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朝鮮植民地戦争

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 愼 蒼宇 、 出版 有志舎
 近代日本の曲がり角には必ず朝鮮がある。そうなんでしょうね。
 帝国日本は朝鮮半島を植民地として支配していた。これに抗して朝鮮の人々が戦闘を挑んだ。1875年の江華島事件、1882年の壬午軍乱後における公使館守備隊名目の日本軍駐屯、1894~95年の甲午農民戦争、1904~05年の日露戦争、1906~15年の義兵戦争、1919年の三・一独立運動、1918~25年のシベリア戦争と間島虐殺、1931~39年の満州抗日戦争。これらを朝鮮植民地戦争と総称する。
 火賊とは、朝鮮の盗賊団のこと。火賊は、一般人扱いされなかった。
日本の東北地方を歩いたイギリス人女性イザベラ・バードは、1895年1月に東学農民軍の梟首(きょうしゅ)を見ている。
 甲午改革は単なる内政改革ではなく、日本の朝鮮膨張と深く関連したため、その改革の正統性が根本的な秩序・法意識への求心力を強化することにつながった。
朝鮮王朝末期に起きた最大の民衆反乱が1894年の甲午農民戦争。東学農民戦争ともいう。日清戦争が起きた年です。農民軍は行動網領を定め、厳格な規律を維持した。参加したのは半プロ・貧農下層民などが中心。
 11月20日、日本軍と朝鮮政府軍の連合軍と4万人の農民軍とのあいだで、最大の激戦となった(公州の戦い)。当初は数に優る農民軍が優勢だったが、その後は近代的兵器をもつ日本軍による大虐殺となった。
 日露戦争(1904年)のころ、朝鮮半島に日本は鉄道を敷設していった。この苛酷な労働に対して朝鮮の民衆は激しく抵抗した。サボタージュ、逃亡、そして運行の妨害。
 1895年、日本軍の三浦梧楼は閔妃を虐殺した。
 1907年7月、ハーグ密使事件をきっかけに朝鮮王朝高宗が退位に追い込まれ、韓国軍が突如として解散させられた。当時の韓国軍は中央・地方あわせて8480人。そのうち、745人だけが残された。92%の軍人が失業した。これらの失業軍人が各地で義兵となった。
 1919年3月、三・一独立運動が始まった。朝鮮全土で200万人以上が「独立万歳」を唱えて参加した。この三・一独立運動における朝鮮人の被害はわずか2ヶ月間に934人の死者を出した(7500人が殺害されたという学者もいる)。
 日本は、「五家作統」という連座制によって、共同体をコントロールしようとした。
 また、村落を植民地戦争の最前線にし、抗日運動の根拠地のせん滅を図ろうとした。
 ただ、苛烈なせん滅作戦は、他方で逆効果でもあった。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(壬申倭乱)のときも、朝鮮半島の各地で義兵が抵抗しましたが、日本の植民地支配に対しても何波となく義兵が決起しています。近代的兵器を装備した日本軍に圧殺されてしまうわけですが、朝鮮の人々の反抗ぶりもすさまじいものがあったようです。日本側の資料に残っています。
 関東大震災直後の朝鮮人虐殺に日本軍部が手を下したことは事実ですが、その軍人たちは、朝鮮の農民戦争を戦った経験があったという指摘がなされています。なるほど、そうだったのか…と思いました。
 いま多くの日本人に読まれるべき大変貴重な労作だと思いました。
(2024年7月刊。3500円+税)

