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吼えよ江戸象

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  熊谷 敬太郎 、 出版  NHK出版
 江戸時代に長崎から江戸まで、はるばる陸路で象が歩いていった史実をふまえた歴史小説です。そのストーリー展開の美事さに思わず引きずり込まれてしまいました。「痛快時代小説」というオビのフレーズに文句はありません。
 ときは八代将軍・吉宗のころ。吉宗は南町奉行の大岡越前と何やら謀議をしている気配がある。江戸時代は「鎖国」していたと言っても、実はヨーロッパの情勢やら中国そして東南アジアの文物が日本に入ってきていた。そして、日本からひそかに人間が送り出されていた。人買いの話である。
 象の重さをいかにして量るか。このような問いかけがなされた。『三国志魏書』に答えがのっているという。いったいどんな正解があるのか・・・。
戦後の日本で、象を乗せた列車が走って、子どもたちを大いに励ましたという話(歴史的事実です)があります。江戸時代の人は実物の象を見て、どう思ったのでしょうか・・・。
象は江戸に来たら、そのまま死ぬまで江戸にいたようすです。でも、一頭だけでしたので、子どもは生まれるはずもありません。メス象は日本に連れてこられて早々に死んでしまったのでした。ともかく、象は大喰いですから、象をタダで見せるわけにはいかなかったのです。
 先ほどの問いの答えは、象を船に乗せることによって重さを量るというものです。それ以上、詳しく知りたかったら、この本(438頁)をお読みください。
  象が江戸に向かったのは享保14年(1729年)で、寛保2年(1742年)12月、象は21歳で病死した。象の糞は、乾かされて黒焼きにされて薬として売られていた。
象と心を通いあわすことのできる少女が登場することによって、話は一段と面白くなります。また、象の挙動の意味も理解できます。ともかく、象を陸路、江戸まで連れて歩いていくという旅程で次々に起きる難事を見事にさばいていくのも痛快です。
あまり難しいことを考えたくないという気分のときに読む本として一読をおすすめします。
(2016年2月刊。2200円+税)

茅花流しの診療所

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  若倉 雅登 、 出版  青志社
 茅花は「つばな」と読みます。四国は大洲、内子町で油屋の娘としてマサノは生まれた。明治38年、マサノは尋常高等小学校を卒業して上京した。13歳のときである。寄宿舎に入って医学の勉強をはじめた。
 四国の親は月15円を仕送りしてくれたが、生活にまったく余裕はない。それでも、小学校の教師の初任給は10円から15円の時代なので、仕送り15円は大金だった。
 東京女医学校は、医師試験の合格者を輩出するようになった。明治43年にはマサノをはじめとして12人もの女医が誕生した。このときマサノは19歳、最年少だった。
 「東京日日新聞」がマサノについて「未成年の女医者」として報道した。
東京で医師として修業したあと、郷里での開業をせっつく親の願いを断り切れず、大正2年、内子に戻って開業することになった。ところが患者が来ない。ヒマをもてあましていると鉱山事務所が鉱山病院へ招いた。
鉱山病院で医師として診察活動をしていると、鉱山の毒によるのではないかと疑われる症例に直面するようになった。
鉱山病院をやめ、地元に戻り、研修のため上京した。やがて、結婚し、出産したあとマサノは腸チフスにかかってしまった。
マサノの最期の言葉は、「もはや1時間なり」だった。予言どおり、1時間に永眠した。45歳だった。
「大丈夫、心配するな、なんとかなる」、そう言い続けて、マサノは患者に寄り添い続けた。これは、記録には残らない功績である。
四国の片田舎からわずか13歳のときに上京して医学をおさめ、19歳で女医となったあと、田舎に戻って患者に寄り添う医師として活動していた事績がこまやかな筆致で描き出されていて、深く心に残りました。
著者は、私と同世代の現役の眼科医です。素晴らしい本でした。ありがとうございます。
(2016年2月刊。1400円+税)

平成28年・熊本地震

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  熊本日日新聞社 、 出版  熊日出版
 震度7の前震(4月14日)と本震(4月16日)は、本当に恐ろしいものでした。前震を本震と考え、あとは余震があるだけだろう・・・なんて「常識」を見事に覆した地震は、まさしく大災害です。
 そして、その日以来、今日まで震度1以上の地震が1800回をこえています。つい先日(6月29日)にも震度4の地震がありました。震度4でも怖いものですが、今では、妙になれたところがあり、それがかえって不気味です。
 この写真集は、その熊本地震による被害状況をくっきりうつし出しています。ドローンを使った空撮もありますので、被害のすさまじさが手にとるように伝わってきます。
 なんといっても、阿蘇大橋が完全に消失してしまった状況をとらえた写真には息を呑みます。私も何度も通ったことのある大橋がまったく姿を消してしまったのです。近くの山肌には巨大な土石流のあとを認めることができます。
 そして熊本城です。天守閣の屋根に瓦がほとんどありません。痛々しいまでの丸裸です。そして、櫓は今にも崩れ落ちてしまいそうです。市内中心部に堂々とそびえていたお城に威厳を感じられません。残念です。
 益城(ましき)町は、民家がボロボロです。これでは住めません。
 大自然の脅威のなか、住民がボランティアの力も借りながらお互いを支えあって生活している様子の写真で少し救われます。自衛隊の災害救助活動は必要だと思いますが、地震にかこつけて憲法を停止させる緊急事態条項が必要だなんて主張する与党の政治家には腹が立ちます。
 子どもたちの笑顔も紹介されています。本当は、みんな怖いんだよね。でも、みんなで支えあって乗り切るしかないんだよね。
熊本で被災した皆さんが、無理なく、がんばってほしいと願わずにはおれません。
(2016年6月刊。926円+税)

