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韓国は日本をどう見ているか

カテゴリー:韓国

(霧山昴)
著者 金 暻和 、 出版 平凡社新書
 韓国の尹(ユン)大統領が突如として戒厳令を発布したのには驚かされました。
 国民の支持率が20%以下と人気が低迷し、国会は野党が多数を占めているなかでの戒厳令です。国会の多数派(野党)を北朝鮮と同視しても、そんなことを韓国民が同調するはずもありませんよね。
 私が韓国民は偉いと前から思っていることは、韓国の人々は怒りを行動に表わすことです。前に占い女の言うままだった朴クネ大統領を引きずりおろしたのもロウソク革命と呼ばれるほどの民衆の大衆行動でした。日本人は、どうして怒りを行動にあらわさないのでしょうか。いつもヤキモキさせられます。兵庫県知事選挙では多くの県民がデマ宣伝に乗せられて街頭行動していましたが、そんなことじゃダメでしょ、と叫びたい気分です。
日本社会は全般的に右傾化している。まあ、そう言われても仕方ありませんよね。立憲民主党は、今、維新の会と一緒になろうとしています。とんでもありませんよね。維新の会って、「第二自民党」だと自ら公言している党なのに…。
 日本の若者は、権威に服従し、治安を重視する性向が顕著に現れている。
 なぜ、日本人は、無能で傲慢な権力を黙認するのか…。いやまさしく、私にも不思議でなりません。
 韓国では、学生運動の主人公たちが大挙して政界に進出したが、日本では、ごく少数にとどまっている。日本では、菅直人とかいましたが、ホント、少ないですね。あまり思いつきません。私の同世代では、誰かいたっけかな…。
日本の政治家の3分の1は世襲政治家。
 韓国と日本は、どちらもDECD加盟国のなかで、男女の賃金格差が非常に大きい国。
 日本の若者は消費に消極的。車離れ、アルコール離れ、海外旅行離れ…。実用的で、あっさりした消費を好んでいる。
ひきこもりの中高年が120万人以上存在している。日本社会が長期不況のなかで、ひきこもり問題が大きくなった。
 「9060問題」とは、90代の親が60代のひきこもりの我が子の面倒をみなくてはいけない状況にあること。
日本の地下鉄やバスなどの中は、図書館のように静か。たしかに、アナウンス放送が最大の騒音ですよね。これは、他人に迷惑をかけてはならないという意識による。
 韓国では買い物の支払いの9割はカード。日本は、電子マネーが増えているけれど、現金で支払う人のほうが、まだまだ多い。まあ、若い人の多くはカード決済になっていますけどね…。私は現金支払い派です。いつ、どこで、何を買ったか、なんて情報を誰にも知られたくはありませんからね。いつ、どこにいたなんてことも知られるのは嫌です。
 ただ、選挙のとき、候補者の名前を手で書くという投票方法はやめたほうがいいと私も思います。電子投票に切り換えるべきでしょう。
日本は65歳以上の高齢者の割合が3分の1以上に迫っている。
 社会全体に、年齢や専門性を高く評価する雰囲気がある。ええっ、韓国にもあるでしょ…?
 韓国の大御所たちは、早々に前線から退いて「老害」「不用品」になってしまう。ええっ、ホントですか…?
 韓国の氏姓は、300個。日本だと1万個以上の名字が実際に使われている。
 日本では毎年8万人が養子縁組で名字を変えている。そのほとんどが成人男性。
 似ているようで似ていない日本と韓国の違いを改めて知りました。大変興味深い内容の新書です。
(2024年9月刊。1100円+税)

