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女騎兵の手記

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 N・A・ドゥーロワ 、 出版 新書館 
ナポレオンのロシア遠征戦争のころ、ロシア軍に従軍した騎兵の手記です。
この本を読みながら、私は前にも紹介しました『戦争は女の顔をしていない』(群像社)を思い出しました。その本をまだ読んでいない人は、ぜひ手にとって読んでみて下さい。戦争の悲惨さが惻々と伝わってくる、心をゆさぶられる忘れえない本です。その本は、ヒトラー・ドイツ軍に抗してソ連軍の一員として戦った女性兵士の話です。
この本の著者は、ナポレオン軍と戦うロシアの騎兵将校の一員として大活躍し、ロシア皇帝から勲章をさずかり、総司令官の伝令までつとめました。
ところが、なんと男装した女性騎兵だったのです。どうして女性が騎兵将校になったのか、また、なれたのか・・・。その生い立ちに理由があります。貴族の家に生まれ、幼いころから父親の影響から乗馬を得意とし、騎兵を志したのでした。ところが、それを母親は認めようとしません。女の子は刺しゅうをして、男性に従属した地位に甘んじるのが幸せだという考えです。母と娘は決定的に対立しました。娘は14歳のときに家を出て、コサック連隊にもぐり込み、ついにロシア正規軍に入るのでした。
やはり、女性でも昔から兵隊に憧れる人はいたのですね・・・。
いま、アメリカでも日本でも、女性兵士、自衛官は少なくないようです。そして、軍隊・自衛隊内のセクハラ・レイプ事件が頻発しています。人間らしさを奪われた存在は、女性を自分と同じ人間とは思わなくなってしまうのですね・・・。
ナポレオン軍は、ロシア遠征のときに家族連れだったことを初めて知りました。そして、ナポレオン軍がロシアから敗走するとき、たくさんの家族が置き去りにされたようです。そのなかで例外的に生命拾いをしてロシア人の家庭で育てられたフランス人の少女の話も登場しています。
本棚の奥にあり、気になっていた未読の本をひっぱり出して読んでみたのです。
(1990年12月刊。2000円+税)

潜水艦の戦う技術

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  山内 敏秀 、 出版  サイエンス・アイ新書
 日本が国産の潜水艦をつくっているのは私も知っていましたが、アベ政権になってから、日本がつくった潜水艦を海外へ輸出しようとしたのには驚いてしまいました。
アベ政権は、世界の戦場へ日本人の若者を送り出し、そこで殺し、殺されを企図していますが、同時に戦争で金もうけをしようと企んでいるのです。アベ首相こそ、まさしく「死の商人」と言うべき存在です。昔の帝国陸軍のときと同じように、軍需産業から大金(政治献金)をせしめるつもりなのですよね。許せません・・・。
潜水艦の内殻づくりのときには、部材のなかに応力が残らないように、ゆっくり時間をかけて慎重に曲げていく。
潜水中の潜水艦は、受ける浮力と重量が釣りあっていないと安定して海中を行動することができない。潜水艦のなかでは、日々、燃料や食料を消費する。魚雷の発射もありうる。だから、潜水艦の重量は日々刻々と変化する。
そして、海水の状態も一定ではない。冷水塊に入ったり、暖流に入ったり、また深度を変えると、浮力にも影響が出る。こまめに調整するために調整タンクがある。
潜水艦に風呂はない。シャワーがあるのみ。汚水はタンクにいったん溜めて、一杯になると艦外に排出する。このサニタリー・タンクは、トイレ、シャワー室そして調理室の近くに装備されている。
全長84メートルほどの潜水艦に70人が乗り組んでいる。艦内には、70人の男臭さだけでなく、ディーゼル・エンジンの油のにおいもあり、調理のにおいもある。
潜水艦が海中を走行しているときには、進路と速力から現在の位置を知る。進路は、ジャイロ・コンパスから、速力はログ鑑底管という速力をはかる装置から得る。
潜水艦は、ホバリングできるが、これは潜航指揮官の腕の見せどころ。
潜水艦は、海水の比重の変化を、音の速さの変化で見ている。電波は水中ですぐに減衰してしまうので、レーダーでは水中の潜水艦を探知できない。水中では音が核心的な地位を占めている。ソナーは、音を媒体とするセンサーである。潜水艦では、低周波帯域の音が活用されている。
個別の潜水艦が出す音が「音紋」として記録されている。潜水艦内では、無用の音を出さないように工夫されている。たとえば、靴は音の出にくいスニーカー。ドアは突然の開閉で「バタン」と音がないように固定しておく。冷蔵庫なども停止させる。「動いているものは必ず音を出す」ので、冷蔵庫や冷凍庫も停止させる。
潜水艦は、自ら音を出すのを嫌うのと同じく、電波を出すのも嫌う。通信は、放送によって一方的に流され、潜水艦は受信するだけというのが原則。
電波は、ある程度の深さまで届く超長波(VLF)を使っている。日本では、宮崎県えびの市にVLF送信所があり、潜水艦向けに送信している。
魚雷は長さ6メートル、直径は533ミリ。水圧発射の魚雷と、自走発射の魚雷の二つがある。また、直進魚雷と誘導魚雷がある。また、現在は、対艦ミサイルも積んでいる。
70人の乗組員が階級差別のある狭くて閉ざされた社会をつくって何ヶ月も過ごすのですから、パワハラの温床にもなるのですね。いくつかの裁判記録を読みましたが、おぞましいばかりのパワハラがあっていました(自死案件)。
潜水艦についての基礎知識を身につけることができました。
(2016年3月刊。1100円+税)

