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文明に抗した弥生の人びと

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 寺前 直人 、 出版  吉川弘文館
いま、弥生時代研究は百花繚乱のさまを呈しているのだそうです。たとえば、弥生時代のはじめの数百年間は、世界的には新石器時代に属する可能性がきわめて高くなっている。  
縄文時代は、ゆうに1万年をこえる長期間である。これは弥生時代の10倍以上となる。縄文時代の人々が栽培植物を利用していた可能性は高い。しかし、それが主なカロリー源となり、人口増加に大きな影響を与えた可能性は低い。
土偶は、縄文時代草創期の後半期(1万2000年前)に登場する。この土偶の分布は地域的にかたよっていて、縄文時代の前・中期では滋賀県より西では土偶が出土していない。西日本に土偶が出土するのは縄文時代後期になってからのこと。ハート形土偶が出土する。
弥生時代の前期、水田耕作とともに、短剣をつかう社会となった。携帯できる武器、石製短剣が登場した。弥生時代中期の遺跡には磨製石剣が刺さった人骨が発見されている。
弥生時代中期に入って金属器が普及しはじめても、各地で磨製石斧や石包丁などの石器が利用され続けている。鉄斧と併用されていた。石製短剣は、人々の半数ほどが所有できるアイテムだったと考えられる。
石という伝統的な材料で製作された武威の象徴を幅広い構成員が所有することによって、武威が特定個人に集中することを防いだとみられる。これは近畿南部の人々のすがたである。
弥生時代と農耕水田との関わり、エリートへの権力集中と、それに抗する動きと、さまざまな社会構造の可能性が大胆に問題提起されています。
すべてを理解できたわけではありませんが、弥生時代の複雑、多様な社会のあり方に触れることができました。
(2017年10月刊。1800円+税)

トラクターの世界史

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 藤原辰史 、 出版  中公新書
トラクターと戦車は、二つの顔を持った一つの機械である。
トラクターとは何か・・・。トラクターとは、物を牽引する車である。もっと詳しく言うと、トラクターは、車輪が履帯のついた、内燃機関の力で物を牽引したり、別の農作業の動力源になったりする。乗車型、歩行型、または無人型の機械といえる。
アメリカのフォード社は、第一次世界大戦を4度戦ったイギリスの農村での労働者不足を補うべく、トラクターを輸出した。
トラクターの登場は、馬の糞尿を肥料に使う習慣を徐々になくし、化学肥料の増産と多投をもたらした。
ソ連は、国家主導でフォードのトラクターを導入し、フォードの大口の顧客となった。
ソ連の農業集団化政策は、アメリカのトラクターの量産体制の成立のただなかで遂行された。トラクターは共産主義のシンボルでもあった。
ソ連では、トラクター運転手の半分以上が女性だった。
レーニンは、アメリカの農業機械化に強い関心を抱いていたし、農民こそ革命の主体になりうると考えた。
第二次世界大戦が始まると、ほとんどのトラクター企業が戦車開発を担うようになった。
スターリングラードにはトラクター工場があったが、トラクターだけでなく、ソ連軍を代表する中戦車T-34の約半分を生産していた。
アメリカの歌手・エルヴィスプレスリーの趣味の一つは、トラクターに乗ることだった。
日本は、20世紀の前半はトラクター後進国だったが、後半には先進国へと変貌をとげた。農地面積あたりの台数も世界一位となった。
トラクターを取り巻く社会環境の移り変わりを興味深く読みました。
(2017年9月刊。860円+税)

