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商売は地域とともに

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 NPO法人神田学会 、 出版  東京堂出版
神田百年企業の足跡、というサブタイトルのついた本です。
私は神田の古本屋街を年に何回かは歩いています。送られてくる古書のカタログも楽しみの一つです。
そんな神田には創業100年をこす社会や商店がいくつもあるというのです。どんな会社なのか、100年も生き残れる秘訣は何なのか、それを知りたくて読んでみました。
冒頭に、世界最古企業ベスト10が紹介されていて、あっと驚きます。なんとなんと、ベスト10のうち7社までが日本の起業であり、トップからベスト6位まで全部が日本の企業なのです。これって、信じられますか・・・。トップ(1位)は、あの社寺建築の奈良の金鋼組です。2、3、4位は、旅館なのです。2位は山梨の西山温泉慶雲館。ギネスが認定する世界最古の旅館だそうです。3位は兵庫県城崎温泉の「古まん」という旅館、4位は、石川県粟津温泉の法師旅館です。す、すごいですね。そんな古い、古い、伝統ある旅館が連綿と生き続けているとは・・・。
ものづくりの企業が日本には多いから老舗企業が多いとのこと。サービスを売る商業組織では、中世にまでさかのぼるのはまず存在しない。
神田は、日本橋に次いで老舗が多い。創業100年をこえる老舗が神田には170軒もある。もっとも古いのは慶長元年(1596年)創業の酒店、豊島屋本店。白酒の製造販売で有名なこの店は関ヶ原の戦い(1600年)より前の創業なのです。つまりは、江戸時代より前からということになります。そして、宇津救命丸も慶長2年(1597年)です。はじめは、下野(しもつけ)の国でしたが、江戸に出てきて、神田の地に根をおろしました。
現在の神田は「住むまち」ではなくなりつつある。その象徴が浴場の減少。今は3店のみ。理容室、美容室、クリーニング店も神田から少なくなりつつある。
神田っ子の特徴は、見栄とやせ我慢。なるほど、江戸っ子ですね・・・。
神田に中華料理店が多いのは、中国から日本へやって来た留学生が多かったことによる。明治37年には日本への留学生は1000人をこえ、明治後期には5万人もの留学生が日本にいた。
揚子江菜館の五目涼拌麺(ごもくひやしそば)が写真つきで紹介されています。ぜひ食べてみたいです。ぬきすし総本店の笹巻鮨は美味しそうですね。いちど食べてみましょう。
神田の古書街には160軒以上の古書店があり、世界最大。そこで売られている本は1千万冊だといいます。
ちなみに、私の東京の定宿の一つは山の上ホテルです。すぐ近くのイタリアン・レストランが美味しくて、最近の行きつけの店です。
神田の歴史の一端を知ることが出来ました。
(2017年5月刊。2800円+税)

日中戦争全史(上)

