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朝鮮民衆の社会史

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 趙 景達 、 出版 岩波新書
 隣の国であり、顔つきもそっくりなので、道を歩いている人が韓国(朝鮮)人かどうか、一見して分かりません。
 ところが、生活習慣などはかなりの違いがあります。この本を読んで、ますます違いの大きさ、深さを知ることができました。
朝鮮王朝が建国したのは1392年。太祖は李成桂。朝鮮は朱子学革命によって建国された国家だった。
 朝鮮は貴族制を廃そうとはしたが、身分制を廃することはなかった。
 朝鮮の身分は四区分。両班(ヤンバン)、中人、良人(常人、常民、良民)、賤人(賤民)。儒教的民本主義は五つ。第一は一君万民。第二は、公論直訴、第三は観農教化、第四は賑怵(しんじゅつ)扶助、第五は平均分配。
 王権は門閥政治、臣権の強大性に脅かされ、士禍や党争などの熾烈(しれつ)な抗争が長きにわたって中央政治を歪めた。そして、地方政治では情実が支配した。
 儒教国家というのは、法律があっても、その運用は情理によるのを良しとした。
朝鮮では土地売買が原則として自由であり、民衆の移動率はきわめて高かった。戸籍によると、3年の間に20~30%が移動している。
 いやあ、これはまったく知りませんでした。日本と同じように、民衆は生まれた土地にしばりつけられているとばかり思っていました。
 戸籍は、職役を把握するためのものなので、賄賂をつかって戸籍に登録せず、良役を逃れる人が少なくなかった。
 朝鮮では、人々は簡単に移住していたようです。そうなると、土地にしばりつけられてきた日本とは決定的に違いますよね。近世日本の村は、「閉ざされた村社会」でしたが、朝鮮はまったく異なるようです。
 朝鮮全体が巨大な相互扶助社会だった。人々は、村民同士でひんぱんに行きかって食を分けあったが、よそ者に対しても同様だった。だから、人々は、見も知らぬ人々の善意と扶助をあてにして住みなれた村を出ていくことができた。いやあ、これは日本ではまったく考えられない状況です。
 朝鮮人は大食。多く食べるのは名誉なこととされた。
 朝鮮は、現実には、儒教一色の社会ではなかった。民衆世界は儒教的統治原理を受け入れ、朱子学をヘゲモニー教学として認めた。必ずしも儒教が優位していたわけではない。
 朝鮮仏教の特徴は、護国信仰的な性格をもつだけでなく、あらゆる教学を一つにした総合仏教的な性格をあわせもち、道教や巫俗とも習合した点にある。
 朝鮮の芸能民は、一般に広大とか才人と総称される。
 白丁は、もとは、特定の職役をもたず、土地の支給も受けない職人身分の人々を言った。白丁は、一般民との通婚ができなかったので、仲間内で婚姻するしかなかった。
 褓負商(ポプサン)とは行商人のこと。賤民ではないが、賤民視されていた。
 朝鮮社会にあっては、妻や娘は、男性にとって一種の所有物であった。女性は名前さえ満足につけられなかった。朝鮮時代、女性の地位は、時代が下がっていくにつれて低くなっていった。
 離婚するのは、実質的にはなかなか難しいものがあった。野良仕事について、女性はもっぱら畑作で、稲作は基本的に男性の仕事。
 男子15歳、女子14歳という早婚は悲劇をもたらした。朝鮮の女性殺人犯の63%は夫殺しだった。女性の再婚は、両班社会では許されなかった。
甲午改革のなかで、断髪令は最大の失政だった。断髪令に反発したのは士族も平民も同じだった。
 1900年3月ころから活貧党が活動した。三大盗賊の洪吉同をモチーフとした小説に出てくる義賊集団にならったもの。富者の墓を掘り返して遺体を奪って脅迫した。身代金ならぬ骨代金を要求するというわけで、日本では考えられません。死骸に宗教的な価値を置く儒教国家ならではの犯罪。
民衆にとって、火賊は恐怖しつつも、親愛を覚える対象だった。
朝鮮は、はい上がり型志向と分かちあい型志向という相反する論理が混淆(こんこう)した社会であった。
 朝鮮社会が昔から矛盾にみちみちた社会であることを、今さらながら認識させられました。大変、知的刺激にみちた本です。あなたにも、ご一読を強くおすすめします。
(2024年8月刊。1120円+税)