キリング・フィールドからの生還

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者  ハイン・ニョル   出版  光文社
残念ながら映画のほうは見逃してしまいました。その映画に出演したカンボジア人が、ポル・ポト政権下の大虐殺のなかを生き延びた苛酷な体験を語っています。
カンボジアをポル・ポトとクメール・ルージュが支配したのは1975年から1979年にかけてのこと。国王だったシアヌークがクメール・ルージュと統一戦線を結成し、ポル・ポト政権が誕生しました。1979年にベトナム軍が侵攻するまで、ポル・ポト政権が続いたのです。
 ポル・ポト政権はインテリを徹底的に抹殺しました。単なる追放ではなく、文字通り大量虐殺したのです。だから、医師として働いていた著者はタクシー運転手だと詐称せざるをえませんでした。
 医師だったことを知っている人が密告して危い状況に何回も陥りましたが、一度も医師だと自白しなかったことから、なんとか命拾いをすることができました。
 クメール・ルージュがプノンペン侵攻してくるとき、交際中の彼女は著者に対して「いまなら抜け出せる」と誘ったのですが、たかをくくっていた著者は、その誘いを一蹴してしまったのです。
これは、ナチス・ドイツに全面支配される前に逃げ出そうとしなかったユダヤ人同士の会話とまるで同じです。昨日と同じ平和な生活が明日も約束されているという危想にとらわれていたのでした。平和はたたかってこそ守れるものなんですよね・・・。
逃げ遅れてポル・ポト派に捕まった著者たちは、農村へ追いやられ、そこで食うや食わずの極貧生活のなかで重労働を強いられます。生活の隅々まで、若い連中から見張られ、スパイされるという息苦しい生活が続いていきます。
 クメール・ルージュが農民に配給するのは、一日おきにエバミルクの空缶一杯のお米だけ。空腹を満たすため、野原で食べものを探す。野ネズミ、赤アリ。赤アリはスープに入れて歯触りを楽しみ、タンパク資源とする。アリの卵も料理につかう。このほか、トカゲ、タケノコ、セイヨウヒルガオ、その他の野菜をとって食べる。
 住民が健康を害していた最大の原因は、栄養失調にあった。身体の抵抗力が弱っているなかで汚い水をのんで赤痢にかかる人も多い。
 クメール・ルージュには少年兵が多い。少年たちは、まだ年端もいかないうちにスパイになり、10歳で兵士になる。
 ことのはじまりは、カンボジアを植民地支配していたフランスがカンボジア人に独立の根を植えつけてくれなかったこと。フランスは自国を統治するのに必要な教育程度の高い実力のある中産階級をつくり出してくれなかった。アメリカは、1970年にカンボジアが中道から右極化する後押しをしたため、そのせいで政治的は不均衡が始まった。そして、ロン・ノルが政権を取ったとき、アメリカはロン・ノルに腐敗政治をやめさせることが出来たし、、自らの爆撃を中止することも出来たが、そうしなかった。その誤りに気がついたときには、もう遅かった。
 アメリカの爆撃とロン・ノルの腐敗政治がカンボジアの右極化に拍車をかけた。
 コミュニストの側についた中国がクメール・ルージュに武器とイデオロギーを与えた。
 ベトナムのコミュニストは自国の利益を第一にした。そして言いたくはないが、カンボジアを崩壊に導いた一番の責任はカンボジア自身にある。ポル・ポトもロン・ソルもシアヌークも、みなカンボジア人なのだ。
カンボジア人は、面子を大事にする。カンボジア人は英語を学びたがらない。しぶしぶ覚えた単語も使おうとしない。用のないかぎり、白人とは口をきかない。
新生カンボジアの発展を祈ります。この本は1990年に発行されたものです。本棚の隅にあったのを引っぱり出してきて読みました。
(1990年5月刊。1700円+税)