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版  高文研
日本が戦前に中国大陸で何をしたのか、日本人は忘れてはならないことだと思います。
私の父も中国戦線にかり出され、病気のため内地送還になって終戦を迎えて私が生まれました。その父が中国大陸で何をしていたのか、改めて考えさせられました。
日中戦争は、徴兵制によって召集された日本の成年男子が中国戦場に駆り出され、中国の軍民を大量殺害した侵略戦争であった。日本国内では人に危害を与えたこともない善良な市民であった日本兵を中国戦場においては殺人者に仕立てる巧妙な日本軍隊の仕組みがあった。
いったい、どんな巧妙な仕掛けがあったというのでしょうか・・・。
戦争とは、国家あるいは民族の名において、敵とみなした相手国の兵士さらには民衆を殺害する、それも大規模、大量に殺害すること。ところが、日本人の多くには、戦争とは、人を殺すこと、それも大量殺人をする行為であるという認識や想像力が欠けている。そのため、膨大な日本軍が中国大陸において長期にわたって膨大な中国兵と民衆を殺害した戦争であったという本質を知らないでいる。
その根本的な理由は、日中戦争の戦場は、すべて中国であり、日本兵が中国兵や民衆を殺害する場面を目撃していないことによる。また、中国戦線から帰還した日本兵の多くが日本国内において中国大陸で自らのした殺害体験を語らなかったことによる。
それは、フランスやドイツのように国民が身近に殺し、殺される現場を目撃したのとは決定的に異なっています。
日本兵の新兵教育では、「刺突訓練」と呼ばれた、無抵抗な捕虜や民間人の両手をしばって杭にしばりつけ、それを三八式歩兵銃の銃剣で刺殺させた。この刺突を拒否した新兵はどうなるか。すさまじいリンチにあう。上官から、また新兵仲間からリンチの連続であった。ほぼ100%の兵士が目をつぶって最初の殺人を体験した。
私の父も病気になる前には前線で戦ったことがあり、「戦争ちゃ、えすかばい」と私に語ってくれました。「えすか」(怖い)というのは、自らも「刺突」したことも含んでいたんじゃないかと今になって私は思います。
朝鮮人を「鮮人」「チョン」と呼び、中国人を「シナ人」「チャン」などと蔑称して見下す差別・蔑視意識が日本の朝鮮植民地支配と、中国侵略戦争に加担していく日本人の国民意識を助長していた。
ひところ「バカチョン」カメラと言っていたことがありました。これも差別語を前提していたことを知ってから使われなくなりました。「ジャップ」と同じですよね。
映画「猿の惑星」の「猿」は日本人をイメージしているというのを聞いて、差別意識は諸国に普遍的に存在していることを知りました。それでもダメなものはダメなのです。
張作霖爆殺事件が起きたのは1928年(昭和3年)6月4日のこと。日本軍による謀略作戦であることは、当初から明らかだった。これを知った27歳の昭和天皇は怒って首相の田中義一に辞表を出せと迫った。そのショックから田中義一は辞職して2ヶ月後には狭心症で死んだ。
同じ1928年に治安維持法が強化され、日本は戦争「前史」から戦争「前夜」に転換した。捕虜の待遇に関するジュネーブ条約を日本は調印したものの、軍部の反対にあって批准しなかった。日本の軍部が反対したのは、日本軍兵士が捕虜は保護されることを知ったら、すすんで投降して捕虜になるのではないかと心配したからだった。
「捕虜をつくるな」という作戦方針は、日本兵の自決・玉砕となって捕虜となるなということの反面で、投降した中国人軍将兵を虐殺することになった。これこそ天皇の軍隊の一枚のコインの両面である。
南京戦に至る日本軍は補給を無視した強行軍を余儀なくされていた。
日本軍は現地調達主義をとった。その現実は、通過する地域の住民から食糧を奪って食べることであった。これは、戦時国際法に違反した略奪行為だった。
上巻だけで300頁あまりある大部な本ですが、日本人が、戦前、何をしていたのかを直視するための絶好のテキストだと思いました。
この本は、戦前の実際を知るうえで必須不可欠だと思います。とりわけ若い皆さんに一読を強く強くおすすめします。
(2017年7月刊。2300円+税)

