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ハトはなぜ首を振って歩くのか

カテゴリー:生物

                               (霧山昴)
著者  藤田 祐樹 、 出版  岩波科学ライブラリー
 鳥の飛行ではなく、歩行を研究している学者がいるのです。驚きました。
 たしかに、ハトが地上を歩いているとき、異様なほど左右に首を振って歩いていますよね。でも、それがなぜなのかって、私ら一般人は考えに及びません。ところが、学者は、ほかの鳥類と比較しながら、その謎を解明していくのです。そこには、涙ぐましいウソのような努力と工夫があるのです。この本を読んで、そこあたりを理解しました。
ハトは歩行するが、スズメはホッピングする。スズメは歩行を基本的にしない。やればできるけれど、普通はやらない。
 ハトは歩きながら頭を静止している。ハトが歩くと、体はおおむね一定の速度で前進する。体が前進しているのに、頭を静止させるためには首を曲げて縮めなければならない。首をある程度まで縮めると、今度は首を一気に伸ばして頭を前進させる。この動作の繰り返しが、歩行時の首振りの実態なのである。
 景色が動くと、ハトは首を振る。ハトに対して景色が動くと、ハトは景色に対して頭を静止させようとして、首を動かす。これは、景色を目で追っているということ。
 ハトの視野は人間よりずっと広くて316度もある。真後ろ以外は、だいたい見える。その代わり、左右の視野の異なる部分が小さく、たった22度しかない。
鳥類の眼球は、頭の大きさに比べて非常に大きい。視覚情報をより正確に得るためには、眼球が大きいほうがよい。眼球が大きいとそれだけ網膜も大きくなり、視細胞を増やすことができる。眼球が動かないなら、首を動かせばいい。
 ハトの首振りは、視覚的な理由がある。鳥の目は横を向いているので、ハトが歩くと、景色は視軸に直交する向きに流れる。その景色を目で追う必要がある一方、鳥の眼球は大きく、形もやや扁平で、きょろきょろ動かしにくいから、頭を景色に対して静止させる。それが首振りである。
 首を振りながら歩く鳥たちは、みな歩きながら食物を探してついばむタイプの鳥たちだ。眼球運動が十分にできず、視軸が横を向いている鳥たちは、視覚のブレを軽減するために、よく動く首で頭の位置を調整している。それが首振りの一番大切だ。そして、首振りは、歩行の安定性を高めるタイミングで行われ、首を振る鳥たちは、歩幅が大きく回転数の少ない歩行をしている。歩きながら食べ物を探し、ついばむタイプの採食行動が首振り歩きと関係している。近距離の視覚情報をきちんと得る必要があるので、そのためには視覚のブレを少なくする必要がある。
 学者ってスゴイですね。仮説を立てて、それを観察データから実証していくのです。
(2015年6月刊。1200円+税)