灰色の狼、ムスタファ・ケマル

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ブノアメシャン   出版  筑摩書房
 トルコの国は、いま大きく揺らいでいるようです。クーデター騒ぎのあと、強権的政治が強まり、EU加盟の条件として廃止された死刑が復活するかもしれないとも報道されています。
 この本は、オスマン・トルコ帝国のあと、苦難の道をたどったトルコの「救世主」と言われているケマル・パシャの一生をたどっています。
 ムスタファ・ケマルが登場したのは、没落がその最低点に達し、オスマン・トルコの最後の足跡が世界地図から抹殺されようとしていたときである。
 トルコのムスタファ・ケマルとサウジアラビアのイワン・サウドは、誕生日がわずか数週間ちがうだけの同世代である。
 ムスタファ・ケマルと呼ぶときのケマルというのは、「満点」を意味する。それだけ優秀な成績をとっていたということ。士官学校の校長は次のようにコメントした。
 「気むずかしく、非常に資質に恵まれた性格の青年。しかし、この性格では、他人と深い交りを、結ぶことは不可能である」
 1905年、ケマル中尉は、陸軍大尉の肩書で陸軍大学を卒業した。24歳のときのこと。
 ムスタファ・ケマルはコーランに基礎を置く司法組織を忌み嫌った。それは邪悪にみち、愚劣きわまる掟という掟をこの世にのさばらしているから。
 1921年8月、トルコ軍はギリシャ軍に攻めたてられた。サカリアの作戦である。両軍は死闘を展開した。最後にトルコ軍が勝利したのは、ムスタファ・ケマルの強力な個性による。彼がそこにいるということで、兵士たちは振い立った。
 ムスタファ・ケマルの意思は、兵士たちに歯を食いしばり、石にしがみつき、ひとかけらの土地も渡すまいとして抵抗する勇気を与えた。
 トルコ軍がついに勝利したあと、トルコ議会はムスタファ・ケマルに対して、「ガージ」つまり「キリスト教徒の破壊者」の称号を授けた。これはイスラム教徒に与えうる最高の栄誉にみちた称号である。
 ムスタファ・ケマルは、民族主義者であるという枠内で、卓絶した反帝国主義者だった。
 戦争に勝利したあと、戦いは軍事面から政治面へ移った。
 1923年10月、トルコは共和国が宣言され、ムスタファ・ケマルは初代大統領となった。
 「独立した、団結した、同質のトルコ国民」。これがムスタファ・ケマルの目指した目標だった。国民の同質性を脅かしていたのは、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人という三種の住民集団だった。
 クルド人の虐殺、アルメニア人の絶滅、ギリシャ人の追放は、ムスタファ・ケマルの生涯において、光栄あるものではなかった。
 ムスタファ・ケマルは、こう言った。
 「血は流れた。それは必要なことだった。諸君、革命は流血のなかで、築かなければならない。血のなかにに築かれない革命など、決して長続きはしない」
 ケマル・パシャは独裁者として、自らに反抗する人々を多く死に追いやったようです。同時に、新生トルコのために大変革に取り組んでいます。農業改革、教育改革、女性の解放などなどです。
 ムスタファ・ケマルは、1938年に57歳で亡くなりました。
 新生トルコの再生を閉ざした英雄の光と影を知ることのできる本です。
 四半世紀前に書かれた本ですが、トルコという国の歴史を知ることができました。
(1990年12月刊。2470円+税)

