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パティシエ世界一

カテゴリー:人間

                       (霧山昴)
著者  辻口 博啓・浅妻 千映子 、 出版  PHP文庫
 いちど、私も自由が丘のお菓子屋さんに行ってみたいと思います。
 今から40年以上も前、私が大学生だったころ、東横線の自由が丘駅周辺は完全な住宅街で、寂しい雰囲気でした・・・。
 和菓子屋の息子として育った著者は、今やフランス菓子の世界的な第一人者です。
 世界的なお菓子のコンクールで何回も優勝しています。たいしたものです。
 コンクールに強いのは、食べていくため、成り上がるため、生活をつかみとるため、そういう明確な目的をもって取り組んできたから。「餓える」ことが、どんなに恐ろしいことか身をもって分かっていたから、必死だった。
 さすがに、第一人者は材料をよく選んでいます。
 つかっている卵は、秋田の比内鶏が産んだもの。
 バニラビーンズは、タヒチ産。牛乳は、低温殺菌。
 頭のなかにあるのは、基本的にお菓子だけ。お菓子づくりは仕事であると同時に、趣味でもあるし、遊びでもある。何を見ても、何を話しても、お菓子に結び付いてしまう。
 自由が丘に店を構える前、日本に帰ってから一文なしになっていたところ、スポンサーになってくれた女性から、1億5000万円を渡された。
 「これで、自分のつくりたいものがつくれる店をやってごらんなさい」
 すごい人が、世の中には、いるものなんですね・・・。今では、自由が丘駅から、この「モンサンクレーム」まで、人通りが絶えないというのです。
店で好きな菓子を選びたいんだったら、台風が直撃していたり、大雨のときに来店するようにすすめています。いやはや、すごいことです・・・。
店の面積は53坪。そのうち厨房が半分を占める。厨房のデザインは自分で手がけた。涼しいこと。2台の強力エアコンを入れた。そして乾燥厨房にした。床をホースで水をまかず、モップで拭いて汚れをとれるようにした。
 スタッフ同士はテーブルをはさんで対面で仕事をする。客は、半円形の窓から厨房でパティシエが働いている姿を見ることができる。
 毎朝、9時半にミーティングをする。15分から30分間。
 厨房のなかではムダなおしゃべりはなく、緊張した空気。
 スタッフの男女比は半々。
 さすが一流のパティシエの言うことは違います。フランス料理の楽しみの一つが、色と形と味の良さで驚嘆させるデザートです。
 ぜひぜひ、いちど、食べてみたいものです、著者のケーキを・・・。
(2015年4月刊。640円+税)

馬と人の江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  兼平 賢治 、 出版  古川弘文館
 馬は、戦前、筑後平野にもたくさんいました。亡き父の実家(大川市です)でも戦前、馬を飼っていて、写真が残っています。この本は、主として東北地方の人々と馬の結びつきをテーマにしています。
 軍事権を兵馬の権(へいばのけん)と呼んだ。武芸を職能する武士にとって、馬は武威と武芸を象徴する存在だった。良馬を確保して乗りこなすことは、軍事力の優位さと、武芸の技量が秀でていることを周囲に知らしめた。馬は武士そのものを象徴する存在だった。
江戸幕府は、東北の馬、とくに南部馬を求めて馬買役人を派遣していた。いや、幕府だけではなく、全国の大名や旗本も派遣していた。
 公儀御馬買衆(こうぎおうまかいしゅう)に対して、馬買、御馬買、脇馬買(わきうまかい)と呼んだ。
 東北の馬を「奥馬」(おくうま)と呼んだが、奥馬は体格が大きく、性格は穏やかで、人によく馴れた。
 南部馬は、軍馬・常用馬として、実際の利用に適した馬であった。
 牛皮は使い勝手がいいため利用されていたが、馬皮は積極的に利用されていた形跡はない。それが19世紀に入ってから変わった。馬の尾の毛は、甲冑の飾りや、筆の材料として、また、川釣りの糸、刷毛(はけ)や、うらごし器の網などに使われた。
 馬への親しみの情から、今なお馬肉を食べるのを避ける地域がある。
 馬肉を食べる地域として有名なのは長野と熊本ですよね。熊本ではスーパーでも普通に馬肉が売られています。隣接する福岡のスーパーには見当たりませんが・・・。
 日本の在来馬は小柄だった。現在のサラブレッドは160センチほどの長身の馬だが、日本の在来馬は、140センチほど。これは、当時の平均的日本人の身長が160センチをこえていなかったことを考えたらマッチしている。
 南部曲屋(なんぶまがりや)は、人馬がひとつ屋根の下で共に暮らしていたことを如実に示している。
 岩手のチャグチャグ馬コは、さすがに戦争中は中断したそうですが、今は復活しています。3.11事故のあとも復活していますよね。
 この本には登場してきませんが、昔は炭鉱内でも馬が活躍していました。死ぬまで地底で働かされていた馬がいたのです。人間と馬とのかかわりを考えさせてくれる本でした。
(2015年4月刊。1700円+税)