モンゴル帝国誕生

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 白石 典之 、 出版  講談社選書メチエ
チンギス・カンの実像を垣間見た思いのする本です。
なにしろ、チンギス・カンの宮殿跡が発掘され、その遺跡からチンギス・カンの国のなり立を推測しているので、具体的根拠があります。なかでも私が注目したのは、鉄との結びつきと気候変動の点です。
チンギス・カンの宮殿は、大草原の大天幕というのではなく、鉄と骨角でつくられた武器を用い、土とレンガでつくられた家に住む、そんな暮らしぶりだった。
チンギス・カンの生まれた年は1154年、1155年、1162年、1167年と定まっていない。没年は1227年と確定しているが、死因や死んだ場所には不明なところが多々ある。
チンギス・カンの「カン」は王という意味。息子で第二代君主からは「カアン」と名乗った。これは唯一無二の君主という意味で、皇帝にあたる。ではなぜチンギス・カンは、カアンを名乗らなかったのか・・・。
モンゴルに逆らわなければ、信教の自由と自治を認めた寛容さは、抵抗すれば容赦なく殺戮するという残虐さの裏返しでもあった。
アウラガ遺跡には、チンギスの宮殿、その死後に霊を祀った廟、武器をつくった工房跡が見つかった。
天幕の大きさは、とても100人入れないくらい。基礎に掘立柱と日干しレンガを使った質素な構造だった。鍛冶だけに特化した鉄工房も見つかった。
貴族の墓の副葬品には、馬具一式のほかは、鉄製武器、金メッキの青銅帯金具と銀椀が出土するくらいだ。
モンゴル高原は、際だって気候の厳しい地域だ。夏は最高40度、冬にはマイナス40度まで下がる。なんと、80度も上下する。
草原は意外にデリケートで、夏季の気温が1度上下しただけで、草の生育に大きな影響が出る。それが2度も上下すると、遊牧にダメージを与える。
樹木の年輪を利用してチンギスの時代の気候を探ると、やや温暖で湿潤な時期だった。
アウラガ遺跡の周辺では、農耕もおこなわれていた。そして、アウラガ遺跡の食物残渣からは、サケ科やコイ科の魚骨が少なからず出土した。チンギスのころは魚を食べない仏教が普及しておらず、魚をふつうに食べていたのだ。
モンゴル高原に暮らす人々の馬への愛着は強く深い。モンゴルでは3600万頭の家畜が飼育されているが、その6%の200万頭が馬だ。
モンゴルの男子は15歳になると、兵士として戦争にかり出された。歩兵ではなく、騎兵だ。チンギスの騎馬軍団の主力は、モウコ種、小柄の馬が中心だった。モウコ種は、体高が低いため、乗りやすく安定もいい。持久力にも優れている。耐塞性があって、餌の少ない状況に耐え抜く能力をもっている。大草原では、平時でも戦時でも、長距離移動が欠かせないので、このモウコ種が適役だ。
オルズ川の戦いの勝利で、「金」側の部将として頭角をあらわしたチンギスは、鉄資源の入手に大きな関心をはらった。チンギスが親金派に寝返り、そのうえ、ジュルキンからバヤン・オラーンを奪ったのは、「金」の鉄資源を手に入れ、それを大量に運ぶ交通路の確保のためだった。チンギスにとって、鉄は国づくりの基本だった。
鉄は鉄鉱石ではなく、製錬を経た加工しやすいインゴットとして運んだ。
小型で、軽量のインゴットをモンゴルの鉄器生産に導入したのは、チンギスのオリジナル。インゴットと簡便な鍛冶道具を携えると、戦いの前線でも武器の製作や防具の修繕が可能だった。これにより臨機応変で、機動・可動的な鉄生産が可能になった。チンギス当時の軍隊の進軍スピードは、1日20キロメートルほどだった。
こんなふうにチンギス・カンの時代の具体的な状況を紹介されると、イメージが一新されますよね。
厳しい気候のモンゴル現地に著者は何ヶ月間も滞在したこともあるそうですが、その労苦が、こうやって本にまとまり、居ながらにしてチンギス・カンのことを教えていただけるというのは、まことにありがたいことです。
(2017年7月刊。1650円+税)

象徴天皇制の成立

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 茶谷 誠一 、 出版  NHKブックス
今の天皇は象徴天皇制をまさしく慎み深く実践していると思いますが、昭和天皇は戦前の延長線上の考えを最後まで捨て切れなかったようです。
昭和天皇は首相や大臣から内奏(ないそう)と称する政治報告を受け、感想と称して自分の考えを述べ、政治への影響力を保持しようとしていたのでした。驚くべき事実です。
昭和天皇は、「立憲君主」としての自覚のもと、安全保障問題と治安問題に対して関心を示し続け、積極的な姿勢をとっていく。昭和天皇の安保と治安への関心は、反共主義(対ソ脅威論)にもとづく政治信条に由来していた。
昭和天皇は、象徴天皇を実質的な国家元首として認識していたようだ。
昭和天皇は、憲法施行後も、首相や外相などの主要閣僚に対して必要に応じて政務報告を求めた。内奏は、大臣から相談を受ける権利にあたる。天皇からの指摘を受けて再考を迫られることがあった。激励する権利、警告を発する権利をも行使していた。
戦前・戦後の国家指導者層のなかには、天皇制の存続(皇統の維持)と昭和天皇の戦争責任問題を切り離し、前者を後者に優先させる者たちもいた。東久邇宮、高松宮、三笠宮らの皇族や重臣の近衛も天皇制の存続を最優先事項とし、場合によっては昭和天皇を退位させて戦争責任を一身に負ってもらい、皇統の維持をはかるという案を考慮していた。
これに対して昭和天皇は、幼い息子を天皇にしたときに摂政となるべき弟たちを信用できず、退位は出来ないと考えていた。
昭和天皇はアメリカ軍によって日本の安全保障を確保するというのが持論だった。その結果、在沖米軍による日本防衛という形式を考慮し、その意見をGHQ最高司令官のマッカーサーではなく、GHQ外交局長のシーボルトに伝えていた。
そして、天皇の「沖縄メッセージ」は、アメリカの意思決定に影響を与えた。
昭和天皇は、日本国内での共産党の言動にも敏感に反応していた。昭和天皇は、野坂参三の巧妙な宣伝街に不気味さを感じ、潜在的な脅威として警戒心を募らせていた。
昭和天皇と明仁天皇との間には、国民との接し方において違いがある。
昭和天皇は、戦前からの伝統にしたがい「上から」の仁慈の施しという側面が強い。明仁天皇は、国民とのより「対等」な視線での思いやりの施しがにじみ出ている。
昭和天皇は、国家の繁栄が前面に出てくるのに対し、明仁天皇は、国民の幸福を語る。真の意味での象徴天皇制の歴史は、まだ30年ほどでしかない。
今の天皇の生前退位をめぐって、象徴天皇とは何かを日本人はもっと大いに議論すべきだと思います。その点、この本は考えるべき手がかりをたくさん与えてくれます。一読してみて下さい。
(2017年5月刊。1600円+税)