沖縄県知事・島田叡と沖縄戦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 川満 彰 ・ 林 博史 、 出版 沖縄タイムス社
 1945年、日本敗戦の直前、沖縄では本土の捨て石とされて、日本軍がアメリカ軍と死闘を展開していました。そのとき、沖縄県知事と警察部長は沖縄県民を必死で守ろうとしていたという「美談」がほぼ定着しています。でも果たして、「美談」は本当に成り立つものなのか、冷静に分析した本です。これまで、つくられた「美談」に乗せられていた私は大いに反省させられました。
 沖縄戦当時の県知事・島田叡と県の警察部長・荒井退造は、2人とも内務省から任命された官選の知事であり、警察部長だった。
この本では、2人とも特高警察の幹部だったという経歴も明らかにしています。昭和の特高は小林多喜二をはじめとして、多くの罪なき人々を拷問にかけ殺し、また精神的に追い詰め変調をきたした人々を数多く生み出した官許の犯罪者集団でもあります。
 島田叡と荒井退造が沖縄の苛酷な戦場において、人間味を失わず、勇猛果敢に住民を保護したとして英雄視される「物語」は、沖縄戦の実相を知らない人々に誤った沖縄戦後を植え付けるものだ。人々が戦争の本質を見えなくなったとき、再び戦争は歩みよる。著者たちは、このように警告しています。
沖縄戦で亡くなった人は少なくとも20万人。沖縄県民が13万人近くいる。
 沖縄戦は日本軍(第32軍)が地上戦で持久戦を遂行したことから、住民はさまざまな戦場で、さまざまな戦没のありようで犠牲となった。
「集団自決」は、日本軍による強制された集団死だった。
 当時の沖縄の人口は60万人。食糧は3ヶ月分しかなかった。住民の一般疎開は、軍隊のための食糧確保が目的だった。8月22日、学童や一般人を九州に疎開するため航行中の対馬丸がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、1484人が亡くなった。
 日本政府は沖縄県民10万人を県外へ疎開させるという方針を立てた。これに対して、当時の県知事らは反対していた。
大阪府内政部長だった島田叡が沖縄県知事として着任したのは1945年1月末のこと。
 このころ沖縄県民を北部へ疎開させようとしていたが、これは戦えない住民の棄民政策(北部に十分な食糧は確保されていなかった)、また戦場に残された「可動力ある」住民は、「根こそぎ動員」の対象者だった。
 荒井警察部長は、アメリカ軍が沖縄に上陸したあと、沖縄の人々がアメリカ軍の捕虜となって日本軍の動向をスパイすることを恐れていた。島田知事も荒井警察部長も二人とも、住民が捕虜となってアメリカ軍に機密情報を漏らすことを恐れていた。そのため、島田知事は、アメリカ軍に対する敵意と恐怖心をあおった。そして、国民義勇隊なるものを創設して、アメリカ軍と戦わせようとした。これは、男女を問わず、50歳以下の人は全員招集させられ、前線での弾薬運びなどに使役させられるものであった。
 島田県知事と荒井警察部長は日本軍の要請に応じて県民(この時点では避難民)を戦場に駆り出し続けていた。島田県知事も荒井警察部長も、捕虜になって生きのびることは認めず、アメリカ軍への恐怖心を煽り、竹槍でも鎌でも、何でも武器にして最後まで戦うことを求めた。この二人は、「恥ずかしくない死に方」を一般県民に指導した。その責任を不問に付してはならない。
島田叡の経歴は、1925年から1945年までの20年間のうち15年間は警察官僚だった。
 荒井退造は、東京の警察署長を歴任したあと、満州でも警察の幹部となって、日本に戻ってからは特高警察の幹部であった。この経歴から、当然、二人とも、見図史観、「団体護持」思想を受け入れていたと思われる。
 島田知事の人柄は良かったようだが、そこからは沖縄戦の実相は見えてこない。
 沖縄戦において、アメリカ軍が上陸したあと、県民の生命を本気で守る気があったのなら、戦場への県民駆り出しなどやるべきではなかったし、アメリカ軍への恐怖心を煽って、最後まで戦えと指示することなんてするべきではなかった。そうではなく、アメリカ軍は民間人を殺さないから安心して捕まるべきで、それは恥ではないと、もっと早くから呼びかけるべきだったとしています。
 なるほど、まったくもって、ごもっともです。いやあ、目の覚める思いのする大変刺激的な本でした。
(2024年4月刊。1650円)