葬送の仕事師たち

カテゴリー:社会

                               (霧山昴)
著者  井上 理律子 、 出版  新潮社
 人間の死にかかわることを仕事としている人たちの現場に出かけて取材した本です。その捨て身の現場取材のたくましさに圧倒されました。葬儀屋、遺体復元師、エンバーマー、火葬場で働く人々、そして現代的なお葬式のあり方を考える・・・。
 葬儀社への就職を目ざす2年制の専修学校があるのを初めて知りました。2年間の授業料は182万円(教材費は別)というのですから、安くはありません。
 今の日本のお葬式は昭和のはじめからのものなので、わずか90年の歴史しかない。
 その前は葬列があったし、参列者は白い喪服を着ていた。
 葬祭ディレクター技能審査(1級・2級)をパスした人が、全国に2万5千人いる。
 「村八分」のとき、許された「二分」は、火事と葬儀だった。
 エンバーミングは、アメリカで南北戦争(1861年~1865年)のとき、亡くなった兵士を遺体を遺族のもとに長距離搬送する必要があったことから始まった。今では、アメリカ、カナダで7割以上、ヨーロッパでも6割以上の遺体に施術されている。
 エンバーミングの費用は、搬送費をふくめて12万円ほど。
 葬儀業界の市場規模は、返礼品や運送・飲食費をふくめて1兆6千億円。
 お寺へのお布施は、地方だと20~30万円。東京では戒名代をふくめて60~70万円。
 エンバーミングの薬液は、防腐・殺菌・修復の三つの効果を狙っている。体の中のたんぱく質を固定し、まだつながっているアミノ酸の鎖の力を強める。
 日本で亡くなった外国人を母国に帰すためには、エンバーミングが必要なことが多い。日本には、3時間ルールがある。3時間内にエンバーミングを終えて、遺族に遺体を返すべしというルール。
 全国の火葬場は公設が95%。東京だけでは例外的に民営がある。
 欧米には、骨上げという習慣はない。遺族は2~3日後に、「灰」を受けとる。
 よくぞ、ここまで葬送の現場に踏み込んで調べあげたものだと驚嘆しました。
(2015年6月刊。1400円+税)

楽しく生きる

カテゴリー:人間

                              (霧山昴)
著者  藤野 高明 、 出版  かもがわ出版
 戦後まもなく、小学2年生の夏、弟と一緒に不発弾と知らず扱って遊んでいたとき、爆発して弟は即死、自分は両手と両眼を失ったのです。7歳でした。両手がなくては点字を読めないということで、盲学校にも入れなかったのです。20歳になるまでの13年間、何の教育も受けられませんでした。
 両手がなくても点字は読める。どうやって・・・?
 口、そう手の代わりに唇をつかって点字を読むのです。もちろん、すぐには読めませんでした。でも、慣れたら、唇で点字が読めるのです。といっても、手よりも遅いし疲れます。それでも藤野さんは読みました。ついに20歳で、大阪の盲学校に入学を認められました。
 福岡出身ですが、残念なことに福岡では拒否されました。大阪の盲学校では、福岡まで出張してきて面接し、入学が認められたのです。すごいことですね、よかったですね・・・。
 藤野さんは、20歳で盲学校の中学2年生に入り、それから猛勉強し、高等部を卒業して大学の通信教育部に入り、教員の資格をとって、今度は盲学校で教える側にまわりました。全国初めて、両手・両眼のない教師です。
 今、76歳になる藤野さんは生まれてきて良かった、生きてきて良かったと心から言えます。それは、この人生を楽しく感じられたからです。楽しさの源泉の第一は、人とのつながりにある。第二は、人生に目的ロマンをもつこと。第三に、好奇心とチャレンジ精神をもち続けること。
 藤野さんは、盲学校で30年間、社会科の教員をしてきました。主として世界史を担当しまいた。今でも、センター試験の世界史Bの問題を解いているそうです。
 そして、将棋を指すのも楽しみです。頭のなかに盤上の駒が鮮明に見えるのです。
 これまた、すごいことですよね。楽しみでやっているわけですが、やはり負けると、かなりくやしいそうです。
 大切なことは、見えることだけが人生じゃないということ。障害を受容する。あるがままの自分を受け入れて生きるのは、なかなか難しいけれど、とても大切なこと。
 人間らしく、しっかり生きる術を人間は持っている。一人でできなかったら、家族や友だちが助けてくれる。
 藤野さんは、障害者である前に、当然のことながら一人の市民であり、働き手であり、普通の人間なのです。
 藤野さんが18歳のころ、このころは盲学校にも行っていません。21歳になる看護実習生が、一冊の本をくれたのです。ハンセン病で苦しんだ人が唇で点字を読んだことも書かれている本(『命の初夜』)です。それから、藤野さんも唇で点字を読むようになったのでした。
点字を覚えることによって、新しい人生が開けてきたのを感じた。
 唇で点字を読むと疲れる。どんなにしっかり読んでも、1時間に30頁にもならない。
 唇で読むというのは、身体を倒して首を点字に沿わせるようにするから、肩がこり、首がこる。とても疲れてしまう。そして、唇で読むから、不特定多数の人の手を触れた図書館の本は、衛生上、読めない。
 両手先がなく、両目とも見えない藤野さんですが、将棋を指し、プロ野球を楽しみ、音楽に浸って、人生を大いに楽しんでいるのです。両目が見えているのに、社会の現実を見ようとしないなんて、実にもったいないことですよね・・・。
 本当に心あたたまる、いい本でした。ちょっと、このごろ疲れたなあ・・・、と思っているあなたに、おすすめの一冊です。いつのまにか元気が静かに湧いてきますよ。藤野さん、引き続き、お元気で、人生を楽しんでくださいね。
(2015年3月刊。1500円+税)