昭和史のかたち

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  保阪 正康 、 出版  岩波新書
 昭和という時代は、62年と2週間のあいだ続いた。明治は45年までですからね。
 東條英機は陸軍士学校出身の高級軍人、吉田茂は東京帝大法学部出身の外交官、
田中角栄は自らの力でのし上がっていった庶民。この三人の総理大臣の共通点は何か…。三人とも獄につながれた経験があるということ。
 東條は巣鴨プリズンに収容され、絞首刑となった。吉田は敗戦の年(1945年)4月に陸軍憲兵隊から逮捕された。目黒区の小学校の教室が牢獄代わりになっていた。田中は、戦後まもなく逮捕されたのは、一審有罪、二審無罪になったが、ロッキード事件で逮捕され、その裁判の途中で亡くなった。
なぜ特攻を、海軍兵学校や、陸軍士官学校で軍事教育を受けた軍人たちが、行わなかったのか…。
1人の軍人を育てるために、国がどれだけのお金を使うか。一般の給料が40円とか50円の時代に、軍の学校では一人1,000円とか2,000円を使っていた。そうして育てた軍人を、なんで特攻なんかで死なせることができるものか…。軍事のためにどれだけ役に立つか、それこそが戦時下における「人間の価値」であり、「値段」なのだ。つまり、軍事的な価値のない者から先に死んでいけというのが日本軍国主義の考え方なのだ。学徒兵や少年兵には、国はお金を使っていない。
軍部は天皇に対して真実を伝えないようにしていた。「統師権の独立」というのは、天皇からも「独立」していた実態がある。
 陸軍当局は、エリート意識に凝り固まって、戦争とは自分たちの面子(メンツ)を賭けた国策であるとし、そのために「天皇の名において」国民の生命と財産を恣意的に用いて戦争を続けた。戦争とは高級軍人の存在を確かめるための愚劣な政治行為でしかなかった。
 太平洋戦争が進められていた3年8ヶ月のあいだに、大本営発表は、846回あった。1941年(昭和16年)12月には、88回の発表があった。しかし、戦況が不利になっていくにつれ、虚偽、誇大、日本の被害を逆にする捏造などに、変化していき、最終的には、まったく発表せず、沈黙に逃げ込んだ。
 戦争という国策を選択したのは、議会でも国民でもなく、軍官僚とその一派だった。
 憲法上に明記されていない大本営政府連絡会議が決定し、それを御前会議が追認するという形の決定だった。
 東亜新秩序をつくるという意味は、ヒットラーや、ムッソリーニと共に世界新秩序を作る戦いであり、「東亜解放」など、露ほども目的とされていなかった。
 特攻作戦を国家のシステムとして採用した国は第二次世界大戦では日本だけ。
 天皇に戦争責任はあるか…。責任はあると考えるのは、当たり前のこと。なにより昭和天皇自身がそう考えていた。責任があるということを否定すること自体、昭和天皇に非礼なのである。
よくよく考え抜かれた新書だと思いました。
(2015年10月刊。780円+税)

フジテレビは、なぜ凋落したのか

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  吉野 嘉高 、 出版  新潮新書
 私はテレビを見ません。時間がもったいないからです。ニュース番組だって、NHKのアベやモミイにおもねる視点での解説なんて聞きたくもありません。そして、殺人事件など三面記事に出てくる殺伐とした画像で自分の目を曇らせたくはありません。ですから、フジテレビがどんな番組を放映しているのか、前と比べて今はどうなのかというのは、まったく実感のない世界です。でも、この本に紹介されている状況は分かるし、納得できますので、紹介します。
かつての王者だったころのフジテレビは、チャレンジ精神が旺盛だったようです。
1980年代にブレイクしたフジテレビは長らく放送業界のリーディング・カンパニーとして時代を先導してきた。
 ところが、今や、フジテレビは見る影もない。視聴率も営業成績も、ともに、かつてないほどの惨敗を喫し、社内の雰囲気もギスギスしている。かつてのフジテレビは、仲間意識は強いけれど、同調圧力が強いわけではなく、異才や鬼才がのびのびと能力を発揮できる雰囲気があった。ところが、「70年改革」によって、編成というテレビ局の「頭脳」と、制作という「身体」が分断され、その間に深い溝ができ、社内はギクシャクとして暗い雰囲気になった。仲間意識が希薄になり、現場の意欲が大きく減退していった。
 社長が労組を敵対視していたことから、会社全体のコミュニケーション不全が問題化していった。そして、番組制作が守りに入った。経済合理性に主眼を置いた組織改革は失敗した。視聴者に楽しんでもらうためには、制作者が自ら楽しまなければならない。つくる側が楽しんで入れば、自然にその楽しさが視聴者にも伝わっていく。
フジテレビは1997年、お台場に社屋を移転した。旧社屋にあって、新社屋にないもの。その一つが「大部屋」。熱エネルギーの発生源であり、関係者に一体感をもたらしていた「大部屋」がなくなった。
そして、成果主義の社員評価がとりいれられると、同僚が助けあう「仲間」から、争って負けるわけにはいかない「敵」に変わってしまう。社員が「勝ち組」と「負け組」にはっきり色分けされてしまった。番組制作上の上司の裁量が大きくなるのに反比例して、若手の自由度は低下していった。
このように分析されると、なんとなく分かりますよね。成果主義によって、目の前の視聴率で競争させられたりしたら、バカバカしくなってしまいます。自由にのびのびと、たまに経営者ともケンカできる。そんな雰囲気の職場こそ、良い番組がつくれるんだろうと門外漢の私も思ったことでした。
(2016年4月刊。740円+税)

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