それでも、私は憎まない

カテゴリー:中近東

(霧山昴)
著者 イゼルディン・アブエライシュ 、 出版 亜紀書房
 イスラエル軍の砲撃で自宅に一緒にいた3人の娘を失ったガザの医師は、こう言った。
 「私の娘たちが、最後の犠牲者になりますように…」
 イゼルディン・アブエライシュはパレスチナ人で、ガザ地区の難民キャンプで生まれ育ち、エジプトの大学を出て医師になった。
ガザに住みながら、産婦人科医としてイスラエルの病院で働いていた。
2009年1月16日、イスラエル軍のガザへの砲撃のとき、自宅も狙われ、3人の娘と姪を失った。
 今は、カナダのトロント大学の准教授として働いている。
 砲撃を受けるときは、家族全員が一度に死ぬことがないように、子どものうち何人かはこっちの壁に、残りはあっちの壁に分かれて、全員ガーフの部屋で寝る。そして、一つの壁が砲撃された。
人には怒る能力が必要だ。しかし、イゼルディンは、常に焦点を絞った形で怒り、決して怒りを広げたり、怒りで我を忘れたり、怒りのせいで目指すべき方向からそれたりしない。
ガザ地区360平方キロメートルの土地に人口150万人がぎゅうぎゅうに押し込められている。ここでは、食べていけない。普通の生活が送れない。その結果、過激思想が台頭する。絶え間ない苦しみに直面したとき、報復を求めるのは人の常だ。
 ガザでは人口の半数以上が18歳以下。
 テロにテロで、暴力に暴力で対抗しても何も解決しない。
パレスチナ人の子どもの大半にとって、本当の意味での子ども時代はなかったし、ない。
イスラエル人とパレスチナ人との間に大きな分断がある。この分断に橋を架ける作業で重要なことは、今日のパレスチナ人の生活の実情、真実を認めること。
現状を打破する一つの方法は女性の力を借りること。健康的な社会は教育を受けた聡明な女性を必要とする。
ガザ地区で見られる住民の怒りと暴力は、まったく予想不可能だ。このような状況では、暴力や怒りは、ないほうが異常だ。
 読み進めるのが気が重くなるほどですが、勇気ある医師の告発書として読み通しました。
(2024年11月刊。1900円+税)

あした出会える昆虫

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 森上 信夫 、 出版 山と渓谷社
 庭に来る昆虫が少なくなった気がします。なにより残念なのは、フジバカマの群生をつくって、アサギマダラ(蝶)を迎えようとしているのに、今年も来てくれなかったことです。それでも、いつかきっと来てくれるはず、来年こそはと思ってフジバカマをせっせと育て、増やしています。
 ときどきクロアゲハやアゲハチョウがやってきてくれます。キアゲハやアオスジアゲハも見かけたことはありますが、ジャコウアゲハは見たことがありません。クロアゲハは地面で吸水するのは、すべてオスだそうです。不思議ですね。メスはどこで水を飲んでいるのでしょうか…。
 アオスジアゲハはクスノキと花壇があれば、都市のなかでも育つそうです。同じく、ツマグロヒョウモンも花壇を利用して増えているそうです。
モンシロチョウは、日本の春の公式アンバサダーとされています。幼虫はキャベツの害虫です。昔、私も庭でキャベツを育てたことがあります。春になると、毎朝、割りバシをもってキャベツの葉、裏側まで青虫を探してつまみ出していましたが、ついにかないませんでした。毎朝とっても、必ず翌朝は青虫がいて、どんどんキャベツがかじられてしまうのです。いやあ、キャベツは農薬をふんだんに使うことがよく分かりました。
テントウムシは、わが家の庭にはなぜかあまり見かけません。日本には190種のテントウムシがいるそうです。肉食、草食、菌食など、いろんなものを食べています。ナミテントウは、アブラムシを食べます。驚いたのはその色彩の多様性です。赤地に黒い斑紋、黒地に赤い斑紋という基本ルールの中で、あらゆるパターンがあるのです。同一種だとは思えないほど色とりどりです。
 子どものころ、オニヤンマやギンヤンマを捕まえるのは夢でしたね。ほとんど捕まらないのです。ギンヤンマは、腰のあたりに白い部分があり、そこがほんのり光って銀色に見える。
 オニヤンマは日本最大のトンボで、体長10センチをこえるものがいる。育ち切るまでに3~4年かかる。トンボって、長生きするんですね。
わが家の庭には、モグラ、ヘビ、ダンゴムシそしてアリがいます。小さいアリが台所にまで侵入してきたことが何度もあります。
 大きくて黒いクロオオアリも見かけます。それより少し小さくてグレーなのはクロヤマアリ。サムライアリは見かけません。
空を見上げると、とんでもないところにクモの巣がかかっています。5メートルほども離れた木を結んでクモが巣をつくっているのには驚かされます。コガネグモ、ジョロウグモがいます。でも、クモは昆虫ではないそうです。昆虫は6本脚。クモは8本脚。この違いは大きいようです。
今年の夏はあまりの暑さに、セミがあまり鳴きませんでした。我が家にいるのはアブラゼミがほとんどで、お盆過ぎたら、パッタリ鳴かなくなりました。ニイニイゼミ、そしてヒグラシやツクツクボウシにも鳴いてほしいのですが、クマゼミもふくめて来てくれません。
今年は、アメリカ・シカゴで11年ゼミと17年ゼミが同時発生して、街中セミだらけになったようですね。テレビの『ダーウィンが来た』で紹介していました。
写真がたくさんあって、楽しい小型の昆虫図鑑になっています。
(2024年8月刊。1760円+税)

