嶽34歳、島津久光45歳。山内容堂35歳。みな若かったのですね、、、。
1863年(文久3年)、孝明天皇が賀茂神社に行幸した。天皇が禁裏御所を出るのは237年ぶり。このとき、天皇は徳川将軍と大名を従えて行列した。天皇が日本国家の最上位に位置する存在であることを誇示したのである。
1863年の秋、天皇は島津久光に心境を打ち明けて相談した。久光は、無位無官であって、朝廷では庶民の扱いであるから、御所の座敷に上がることは許されず、廊下に座ることを命じられる。そのような人物に天皇は相談をもちかけた。これは、近現代の天皇と国民のあいだでは想像もつかないことだった。ただし、あとで、久光は従四位下左近衛少将に叙任している。
1865年4月、薩摩の汽船が大坂を出港した。この船には、家老・小松帯刀(29歳)、側役(そばやく)・西郷隆盛(36歳)、そして坂本龍馬(29歳)が乗っていた。本当に若いですね、、、。
1866年(慶応2年)1月の薩長誓約は、西郷が口頭で述べた運動方針を木戸が6ヶ条に整理して書きとめたもので、朝廷は再起不能の状態にあって期待できないので、誓約しますという趣旨である。
 幕長戦争では、統制のとれていない幕府連合軍に対して、長州藩では、武士・農民・町民が一体となった日夜、厳しい訓練に耐えてきた。そして、日本再建の一翼を担うため負けてはならない戦争だと位置づけていた。戦場における幕府軍劣勢の報が相次ぐなか、将軍家茂は20歳で大坂城中において病死した。死因は脚気による心不全。
幕末の状況を生き生きと再現していて、とても考えさせられる面白い本でした。
(2014年12月刊。1000円+税)

大江戸・商い白書

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  山室 恭子 、 出版  講談社選書メチエ
 江戸時代の町人の生活の実情を統計処理を通じて明らかにした画期的な本です。一見、無意味に見える数値の山も、きちんとした統計処理をすると、意味のある物語になってくるのですね、、、。業者による地道な統計処理が生きている本になっています。
江戸の町奉行所の調査はすごい。1853年(嘉永6年)に、男性29万5453人、女性27万9474人、合計57万4927人の町人が住んでいるとしている。
ただ、どの町に何人が住んでいるというところまでは分からない。
江戸の店の名前は、1位に伊勢屋、2位に万屋(よろずや)、3位は三河屋。越後屋は6位。屋号の存続年数は、伊勢屋が一番長くて17年、万屋は15年、越後屋は12年。全体の平均は15,7年。要するに、江戸の店は、目まぐるしく参入と退出がくり返され、商人の顔ぶれは、どんどん入れ替わっていた。
店の移動は、第三者への譲渡が5割、身内への相続は1割にみたない。
商人は非血縁原理による承継をメインとしていて、血縁相続による承継は部分的でしかなかった。そして、非血縁者に金銭で譲り渡す譲渡のほうが、承継されたあとの存続年数が長く、安定性も高い。
江戸の店で多いのは、炭薪(すみたきぎ)仲買(なかがい)823件、次いで搗米屋(つきこめや)771件の二つで、3位の両替屋209件を大きく引き離している。 
店の存続期間が50年以上というのは、石灰等仲買と札差。差札については、100年をこえる店も珍しくない。公儀の家臣に顧客を限定した金融業ということで、特殊かつ専門性が高いので、参入障壁は高かった。
米屋や炭屋は、株の譲渡や改廃が頻繁で流動性が激しく、10年ほどで店主がくるくる交代する短命な業種だった。
呉服屋や薬屋は、株があまり移動せず、固定的で、店主も30年ほどじっくり継続する長寿な業種。
札差は、全店舗が浅草の蔵前地区に集中している。
薬種問屋の92%は、日本橋北地区に集中している。『江戸買物獨(ひとり)案内』という本が売られていた。ひとりでも江戸の町で迷わず買い物ができるための初心者向けのガイドブック。すごいですね。こんなガイドブックまであったのですか、、、、。まるで、『地球の歩き方』です。
この本のもとになっているデータは、『江戸商豪商人名データ総覧』です。全7巻データ総数7万4000件。そこからデータを抽出して3939人分の商人の履歴データを整理してつくられたのが本書なのです。実に根気のいる作業でした。それでも、そのおかげで、私たちは江戸の町人生活の実情を統計的にも確認できるわけです。ありがたいことです。
江戸に少しでも関心のある人には必須不可欠な本だと思います。
                            (2015年7月刊。1600円+税)