中村哲という希望

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 佐高 信 ・ 高世 仁 、 出版 旬報社
 この本を読んで一番うれしかったのは、中村哲さんが亡くなったあと、アフガニスタン現地につくられた用水路がどうなっているか知ることができたことです。
 2022年11月に行ったら、想像以上に現地がうまくいっていた。用水路は毎年少しずつ手入れしたり、補修しなくてはいけないけれど、地元住民が自発的にやっている。自分たちがつくったものだという思いが強いから、きちんと維持しようとしている。しかも、新しい用水路をつくっていた。
そして、ジャララバード市内に中村哲さんの公園「ナカムラ広場」が出来ている。中村哲さんの笑顔のでっかい肖像が設置されていて、夜はライトアップまでされている。偶像崇拝を禁止しているはずなのに…。
 道路の検問所でも、「日本人だ」と言うと、銃を持ったタリバン兵がにこっと笑って「ナカムラ!」と大声で叫んで、「行ってよし」と手を振ってくれる。
 いやあ、ホント、うれしい反応ですよね。
 ヨーロッパ系のNGOの事業はみんな失敗してしまった。上から目線でやってもダメ。
用水路に水を流すのには傾斜をつける必要がある。100メートルで傾斜7センチ。これで25キロメートルの長さのマルワリード用水路ができた。これによって2万3800ヘクタールの緑の沃野(よくや)をつくり出し、そこで65万人の暮らしを支えている。ただし、水が来るようになって地価が100倍になったところも出てきて、トラブルは絶えないという。その状況で中村哲さんを殺害しようとしたグループが出現したのでしょうね…。本当に残念です。
 中村哲さんが殺されたのは2019年12月4日ですから、もう5年にもなります。一緒にいたアフガニスタン人5人も亡くなりました。
 中村哲さんは国会に参考人として招かれ意見を述べています。自衛隊を現地に派遣するのは有害無益だと断言しました。それで自民党議員が散々ヤジを飛ばしたうえ、取り消しを求めました。もちろん、中村哲さんは撤回していません。
日本の自衛隊は外国からみた立派な軍隊。そんな軍隊に来てもらったら自分たちは困ると訴えたのです。
自衛隊派遣によって、治安はかえって悪化するとも言いました。人殺しをしてはいけない。人殺し部隊を送ってはいけないと国会で断言したのです。たいしたものです。
中村哲さんは、こんな文章も書いています。
アメリカ軍は、人々の人権を守るためにといって空爆で人を殺す。そして、「世界平和のため」に戦争をするという。いったい、何を、何から守るのか…。本当に、そのとおりです。
いま、日本政府、石破首相がやろうとしているのも同じことです。アメリカの求めに応じて、日本は武器も兵士も戦場に送りだそうとしています。そんなものが平和に役立つはずもありません。必要なことは、軍事力に軍事力で対抗するのではなく、中村哲さんのような、地道に汗を流すことです。決して武器をとることではありません。
(2024年7月刊。1600円+税)