ウォークマン、かく戦えり

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 黒木 靖夫 、 出版 ちくま文庫
 今ではソニーって、あまりパッとしない会社になってしまいました(今もありますかね…)が、かつてのソニーは、それこそ飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがありました。そんなソニーの商品の一つが世界の話題を集めたウォークマンです。それまでのカセット・レコーダーと違い、録音できず、再生するだけの小型・ポケットタイプのものです。爆発的な人気を集めました。
 ウォークマンの原型ができたのは1978(昭和53)年11月のこと。売り出すとき、事業部は5万円にするというのを盛田昭夫会長は3万3千円にしろと注文した。ところが、今度は販売部門から反対の声が上がった。「録音もできない機械が売れるはずはない」という。
 そこで、売れるかどうか、中学・高校そして大学生を100人集めて視聴させた。すると、いける反応が出た。それで、2万台を売り出して市場の様子をみてみようということになった。
 さて、名前をどうするか…。はじめウォーキィ・ウォッチという案があったけれど、すでに登録されていてダメ。そこで、ウォークマンになった。しかし、これは英語ではない。ウォーキングマンにしたらどうか。いや、それは名前として長すぎる。
 そして、ついに1979年6月、ウォークマンが発売された。すると、人々は争って買い求めた。全国一斉といっても、実は、東京、大阪、名古屋だけで、7月1日から売りに出したが、反応が鈍い。ところが、8月に入ると急に売れだした。口コミと雑誌が紹介記事を書いたことによる。
小柳ルミ子そして西城秀樹が「明星」などでウォークマンとともにグラビアで紹介されると、品切れ店が続出した。そうすると、品切れ店続出が話題になって、みんなが買いたいという気になる。
ソニーは増産に次ぐ増産。そして、二代目のウォークマンが売り出されたのは1981(昭和56)年2月。ヘッドフォンが28グラムという驚異的軽さのものになった。
 1986年9月、ソニー・アメリカはアメリカで1000万台のウォークマンが売れたと発表した。1986年11月、ソニー本社は、2500万台のウォークマンが売れたと発表。1日1万台も売れたという、とんでもないヒット商品になった。
 1987年の1年間で、ソニーは850万台のウォークマンを生産、月産70万台になる。
 私ももちろんウォークマンを購入し、聴いていました。といっても、あまり音楽を聴く習慣はありませんので、フランス語の勉強を兼ねてシャンソンを聴いていました。私のお気に入りはパトリシア・カースです。フランス語の先生にそう言ったら、おっ、渋い趣味だなと驚かれてしまいました。今は、もちろんスマホ全盛時代です。スマホでは日本は遅れをとっているようですね、残念です。日本の技術力は、今のように大企業のなかも非正規社員ばかりだと伸びないということでもあるのでしょうね。同じ課で懇親会をしようとしても、非正規(パート、派遣など)がいろいろいて、出来ずに、結局、意思疎通が難しくなっていると聞きます。大企業の経営者が近視眼症状になっているようです。もっと若者を大切にしないと、日本の明日はありません。
(1990年2月刊。500円)

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