ゲルダ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  イルメ・シャーバー   出版  祥伝社
 解説を沢木耕太郎が書いていますので、キャパの撮ったとされている例の有名な写真「崩れ落ちる兵士」に至る状況もよく理解できます。その意味では、『キャパの十字架』(文芸春秋)を先に読んでおいたほうがいいと思います。
 この本は、この有名な写真をとったのはキャパではなく、パートナーだったフランス人女性、ゲルダ・タローだとし、その一生を明らかにしています。
 ゲルダ・タローの本名はゲルダ・ポホリレ。オーストリア西部のユダヤ人の娘としてドイツで生まれた。そして、コミュニスト(党員)ではなかったが、そのシンパとして、行動をともにしていた。だから、ゲルダは、女性であり、コミュニストであり、ユダヤ人であるというマイナス三要素をもつ存在だった。そのせいか、ゲルダはキャパの名声の影に埋もれてしまった。
 若く美しく、27歳になる寸前に、スペイン内戦を取材中、戦闘の混乱状況から味方の戦車にひかれて死亡した。
 ユダヤ人であるゲルダの家族はホロコーストによって全滅している。両親や兄弟がどこで亡くなったのかという記録すらない。
 ヒトラーが政情を握った1933年当時のドイツの状況が次のように描写されています。
 「誰かが怯(おび)えると、しだいに皆が怯えるようになった。災難がふりかかるのは自分なのか、それともあの人なのか・・・。社会主義者が知人にいる、親戚が共産主義者だ。そんな理由で、人々は次は自分も何らかの責任を問われるのではないかと思い始めた。そんな不安は新たな状況を生み出した。そのような状況下では、政治的な活動によって自分の存在を示さなくてはいけない・・・。」
 ゲルダはフランスに逃れることが出来た。率直で人なつっこいゲルダの性格は、最大の長所だった。ゲルダは両親に周囲から信頼される人間になるように育てられた。
 ゲルダは子ども時代から、大人の中で定位置を見つけ、自己主張を身につけなくてはならない環境にいた。そこでは自身や適応力が必要とされ、自分は誰と与(くみ)すればよいのかという判断力や、繊細な感受性が表れた。
ゲルダとキャパは、パリで日本人のジャーナリスト(川添浩史、井上清一)や岡本太郎(タロー)と面識があったようです。ゲルダ・タローのタローは岡本太郎に由来するようなのです。
 戦場で、いい写真をとるため、キャパもゲルダも、かなりの無茶をしたようです。
「きみがいい写真を撮れないのは、十分に近づいていないからだ」
これはキャパの言葉です。
 戦争(戦場)写真を撮るには、かなりの無謀さが求められるのです。
 キャパも戦争写真家として世界的に有名になりましたが、1954年5月、ベトナムで地雷に触れて亡くなりました。
 ゲルダ・タローは、戦場ではかなり無謀な行動をとっていたようですが、それも、いい写真を撮りたかったからなのでしょう。
 27歳の誕生日の寸前に事故死してしまい、ずっとキャパの名声に隠れてきましたが、こうやって少しずつ再評価されるのは、うれしいことです。美人であり、愛想もよかったゲルダは自由奔放に生きた女性でもあったことを知り、より一層の親近感を与えました。
(2016年6月刊。1300円+税)

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