スペイン無敵艦隊の悲劇

カテゴリー:ヨーロッパ

                               (霧山昴)
著者  岩根 圀和 、 出版  彩流社
 エリザベス女王の統治するイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を完膚なきまでに撃滅した「史実」は世界史を学んだものの一人として、忘れることができません。
 ところが、この本によれば、スペイン「無敵」艦隊なるものは自称でも、他称でもなかったというのです。イギリス軍がスペインから来た艦隊に勝利したあとの本で、「無敵」のスペイン艦隊をやっつけたと書いたところ、それが、あたかも自称ないし他称として広まったというだけだというのです。知りませんでした・・・。
 スペイン艦隊は、実際には、イギリス軍の艦船に初戦から敗退しているから、その意味でも、ちっとも「無敵」ではなかった。
 1588年のこの戦争で、スペイン王国フェリペ2世は、イングランドのエリザベス女王に宣戦布告していない。当時、スペインのリスボン港に大艦隊を終結させながらも、それをひた隠しにして出撃した。艦隊に乗船する兵士たちに目的地は知らされなかった。イギリスへ戦争しに行くと布告したら兵士を確保できないので、新大陸へ向かうという嘘の布令が出された。
 この海上戦において、イギリスは自力で勝ってはいない。むしろ、戦闘らしき戦闘は、ほとんどなかった。スペイン艦隊は、イギリスから打撃を被ったのではなく、飢え渇きと病気、そして悪天候による強風と嵐による難破のせいで、大損害を被った。
 スペインには、どうしてもイングランドへ艦隊を派遣せざるを得ない国内事情があった。その一つが、ドレイクをはじめとするイギリス海賊による傍若無人な掠奪行為が横行していたこと。
 イギリス女王の許可を得てスペイン船を掠奪しているイギリス海賊船が200隻をこしていた。
 スペインは、ドレイクなどの海賊船の出現で大あわて・・・。掠奪金の分け前にあずかって大いに国庫をうるおしているエリザベスとすれば、ドレイクにいい顔をしたくなるのも無理ないところだ・・・。
イギリスとスペインの艦船の大砲の威力を発揮していない。5時間かかって、500発の砲弾を打ち出した。イギリス艦隊は、ほとんどがカルバリン砲だった。
 カルバリン砲は、カノン砲よりも射程距離が長い。それでも600メートル。カノン砲は、砲弾を1500メートルも飛ばすけれど、有効な射程距離は、せいぜい450メートルだった。
 当時の鉄砲や大砲は、すべて滑空砲なので、命中率は悪い。
 お互い波動に揺れる船同士なので、照準器もないから、砲撃の命中率は0%に近い。
 この本を読むと、スペイン国王フェリペ2世がスペイン艦隊を派遣しようと熱心だったこと、スペイン「無敵」艦隊は出発当初から、いいかげんすぎる部隊として悪名高いものがあったことが分かります。
 1588年の戦闘について、7月22日に出港したスペイン軍艦船は、130隻、2万6千人だったところ、同年9月から帰ってきたのは、そのうちの半分の65隻、1万3千人ほどだった。
 イングランド艦船による「火船」攻撃は、スペイン艦船に被害をもたらすことはなかった。
スペイン「無敵」艦隊の実際を知り、驚き、かつ呆れました。まるで、戦前の帝国陸軍のように、現実に立脚せず、スペイン国王の頭のなかにある空理空論のみに頼っていたのです。これって、まるで、現代日本・・・?
(2015年3月刊。3500円+税)