豊臣秀次

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  藤田 恒春 、 出版  吉川弘文館
 かの秀次について、著者は次のように評しています。
 戦いの場における獅子奮迅の活躍もなければ、一領主として領地支配に専念した形跡もなく、といって秀吉の影法師的役割を果たせたわけでもない。要するに、至って凡庸なる青年にすぎなかった。
 秀次28歳の人生をかえりみると、操り人形のごとく操られていたとはいえ、秀次なりに公家たちへの学問の奨励をとおして、自らも漢和連句などに関心を見出し、また古典の蒐集などへも関心を示し、それが軌道に乗り始めたと思う矢先に降って湧いたような事件に巻き込まれてしまった。志半ばにして、汚名を着せられたまま葬り去られたことは、無念だったろう。
 秀次は、生前から悪者に仕立てられてきたきらいがある。本人の行状に帰するところでもあるが、秀次が書き残した書状には、世評とは別の細やかなる心をもちあわせた青年の一面をのぞかせている。不出来の甥子が叔父(秀吉)になんとか気に入ってもらおうと努力はしていたのである。
 いずれにしても、秀次を葬り去ることによって一番の痛手を蒙ったのは、ほかでもなく、当の秀吉本人だった。
 これは、まったく同感です。我が子(秀頼)が可愛いばかりに甥をばっさり冷酷・無惨に殺してしまったら、その一家に未来はありえません。
秀吉は、家康との小牧・長久手の合戦のとき、みじめに敗退した。そのときの秀吉側の大将が秀次だった。
秀次は、剣術や射術へ人並み以上に関心をもち、腕前も人並み以上だった。それは、秀次の失態に激怒した秀吉が、鍛錬のために、それぞれの武芸者を秀次につけた成果と考えられる。
 中納言秀次は、ひと月のあいだに、秀吉が体現していた関白職を、みずから望むことなく譲られた。秀吉は、みずから天下人として関白職を体現していたが、秀次には、その度量も器量もないままで関白職を継職したことになり、ここに秀吉の理解しえないムリがあった。
 禁裏内の手練手管に富んだ年上の公卿たちを相手の矢面に立たされたら、何人といえども、気が滅入ってしまうだろう。武士としての実績も少なく、叔父の秀吉に担ぎ出されただけの、しかも年若の秀次には、あまりにも重すぎる荷であったろう。
 秀次は切腹させられ、その秀次の首を前にして、秀次の妻妾30数人がことごとく首をはねられた。この秀吉のとった行動は、「悪魔の仕業」以上のものだったが、次第に秀吉の行為は問われることなく、秀次のみ「殺生関白」の異名が定着・形成していった。しかし、秀次の武将たちがほとんど処罰されていないことは秀次事件が冤罪であったことを裏付けている。
なるほど、なーるほど、そうだったのか、そうだよね・・・、と思いながら、一気に読み通しました。
(2015年3月刊。2200円+税)