証拠は天から地から

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  岡田 尚 、 出版  新日本出版社
 著者は司法研修所で私と同期(26期)で、同クラスでした。実は、実務修習地も同じ横浜だったのです。
著者の扱った事件からタイトルがとられていますが、本としても大変面白く、一気に読了しました。では、タイトルにちなむ話を紹介しましょう、本書の後半に出てくる話です。
国鉄の分割・民営化の過程で、当時の日本で最強の労働組合と言われていた国労や全動労の組合員は徹底して弾圧され、迫害を受けた。1986年12月、横浜貨車区で国労の組合員5人が助役に傷害を負わせたとして逮捕された。逮捕当日の夕刊各紙は大きく事件を報道し、国労つぶしキャンペーンに加担した。
しかし、起訴されたとき、助役に対する傷害罪は消え、公務執行妨害罪しかなかった。いったいどういうことか?
この刑事裁判で、検察側は、物的証拠としてマイクロカセットテープ一本を提出した。助役が事件の現場で隠しどりしたというもの。
弁護団は当然のことながらテープをダビングして聞いていた。すると、坂本堤弁護士(オウム真理教から妻子ともども無惨に殺されてしまいました)が「あれ、なんか違うのが入ってるな」と、つぶやいた。このテープには、当局側の事件直前の打合せまで録音されていて、それとも知らずに消去されることなく裁判所へ提出されていたのです。
ところが、雑音がひどくて、とても聞きとれない。そこで音楽スタジオを借りて、大変な苦労をして2年かけてテープ全部の反訳書を完成させた。
「やつら、たくさんいるんでね。動かないんですよ、、、、。公安関係の人、残っていただいてね」
「皆さん、ここに隠れてもらって、なにかあったときは、すぐ飛び出してもらいます」
「うちのほうは隠れていてね、やつらにやらせるように仕向けますから。決定的なやつをね、、、、、皆さんにみてもらえば、、、、」
「ワーワーやったところで、現認してもらえばいいですから」
このような当局の内部打ち合せが27分間も録音されていた。
このテープの謀議場面を著者はテレビ局に提供した。深夜に、「刻まれた謀議」として1時間番組として放映され、2桁の視聴率をとった。
助役のズボンのポケットにカセットテープレコーダーが入っていたというが、国労組合員による具体的「暴力行為」に触れた発言がどこにも出てこないことも明らかになった。
そこで、裁判所は、「(暴力があったら聞けるはずの)衣擦れ音等をまったく聴取できない」「本件テープは、暴力の裏付けとならないばかりか、問題性を広げてみせるばかりである」「管理者側の挑発の策謀といった、これまた不明瞭な事情が認められる」
などとして、無罪判決を下した。検察官による控訴はなく、一審で確定した。
 要するに、国鉄当局が公安警察としめしあわせて「傷害」事件をデッチあげたのです。
 次は、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」で、いじめにあって自殺した若い自衛官の事件です。
 一審判決は遺族が勝訴(国は440万円支払え)したものの、自殺とイジメの因果関係を裁判所は認めなかった。東京高裁へ控訴した段階で、一審で国側代理人だった自衛官が内部告発したのです。自衛隊は、この自衛官が自殺した直後に乗組員全員にアンケートをとり、実情をつかんでいたのに、それを裁判の証拠として提出していなかったのです。
 この勇気ある自衛官は、ついに裁判所あてに陳述書まで書いたのでした。
 証拠隠しがバレた自衛隊側は、当然のことながら敗訴(国は7350万円を支払え)します。
 そして、自衛隊のトップは遺族宅に出向いて直接、謝罪し、告発した自衛官は差別されないような措置がとられたのでした。
 著者は、「あとがき」で次のように書いています。
  「弁護士生活41年だから、負けたこともあるし、勝利も、そこで私が果たした役割がどれほどのものか分からないが、それでも私は、これまで幸せな弁護士人生であった」
 弁護士の仕事に全力投球したため、家庭のほうはいささかおろそかな面があったようです。著者も、その点は反省しきりです。
 ともかく、熊本県玉名市で生まれ育ち、横浜での41年あまりの弁護士生活を振り返っている本書は、あとに続く弁護士にとって大変教訓に富むテキストにもなっていると思います。ぜひ、ご一読ください。
著者の今後ひき続きのご健闘を心より祈念しています。
(2015年7月刊。1700円+税)

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