もう一度!近現代史

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 関口 宏 ・ 保阪 正康 、 出版 講談社
 戦前の日本は三つの大きな過(あやま)ちをおかした。その一は、統帥(とうすい)権の名のもとに軍事が政治の上に立ったこと。その二は人間の命を戦争の道具として使ったこと。特攻隊や「玉砕」がその大きな例。その三は、戦争を国家の事業と考えたこと。
 私も、この三つの指摘に同感しています。今、日本は戦争に備えるという口実で、大々的に軍事予算を増やしています。5年間で43兆円という気の遠くなる莫大な軍事費です。これまで5兆円をこえるというのに大騒ぎしていたのがウソのように、今では年8兆円といってもまあ、そんなものか、仕方ないなという雰囲気です。これでは福祉や教育予算が削られるのは必然です。でも、戦争にならないようにするのが政治家の最大の任務のはずです。
 軍部と軍需産業が癒(ゆ)着し、大威張りだった戦前の状況に戻ったら大変です。そんな日本にならないよう、戦前の日本にたどった道を振り返って、そこから大いに学ぶ必要があると思います。
 日本の陸軍は、中国軍なんて弱いもの、いくらか日本兵を派遣したら一撃で屈服させられるものと錯覚していた。上海事変が、その典型ですよね。実際には、中国軍はドイツ軍人の顧問団によって訓練され、最新兵器も備え、しかも士気旺盛だったのです。日本軍が慣れないクリーク戦で大苦戦したのも当然でした。
 東条英機は関東軍の参謀長だったことがあります。そして、東条と反目していた石原莞爾が、その下に参謀副長になったのでした。
 二人は互いにまったく口をきかなかった。 その後、東条英機は陸軍大臣になって「戦陣訓」を発表した。石原莞爾は、「こんなものは読む必要がない」といって、開封もせずに倉庫に収納させた。いやはや、すごい反目ですね。結局、石原莞爾のほうが予備役に追いやられてしまいました。
日本軍は中国大陸での泥沼の戦争にひきずり込まれ、総数129万人のうち、90万人をこえる将兵を中国大陸に置いていた。満州からは精鋭の師団が沖縄をふくめ南方に送られ、次々に敗北の道をたどりました…。
 名門中の名門である近衛文麿は優柔不断で決めきれない男だった。
松岡洋右は諸突猛進で、また言うことがくるくる変わる男だった。
アメリカの暗号解読の能力は大変なものがあったようです。山本五十六元帥の撃墜もミッドウェー海戦の失敗も暗号で内情を知られていたことで起きた悲劇でした。
天皇の弟宮で陸軍にいた秩父宮、海軍にいた高松宮も東条英機に強い反感をもっていた。秩父宮は、東条英機に対して、3度も詰問状を送っている。
 日本がなぜ戦争に敗れたのか、きちんと知ることは大切なことだと私は思います。それは自虐史観なんていうものでは決してありません。
(2022年4月刊。1980円)

近現代日本の警察と国家・地域

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 大日方 純夫 、 出版 日本評論社
 今も被疑者弁護人として毎日のように警察署に行く身なので、警察の歴史とその実情については昔から強い関心があります。
 江戸時代の町には番人小屋がありました。その番人は、大坂では非人があたっていたが、江戸の番人は非人ではなかった。
 明治になって首都ポリスが誕生した。1871年10月、東京に邏卒(らそつ)という名称で「ポリス」が設置された。それは3千人で、うち2千人は鹿児島から連れてきた。
 1973年10月、征韓派の参議が辞職するという政変があり、大久保利通が警察の実権を握った。11月10日に内務省が設置された。
 川路利良はヨーロッパ視察のあと、日本では「予防」を課題とする行政警察を中心に警察力を形成していった。しかし、実際には、反乱・一揆の続発という時期にあって、不安定な社会情勢に規定されて、「軍事的」な性格を強めざるをえなかった。1877年1月には西南戦争に警察力を投入した。
 日本の近代警察は、川路のもと、フランスをモデルとして成立していった。1874年末の警察官の35%が東京に集中していた。
 1884年2月、山県有朋が内務卿としてドイツから警察官を招聘(しょうへい)して、フランス式からプロシア式へ転換した。
 1920年、ヨーロッパでは警察は民衆のサーバントになっているところもあるが、日本の警察官はサーバントではなく、国家の官吏である。なので、警察官がストライキするなど、もってのほかのこと。
 東京に警視庁が設置されたのは1874年1月。戸口調査(戸口審査)は重要なものとして活用された。戸口査察は警察実務の基礎である。
 特高警察は選ばれたエリートへの道だった。内務省の若い役人は特高になりたがった。優秀だとされている人は、非常に特高になりたがった。一般警察官の多くは、特高係に抜擢(ばってき)されることを希望した。特高係は、あこがれの的だった。
 日本敗戦後、特高警察だった者は、その経歴を隠して戦後を生きのびていった。
 特高は、戦後の公安警察にそのまま横すべりした。ある県では、14人の警察署長のうち半分の7人が戦時中は特高関係者だった。
 警察官だった人が重要な内部書類を焼却しないで個人宅に持ち帰って保存していたものもあり、それをもとにして警察官のナマの姿が紹介されている本でもあります。
(2024年9月刊。2800円+税)