キム・フィルビー

カテゴリー:ヨーロッパ

                                (霧山昴)
著者  ベン・マッキンタイアー 、 出版  中央公論新社
 イギリスの市場もっとも有名なスパイの一生を明らかにした本です。
ケンブリッジ5人組として、良家の育ちなのに共産主義を信奉し、スパイ・マスターの世界に入り、ソ連へ情報を売り渡していたのです。
 ところが、あまりにも最良の情報だったため、逆にソ連の情報当局が疑ったのでした。
 ちょうど、日本からのゾルゲ情報をスターリンが疑ったのと同じです。
 スパイが送ってくる情報は「ニセモノ」かもしれない。味方を撹乱させるためのものかもしれないというのです。生命を賭けて送った最良の情報がたやすく信じてもらえないというのは、笑えないパラドックスです。
 キム・フィルビーは、崇拝者を勝ちとる類の人間だ。フィルビーは、相手の心に愛情を、いとも簡単に吹き込んだり、伝えたりでき、そのため相手は、自分が魅力のとりこになっているとは、ほとんど気がつかないほどだった。男性も女性も、老いも若きも、誰もがキムに取り込まれた。キム・フィルビーの父親は著名なアラブ学者で探検家で作家だった。
 キム・フィルビーは、上司として最高だった。ほかの誰よりも熱心に働きながら、苦労しているそぶりは一向に見せなかった。
 1930年代にイギリスのケンブリッジ大学を猛烈なイデオロギーの潮流が襲った。
 ナチズムの残虐性を目にした友人の多くは共産党に入ったが、フィルビーは入党はしなかった。
 ソ連の諜報組織は、異常なほどの不信感にみちており、フィルビーら5人の情報が大量で、質もよく、矛盾した点のないことを、かえって疑わしく思った。5人全員がイギリス側の二重スパイに違いないと考えたのだ。
 フィルビーがモスクワに真実を告げても、その真実がモスクワの期待に反しているため、フィルビーの報告は信用されないという、とんでもない状況が生まれた。フィルビーは、おとりであり、ペテン師であり、裏切り者であって、実に傲慢な態度で我々(ソ連側)に嘘をついていると見られていた。
 そして、ソ連側のスパイ・マスターたちが次々に黙々とスターリンによって粛清されていった。フィルビーは、これを黙って受け入れた。
 キム・フィルビーは、国民戦線派(フランコ派)のスペインから、共産主義国家ソ連から、イギリスから、三つの異なる勲章をもらった。
 キム・フィルビーは、イギリス情報機関からアメリカに派遣されています。アメリカでも、もちろん有能なスパイに徹したのです。
 フィルビーにとっては、欺瞞が楽しかった。他人に話のことをできない情報を保持し、そのことから得られるひそかな優越感に喜びを見出す。フィルビーは、もっとも近しい人々にさえ真実を知らせずにいることを楽しんでいた。
 キム・フィルビーの流した情報によって、どれだけの人々が殺されたかは不明だと何度も強調されています。
 ソ連側のもとスパイの告発によってキム・フィルビーは一度こけてしまいましたが、証拠不十分だったので、再起することができたのです。そして、二度目は、ついにソ連へ亡命してしまいます。1988年5月にキム・フィルビーはモスクワの病院で亡くなりました。
 イギリスの上流階級に育った子弟が、死ぬまで二重スパイであり続けたという驚異的な事実には、言葉が出ない思いがしました。
(2015年5月刊。2700円+税)

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