二〇三高地

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 長南 政義 、 出版 角川新書
 日露戦争が始まったのは1904年(明治37年)2月。同年6月から翌年1月まで190日間も続いた旅順をめぐる戦闘で、日本軍はのべ16万人の将兵を投入し、6万人もの死傷者を出した。まことにむごい戦闘です。大勢の日本人青年が機関銃に向かって突撃させられ、死んでいったのでした。私も現地に行って、戦争のむごさを体感しました。
第三軍の司令官であった乃木希典について、長く名将とされてきたが、他方で、突撃を繰り返す人海戦術による大量の戦死者を出したことから愚将とする見方も有力となっている。この本は結論として、愚将説をとっていません。むしろ、この本では陸軍の指導部の認識不足と情報不足をまずもって問題としています。
 旅順要塞の構造を強固な野戦築城程度としか認識せず、その攻略を安易に考えていた。つまり、旅順要塞の強度判断に誤りがあった。そして、旅順のロシア軍兵力を1万5千人とみていて、実際にいた4万2千人よりかなり低く見積もっていた。
 当時55歳の乃木希典が第三軍の司令官に就任したのは順当で常識的な人事であり、落閥人事とか無理な人事というものではなかった。
著者は、むしろ軍参謀長の伊地知(いぢち)幸介に問題があったとしています。ぜん息もちの伊地知は、前線の巡視、偵察活動をあまりしなかった。伊地知は優柔不断な性格。「決心の遅鈍」な伊地知は、自分の意見をはっきり表明しなかった。
 日本軍は当初、砲弾数が少なく、継続した砲撃は不可能だった。それで、将兵の突撃攻撃を命じざるをえなかった。また、砲種も砲弾も強力な効果をあげる能力がなかった。前述したとおり私は二〇三高地の現地に立ったことがあります。さすがに感慨深いものがありました。
日本軍の死傷者の75%が銃創、主として機関銃によって突撃が阻止された。
 さすがの日本軍も、「要塞に対しては強襲的な企画はほとんど成功の望みがない」という教訓を得た。そこで、大本営は8月下旬、28サンチ榴弾砲を要塞攻撃に投入することにした。この28サンチ榴弾砲は、砲身だけで11トンもの重量があり、大口径重砲を山上まで運び上げる必要がある。結局、人力で運び上げた。速度は1時間あたり、700~800メートルだった。そして、10月1日から、二十八サンチ榴弾砲を据え付け、試し撃ちをしたところ、予期した以上の命中精度があり、破壊力が高いことが判明した。命中率は55%。
 この二十八サンチ榴弾砲は6門から18門に増強された。ただ、この二十八サンチ榴弾砲には不発弾が多いという欠点もあった。
 第3回の旅順総攻撃のときは、突撃した歩兵たちは1時間に平均して1キロしか進めなかった。
 この日本軍による旅順総攻撃に際して、乃木希典の子ども二人も戦死しています。
 日本軍の手投弾は、ロシア軍のそれより著しく劣っていた。
乃木と児玉の関係は…。西南戦争のとき、乃木は軍旗を西郷軍に奪われ、その責任をとるため切腹しようとした。それを児玉が止めた。このことから、二人には深い信頼関係があった。
 日本軍とロシア軍は結果として消耗戦を戦った。攻囲下にあって兵力の補充のできないロシア軍は消耗戦で敗れた。こういう見方が出来るのですね…。
 第三回総攻撃による日本軍の死傷者は1万7千人。二〇三高地攻略戦で主役をつとめた第七師団の損害は大きく、減耗率は56%に達した。ロシア軍の手榴弾が猛威を振るった。
乃木には戦術的な判断ミスはたしかにあったが、決断力はすぐれていた。
 第一回の総攻撃で全軍の3割もの死傷者を出して失敗したあとも、乃木司令官に対して不満の声が上がらなかった。それほどの統率力が乃木にはあった。第一線を絶えず巡視して将兵をねぎらっていた効果だろう。そして、戦死傷者を多く出したこと、自己の失敗に対する旺盛な責任感があった。
 乃木は軍司令官として名称と評されて然るべきだというのが著者の結論です。新しい資料も紹介していて興味深い記述が満載でした。
(2024年8月刊。1056円)