ぼくの村がゾウに襲われるわけ

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 岩井 雪乃 、 出版  合同出版
アフリカのセレンゲティ国立公園というと、私が毎週欠かさず楽しみにみているNHK番組「ダーウィンが来た」に舞台としてよく登場して、なじみの場所です。アフリカのタンザニアにあります。ケニアの隣国です。
この近くの村では、野生のゾウに人間が殺され、作物を荒らされているというのです。ところが、ゾウを殺してはいけない。ゾウから殺されても国が補償することはない。
では、なぜ、ゾウが村人を襲うのか・・・。
著者は20年来、このタンザニアの村に出かけ、定点観測を続けています。
今では、早稲田大学の学生も同行しています。私も大学生だったら、連れていってほしいと思いました。
野生のゾウは、「やさしい動物」ではない。村にトウモロコシ畑があれば、巨大なからだで木の柵を押しつぶして入ってきて、根こそぎ食べてしまう。それも、1頭や2頭ではなく、ときには200頭もの大群で村を襲う。畑に入るのを邪魔する村人を踏みつぶし、あの大きくて長い鼻で、ふっ飛ばしてしまう。
ゾウが村に押し寄せてきても、村には銃も車もない。犬が吠えかかると、鼻をブルンと振りおろして、犬をたたき殺してしまう。ここでは犬は単なるペットではなく、野生動物たちからの危険を知らせる重要な役目を果たしている。
ゾウの走る速さは、時速40キロ。ヒトは、平均して時速24キロ(100メートルを15秒)。だから、ゾウから追いかけられると、ヒトは逃げ切れない。
タンザニアの人口は5000万人。日本の半分以下。ところが、年に3%ずつ増えている。ここが日本とは異なる。タンザニアには、130もの民族がいて、スワヒリ語を国語としている。このため国民全員が一体感をもっている。これが民族紛争を防いでいる。
小学校ではスワヒリ語で授業があるが、中学校以上の授業は英語。
小学校の就学率は94%。中学校になると3%に下がる。大学へはわずか3.6%。タンザニアでは、大学生は超エリート。
セレンゲティ国立公園に世界中からやって来る観光客は年間35万人。入園料は大人1日で7800円。タンザニア人だと大人500円。ところが、車のレンタル代やガソリン代が高いので、タンザニア人がセレンゲティ公園に入って観光することはほとんどない。
タンザニアでは、ゾウは200万円、ライオンは80万円でハンティングできる。
タンザニアは、お金は信用されていない。政治が不安定になったりすると、お金の価値が下がってしまう。家畜が食料であるとともに、大切な財産である。
ゾウは、食料を奪うだけでなく、人間の命も奪う。1年間に6人が殺された。ゾウは、怒ると人間を鼻ではたいて投げ飛ばし、とどめに足で踏みつける。ゾウを殺すことは許されていないので、村人はバケツをたたいて大きな音を出す、懐中電灯の光をあてるという、ささやかな抵抗しかない。
いまアフリカゾウは50万頭ほど。その半数がタンザニア、ボツワナ、ジンバブエの3ヶ国にいる。
1980年代の日本こそがゾウ減少の犯人だった。象牙の印鑑が大量につくられた。1984年に象牙が470トンも輸入された。これは、ゾウ1万頭分だった。
野生動物と人間の共存の難しさを考えさせる本でした。それにしても、著者はスワヒリ語が自由に話せるようです。これって、すばらしいことですよね。
(2017年7月刊。1400円+税)

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