不当逮捕。築地警察交通取締りの罠

カテゴリー:警察

著者  林 克明 、 出版  同時代社
 築地市場に仕入に来た寿司店の夫婦が交通取り締まりの女性警官に目を付けられ、言い合いになったところ、やってもいない暴行(公務執行妨害)で逮捕され、不起訴にはなったものの、それまで19日間も拘束されてしまった。
 納得できない夫婦は都と国を被告として損害賠償請求訴訟を提起し、事件発生から9年あまりたって240万円の賠償を認める判決を得た。その苦難の日々がドキュメントとして生々しく再現されていく貴重な本です。
事件が発生したのは2007年10月11日の朝8時ころ。逮捕されたときの被疑事実は、巡査(女性)の胸を7~8回突くなどの暴行をし、巡査の右手にドアを強くぶつけるなどして、全治10日間を要する右手関節打撲の傷害を負わせたというもの。しかし、付近にいた目撃者は口をそろえて暴行なんてなかったという。
 「被害」者である女性巡査のいう暴行の態様は、なんと6通りもある。少しずつ変化していっている。
 逮捕された男性の妻によると、女性巡査は、この妻から無視されたことに立腹したらしい。「この一帯を取り締まる権限をもつ自分たちが無視され」て気分を害したようだ。
 ええっ、これってまるでヤクザのセリフみたいなものではありませんか...。
 夫婦は巡査を被告とする損害賠償請求訴訟を代理人弁護士をつけないで提訴し、追行したが、あえなく敗訴(請求棄却)。
 そこで都と国を相手に国家賠償請求訴訟を提起する。このとき国民救援会の紹介で小部正治・今泉義竜の両弁護士に委任した。裁判が始まっても、警察も検察庁も一件記録の所在が不明だとして、提出を拒んだ。しかたなく文書提出命令の申立を6回もした。
 国賠訴訟で勝てた原因として、目撃者を4人も確保できたことは大きい。そして、目撃者を証人として調べないなど、不公平な審議をしていた裁判官を忌避していたことは効果があった。そして、さらに傍聴席を毎回満杯にできたことも大きかった。最後に、原告本人の強い意思、こんな理不尽なことをそのままにしてはいけないという信念の持ち主だったこと。それにしても警察官が事件をデッチ上げるなんて許せませんよね。
 担当した女性検事(五島真希)は現在、東京地裁判事になっているとのことです。そんなことで本当にいいんでしょうかね...。いい本です。とりわけ検察志望の司法修習生にぜひ読んでほしいと思いました。
(2017年12月刊。1800円+税)

興隆の旅

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者  中国・山地の人々と交流する会 、 出版  花伝社
 日本軍・三光作戦の被害にあった中国の村を日本人一行が訪れた記録集です。
 中国河北省興隆県は北京市の北東に位置し、三方を長城で囲まれた山深い地域。1933年の日本軍による熱河作戦によって満州国に組み込まれた。それ以降、抗日軍と日本軍の激しい攻防が繰り返された。
 興隆県は1996年まで外国人に対して未開放区だった。そこへ、1997年8月、日本の小中高校の教師集団が訪問したのです。
ここには、人圏があった。人を集中させて、八路軍を人民から隔絶させ餓死させようと考えて日本軍がったこと。人々は、着るものも食べるものもなく、すべて日本軍に奪いとられた。
 日本人訪問団は日本から持っていった算数セットをつかって算数の授業をした。授業が終わると、校庭で教材贈呈式。そのあとは子どもたちとフォークダンス。宿泊は、村内の農家に25人が分宿。ホテルも宿泊施設もない村で、25人もの訪問団を泊めるのは、村にとって一大事件だった。
日本軍の蛮行で被害にあった体験を村人が語りはじめます。本当は、今日、ここに来たくはなかった。日本人を恐れていた。でも、今日来ている日本人は前に来た日本人とは違うと言われてやってきた。
日本軍の憲兵は、中国人を捕まえて投降させ、スパイにて中国人を殺させた。男たちは全部捕えられ、女と子どもしか残らなかったので、ここは「寡婦村」と呼ばれるようになった。無人区で中国人を見つけたら、一人残らず殺す。それが当時の日本軍のやり方だった。
2010年8月まで、11回も続いた日中交流の旅でした。日本人のゆがんだ歴史認識は、その加害の真実を知らない、知らされていないことにもよると思います。私自身もそうでした。しっかり歴史の真実を知ることは、真の日中友好の基礎ではないかと思います。日中友好の旅の貴重な記録集です。
(2017年3月刊。1600円+税)