植物の謎

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 日本植物生理学会 、 出版 講談社ブルーバックス新書
 ショ糖の甘みを100とすると、ブドウ糖は70、果糖は80~150。果糖の甘みに幅があるのは、甘みが温度の影響を受けるから。果糖には2種類(αとβ)があり、β型の果糖は温度が低くなると、α型より3倍も甘く感じられる。ところが、これに対して、ショ糖やブドウ糖の甘さには、温度で変わる性質がない。
 マンゴーには果糖が糖の34%を占めているため、低温にすると甘みが増す。パイナップルとバナナには果糖の比率が低いので、低温にしても甘みは増やさない。
 イチゴの甘みは、含まれるショ糖の濃度に依存する。イチゴを栽培するとき、温度が高いと、甘みを主体とする美味しさの成分をじっくり蓄積できないまま、大きさだけどんどん成長してしまう。温度が低いと、美味しさの成分が十分に蓄積されるので、甘みの強いイチゴになる。
 ダイコンは、すりおろされて初めてイソチオシアネートを発生し、強い辛(から)みを感じる。そして、ダイコンの尻をすりおろしたときのほうが辛みを強く感じる。それは、維管束の密度が高いから。
 リンゴやジャガイモを切ってそのままにしておくと、酸化反応が起きて、タンパク質やアミノ酸などと結合し、赤や茶色に変わる。リンゴの切り口を塩水につけると、塩化物イオンがポリフェノール酸化酵素のはたらきを阻害するため。
 生き物のからだの形は、必ずしも必然性からそうなっているとは限らず、とくに良くも悪くもないので、とりあえずそんな形をしているという事例が多々あると一般に考えられている。
葉緑体の機能が低下して葉の老化がはじまると、植物は葉を落とすため、葉柄の付け根に「離層」という細胞層をつくる。
 植物は「積極的に」老化している。スイカは細胞の数は増えないまま、細胞の一つひとつが大きくなっている。
 バナナは「木」ではなく、多年生の「草(草木。そうほん)」。そして、一生に一度だけ果実をつける。果実ができると地上部は枯れるが、地下部は生きている。
 ニホンタンポポは、自家不和合性なので、雌しべの柱頭は、別の個体の花粉を受粉することが必要。
 「経験によって行動(反応)が永続的に変化する」というのを学習の定義だとすると、植物には学習する能力があると言える。
 オジギゾウにも人間と同じように体内時計があり、およそ24時間周期のリズムをもっている。植物の謎をたくさん解明することができました。
(2024年3月20日刊。1100円)

アウシュヴィッツの小さな厩番

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 ヘンリー・オースター、デクスター・フォード 、 出版 新潮社
 ナチス・ドイツ軍の電撃作戦は有名です。ところが、実は、この作戦を支えていたのは汽車でもトラックでもなく、馬だったのです。すると、ドイツは大量の馬を確保する必要があります。そこで、アウシュヴィッツ収容所でも馬を生産・育成していました。その厩番(うまやばん)にユダヤ人の男の子が使役されていたのです。まったく知りませんでした。
 ドイツ軍は戦車やトラック、戦闘機に使うガソリンを少しでも多く必要としていた。そのうえ、ロシアの鉄道は広軌なので、ドイツの列車をそのまま乗り入れることはできなかった。そのため、ドイツ軍は、すべての占領地で兵士や武器、食料を運搬する馬車を引く馬を大量に必要としていた。
 ドイツ軍は囚人より馬のほうをずっと貴重だと考えていた。なので、馬そして仔馬に何かあったら厩番の生命はないものと考えるほかはない。
 メスの馬2頭とオスの種馬の世話をさせられた。著者は馬の餌として与えられたクローバーも食べた。貴重な栄養源だった。クローバーって、生のままでも食べられるんですね…。
 たんぽぽも花が咲く前に摘みとったら食べられる。花が咲いたら驚くほど苦くなって、食べられない。
 馬の交配にも立ち会い、介助していたとのこと。大変危険な作業だった。オス馬は気が荒く、けったり、かみついたりしてくるので、怪我だらけになった。
 馬の尻尾も危険。馬の毛はヤスリのように固く、ざらついている。
 囚人が収容所から逃亡すると、ドイツ兵は、その報復として脱走者1人あたり10人を無差別に殺した。著者も危うく銃殺されそうになりました。
 薬のないときの銃創の治療法は、傷口に尿をかけるもの。もし、ばい菌が入ったら、鼻水で傷を覆ってしまえばいい。
ドイツが敗戦し、アメリカ軍が収容所に入ってきて、解放した。ブーヘンヴァルト強制収容所にいて解放された2万1000人もの人々を保護して食べさせた。少しずつ、少しずつ、食べていった。一度にたくさん食べてしまうと、身体不調となって死に至る危険性は強かった。だから、収容所に入れられていた人々が、「もっと」「もっと」と求められても、少しずつしかもらえなかった。
 当時16歳だった著者は、体重35キロ、身長は13歳の少年並みだった。ナチス・ドイツが大量の馬を必要としていて、その馬を養成していたユダヤ人の少年がいるのは、とても珍しいことだと思います。
(2024年8月刊。2100円+税)

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