いのち輝け、二度とない人生だから

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 蓼沼 紘明 、 出版 東京図書出版
 著者は満州開拓団の子として生まれ、父が兵隊にとられたため、日本敗戦より前に母と一緒に内地に帰ってきて命が助かったのでした。敗戦時まで満州にいたら、無事に日本へ戻れたとは限りません。
 そして、父親は兵隊にとられて乗り込んだ船が沈められるなか、海上を2時間も泳いで奇跡的に陸地にはい上がって助かったのです。すごい生命運です。
 満州では著者が赤ちゃんのとき、夜中にネズミに頭をかじられ、朝起きたら布団が真っ赤に染まっていたというのです。よくぞ助かったものです。
弟を戦争で亡くした母親はテレビに昭和天皇が登場すると、いつも怒りを爆発させた。
 日本を戦争に導いた責任が天皇にあるのは間違いありません。なのに、昭和天皇はアメリカ(マッカーサー)に守られ、自ら退位することもなく、むしろ戦争を止めた、平和主義者であるかのような顔をして、日本中を駆け巡り、手を大きく振って歓呼の声を浴びていたのです。許せません。
 伊丹万作(伊丹十三の父)は、「だまされた者の責任」を厳しく問いかけたとのこと。なるほど、よくよく考えもせず、批判力も思考力も信念も失って、家畜のように盲従していった国民にも責任の一端はあるでしょう。
 同じことが、先日の兵庫県知事選挙でも起きました。パワハラ知事を正義の味方かのように信じ込んで、それを助けようと投票所に駆け込んだ県民がなんと多かったことでしょう。ヒトラーばりに、嘘も百回繰り返すと「真実」になるというのを証明してみせたのです。おお、怖い世の中です。
 著者は東大に入って駒場寮では聖書研究会に入ります。私は「教行信証」など仏教系の本は読んだことがありますが、キリスト教系は昔から縁がありません。カトリックとプロテスタントの、血で血を争う戦争を繰り返してきたキリスト教は生理的に受けつけません。
 大学生のとき肺結核となり、療養所に入ります。そして退院してくると、学友から無理なアルバイトをしないですむように毎月カンパしてくれたというのです。これはとてもいい話ですね。たしかに、昔はそんな雰囲気がありました。
 東大闘争が始まると、全共闘の暴力に抗して著者はノンセクト・ラジカルとして民青と共同戦線をはってたたかったとのこと。そのころは、多くの学生がヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持ちました。私も何回もそんな場面にいました。暴力には身を守る暴力が必要だと考えたのです。まったく、非暴力・無抵抗でいいとは思えませんでした。今も昔も、暴力は嫌なんですけど…。
 それから、著者は東京都庁に入り、裁判所に入り、司法試験も受験します。合格できず、伊藤塾の手伝いをするようになりました。ご承知のとおり、平和と人権を守る憲法の伝導師として大活躍している伊藤真弁護士の下で支えてきたのです。
 著者の思いのたけがぎっしり詰め込まれた460頁もの大作です。
 福岡で元裁判官の西理(おさむ)弁護士より贈呈を受けました。ありがとうございます。著者の今後引き続きの活躍を祈念します。
(2024年6月刊。1980円)

私はヤギになりたい

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 内澤 旬子 、 出版 山と渓谷社
 著者には3匹の豚を飼って育て、そして仲間と一緒に食べたという過程を迫った本があります。豚はとても賢い動物だということが、その本を読んでよく分かりました。そして今回はヤギです。瀬戸内海の小豆島に住む著者は5頭のヤギと1頭のイノシシを飼っています。
 もちろん、みんな名前がついています。その中心にいるのはメスヤギのカヨ。残り4頭の母親でもあります。
ヤギは孤独に耐えるとみられていますが、実は仲間がほしくて、ひとり(1頭)では寂しがります。ヤギ舎内では単独行動するけれど、基本は団体行動。
ヤギの食べる草にもヤギによって好き嫌いがあり、違っている。つまり、ヤギにも個性がある。ヤギたちの大好物はクズ。マメ科。露草(ツユクサ)は、まるで食べない。ニレの木の葉もアカメガシワやエノキと同じくヤギの大好物。ヤギは地面に落ちた葉っぱは食べたがらない。なので、なるべく枝付きの葉を差し出して食べさせる。ヤギは草よりも実は木の葉を好む。果樹のせん定時に出る枝葉は、どれもヤギの大好物だ。
 ヤギの乳しぼりを手でやるのは大変。乳搾り器を使うとおとなしく乳しぼりが出来てヨーグルトそしてチーズが出来た。ヤギミルクは脂肪の粒子が小さくて消化が容易なので、母乳の代わりになる。
 メスのヤギは21日ごとに発情期が来る。春と秋には、特別強く発情する。
 ヤギたちはみんな人間にされたことを忘れずに憶えている。
 ヤギは、同腹の兄弟の絆はとても強い。兄弟の1頭が事故で亡くなったあと、残る1頭は半年以上もうつ状態で自閉してしまった。
 ヤギたちは、赤ちゃんヤギをとても可愛いがる。
 ヤギのクールな瞳も毎日よく見ていると、実はさまざまに変化する。顔の表情の変化や耳の動きなど、こまやかな感情、そして要求などが読みとれる。
 ヤギは著者の日本語も聞きとり、理解している。
 ヤギはヤブ(藪)が好きではない。見通しの良い平なところにいるのを好む。天敵から早く逃げるため。
 ヤギの糞便と歩き方は毎日チェックする。歩き方がおかしいときは、腰麻痺を疑う。毎日のエサの心配と体調チェックが8割を占める。
ヤギは意思がはっきりしていて、好奇心が強い。おとなしいヤギもいるけれど、人間に対して強く出るヤギもいる。ヤギはかなり気性が荒い。
 そうか、前に『カヨと私』という本も読んだことを思い出しました。その続編になるのですね。ヤギの多頭飼いは大変ですが、面白くもあるようです。
(2024年9月刊。1980円)

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