穏やかな死に医療はいらない

カテゴリー:人間

                                (霧山昴)
著者  萬田 緑平 、 出版  朝日新書
 医師や病院に任せきりにしている限り、自分らしい最期を迎えることはできない。自分らしく死にたいと思ったら、病院を出て自宅に帰るのが一番。
 外科医だった医師が、今では在宅緩和ケア医に転身して5年の経験をふまえて、このように断言しています。なるほど、なるほど、そう思いながら一気に読みすすめました。
治療を諦めるのではない。治療をやめて自分らしく生きる。治療をやめることで、穏やかに、自分らしく生き抜いて、死ぬことができる。もちろん、治る病気は治したほうがいい。
著者は43歳のとき、それまでの外科医から在宅から、在宅緩和ケア医へ転身しました。
食べることが苦痛だったら、それは食べないでくれという身体のサイン。上手にやせていくのがいい。亡くなる直前まで歩いている人は、やせてがりがりの身体になれた人たち。
 上手にやせていき、そのまま「老衰モード」にもちこめたら、なお、あっぱれ。
ほとんどの医療者は、自分や自分の家族なら胃ろうはしないと考えている。胃ろうを安易にしてはいけない。場合によっては、途中でやめることも必要。
 高齢になったら、安易に病院に行かないことを勧める。年寄りが入院すると、体力、筋力、ものを飲み込む力があっという間に奪われてしまう。
発熱しても、時期が来れば自然に下がることは多い。本人が食べないときには、「栄養のため」といって、無理に食べさせないこと。無理に食べさせずに我慢していると、また食べられるようになるもの。
抗がん剤治療は、がんとの戦いというよりも副作用との戦い。身体中に毒ガスをまくようなもので、がんだけでなく正常な細胞もやっつけてしまい、患者の身体は激しいダメージを受ける。
 抗がん剤の治療を受けて1~3ヶ月後の効果判定で効果が少なければ、さっさとやめたほうがいい。抗がん剤は、治療中止のタイミングがよければ、最大の延命効果がある。
 具体的な余命の数字を言うことはない。それは非常にむずしいことだし、患者がそれを知って、ひとつもいいことはない。むしろ、ウソをつかないで、状況を悟ってもらうことのほうが大切。
とても実践的な本だと思いました。私も、がんになったときには、抗がん剤で、あまり苦しみたくはないと考えています。といっても、悟りきれずに、じたばたするのかもしれませんが・・・。その可能性は、大です。
 がんに関心のある人に、広く一読をおすすめします。
(2015年2月刊。760円+税)

キラキラネームの大研究

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  伊東 ひとみ 、 出版  新潮新書
 光宙と書いて、ぴかちゅうと読む。
 近ごろ子の名前は、本当に読めません。私は、いつも、相談を受けるときに家族(子ども)の名前の読みかたを教えてもらっていますが、いつも驚きの読み方です。
 1993年(平成5年)に我が子を「悪魔」と名づけようとした親がいて裁判となったのは有名です。ちょうどそのころ、私は「飛虎」という名前をつけようとした子どもの祖父から相談を受けました。ヒトラーを崇拝した暴走族の兄ちゃんが父親になったのです。
 ヒトラーは、ご承知のとおり日本人をふくめて黄色人種を劣等民族としていました。そんな人物を命名するなんて、間違っています。幸い、このときには町役場が受け入れず、また裁判にもなりませんでした。
 最近のキラキラネームは、フリガナがないと読めないし、フリガナがあっても読み方に違和感が残るものがほとんど。
 女の子の名前は、かわいらしさと呼びやすさから「ゆい」「ひな」「ゆあ」のように二音するのが流行。やわらかくて易しい響きがある。音の響きに、最近の親は、かなりこだわっている。
 徳川家の最後の将軍である徳川慶喜は、「よしのぶ」と思っていました。「けいき」とも読みますが、実は、「よしひさ」という読み方もあるそうです。知りませんでした。
 忠臣蔵で有名な大名内蔵助良雄は「よしお」ではなく、「よしたか」また「よしかつ」とも読むそうです。
 明治の初めまで、日本では個人の名前は、ころころ変わるものだった。
 典型的な一人として徳川家康が紹介されています。幼名は竹千代、そして人質のころは松平元信。それから、松平元康。そして徳川家康となった。通称は、二郎三郎。官職は、いろいろついて、将軍を引退したあとは、大御所様。没後は、「神君」(しんくん)。神号としては、「東照大権現」。
江戸時代にも、難読名乗りがブームになっていて、本居宣長が嘆いた。
 古く、日本人は実名を他人から呼ばれると、もともとの実名がもっていた神秘的な呪術性が失われてしまうと考えていた。だから、容易には読まれないようにする意図があった。
 仮名(けみょう。通称)は、実名ではないから、他人に知られ、万一、呼ばれても安心だと考えられた。
古代の女性にとっては、相手の男性に自分の名前を教えることは、身を許すことと同義であり、名前を知られることは、文字どおり相手の支配下に置かれることを意味していた。だから、そうそう簡単に教えるわけにはいかなかった。
この世で一番短い「呪」とは、名前なのである。それは、親から子への最初のプレゼントだが、その名前は子どもに生涯つきまとい、その子の運命をも左右する。
昔から、日本人は、他人が他称の違和感を覚えようとも、子どもの名前はこの音の響きでなければならない。他人には読みにくくても、この漢字で表記しなければ・・・。そんなやむにやまれぬ衝動は、現代のキラキラネームをつける親の心理に直結している。
 漢字で書くからこそ表せる意味の世界と、さまざまに読むことのできる多様な音訓。このズレのなかで名前を付けてきたのだ・・・。
 キラキラネームが、単なる一過性のブームではないことがよく分かりました。
(2015年5月刊。780円+税)

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