ヴェトナム戦争・ソンミ村虐殺の悲劇

カテゴリー:アメリカ

著者 マイケル・ビルトン、ケヴェン・シム 出版 明石書店
 私の大学生のころ、ベトナム戦争が真最中で、何度も何度も「アメリカのベトナム侵略戦争、反対」を叫びながらデモ行進したものです。
 ベトナム戦争が終わったのは、私が弁護士になった年の5月1日、メーデーの日でした。たくさんのベトナム人が殺されました。そして、ベトナムのジャングルで意味もなくアメリカ兵が死んでいきました。5万5000人もアメリカの青年が死んだのです。でも、ベトナム人の死者はその10倍なんかではありません。数百万人です。
 いったい何のためにアメリカは遠いベトナムに50万人もの大軍を送り込んだのか、まったく壮大な誤りとしか言いようがありません。ベトナム戦争で利益を得たのは軍需産業と一部の軍トップだけです。
 ベトナムでアメリカ軍は残虐な集団殺人を繰り返しました。それは、ベトナムの共産化を防ぐため、ベトナムの国民を共産主義の脅威から救うため、ベトナムに民主主義を定義させるためというのが口実でした。しかし、現実には、アメリカ人はベトナム人を人間とは思っていなかったのです。それは、ナチス・ヒトラーがユダヤ人を人間と思っていなかったのと同じです。
 この本は560貢もの大作です。
ソンミ村の大虐殺事件が起きたのは1968年3月16日。わずか4時間のうちに500人以上の罪なき村民が、子どもをふくめて虐殺された。犯人は第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊の45人の隊員。アメリカ全土からベトナムにやってきた20歳前後の典型的なアメリカ青年たち。その出身は中流階級から労働者階級。
大虐殺事件が明るみに出て、小隊長1人だけが刑務所にわずか数ヶ月間だけ入れられ、そのあと「無罪」放免となった。むしろ、アメリカ国民の一部からは「英雄」かのように迎えられた。
このソンミ村大虐殺事件は、次のことを教えている。
戦争では、現場で戦っている軍隊に統率力と道徳的決意の明確な意義がないときには、まともな家庭の善良な若者たちでさえ、事件に巻き込まれ、罪のない無力な人々を故意に残虐に殺害するという恐ろしい悪習に巻き込まれることになる。
第1小隊の隊長カリー中尉は、無防備な老人を井戸に投げ込み射殺した。カリー中尉は、死者で一杯になった用水路から這い出てきた赤ん坊を見て、その足をつかんで穴の中に再び放り込んで射殺した。そして、ソンミ事件で有罪となったのはカリー中尉の一人だけ。1971年に重労働をともなう終身刑を宣告された。ところが、ニクソン大統領は一審判決の30日後にはカリー中尉の釈放を命じた。1974年にカリー中尉が保釈されたが、実はそれまでも基地内で特権的な自由を享有していた。
ソンミ事件で虐殺したアメリカ兵の平均年齢は20歳前後。アメリカル師団第11軽歩兵旅団の部隊であるチャーリー中隊は、ベトナムに駐留してまだ3カ月ほどしかたっていなかった。
1968年3月というと、私も彼らと同じ19歳なのです。まったく私と同じ年齢の「善良」なアメリカの青年たちが、武装していない老人、女性、子どもたちを冷酷に4時間にも及んで殺害し続けたのです。信じられないことです。しかも、強姦、肛門性交、四肢の切断など、、、。想像を絶するあらん限りの虐待を繰り広げました。
今では、アメリカ人のなかにソンミ村の大虐殺は完全に忘れ去られている。せいぜい、ベトナム戦争中に起きた不愉快な事件として、あいまいに記憶されているだけでしかない。
ベトナムでは、そうではない。ソンミ村の現場には、2階建の立派な博物館があり、毎年3月16日には、追悼式典が開かれている。
ベトナム戦争の最盛時、50万人のアメリカ兵がベトナムに滞在し、毎月20億ドルも費やしていた。世界最強の軍隊が50万人いても、侵略者は最終的に勝利することが出来ないことを実証したのが、ベトナム戦争でした。
1968年というのは、1月にテト攻勢があり、サイゴン(現ホーチミン市)にあったアメリカ大使館が解放戦後(べトコン)の兵士によって1日中、占拠されたのでした。この様子がアメリカ全土に実況中継され、アメリカ政府の言っていることは信用ならない、ベトナムから手を引けというベトナム反戦運動を一気に高掲させました。
ソンミ村で虐殺した兵士たちは正常な心理状態を奪われてしまいました。今もなおPTSDに苛まれているアメリカ人が28万人いて、12万人が治療を受けているのです。
しかし、アメリカ社会は全体として、カリー中尉たちを容認し、アメリカ兵が虐殺したことを忘れることに努めているようです。それはアメリカが戦争国家だからです。私は日本がそんな国にならないことを、ひたすら願います。貴重な本です。ぜひ図書館で借りてお読み下さい。                         (2017年6月刊。5800円+税)

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