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玉砕の島・ペリリュー

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 平塚 柾緒 、 出版  PHP
天皇夫妻が2015年のペリリュー島まで戦没者の慰霊のために出かけなければ、日本人のほとんどが、その存在すら知らなかったと思われるのが、このペリリュー島です。もちろん、私も聞いたことはありませんでした。
今では、ペリリュー島の戦闘を描いたマンガ本もあり、かなり想像することが出来ます。
著者はペリリュー島からの生還兵の取材を1970年(昭和45年)から始めていて、すでに8回、ペリリュー島にわたっています。
ペリリュー島にいた日本軍1万人のうち、部隊が全滅したあと2年半ものあいだ洞窟に潜んでゲリラ戦を続けていた34人の日本兵がいた。このほか生還できた日本軍将兵は302人のみ。
昭和19年、パラオ諸島には軍人以外の日本人が2万5千人、朝鮮人250人、現地住民も3万2千人が住んでいた。
ペリリュー島は、パラオ諸島の中心地コロール島から南に50キロの地点のある、リーフ(珊瑚礁)に囲まれた孤島。南北9キロ、東西3キロ。島には、昭和14年に完成した飛行場があり、1200メートルの滑走路が2本あって、東洋一の飛行場とも言われていた。
ペリリュー島の日本軍は、水際の防禦陣地と山岳部の自然壕を拡大した地下要塞を構築した。ただ、珊瑚礁とリン鉱石で固まった島の土壌は、鉄筋コンクリートよりも固く、シャベルやつるはしでは歯が立たない。1日にわずか20センチとか30センチを掘るのが、やっと。
日本軍守備隊は、アメリカ軍の砲爆撃がつづく日中は、堅固な陣地や珊瑚の洞窟陣地内にじっと身を潜め、砲爆撃の止む夜間に準備を続けた。日本軍守備隊の中心は、満州で徹底的に訓練された若い20代の現役兵で構成されていた。その頑強な抵抗ぶりは、アメリカ軍がそれまでに味わったことない粘り強さがあった。
アメリカ軍が行った艦砲射撃は、上陸開始前に3490トン、上陸後に3359トン、合計6849トンも打ち込んだ。そのうえでアメリカ軍は、上陸迂回作戦を実施した。そのおかげで本来もっとも死亡率の高くなるはずのアメリカ軍上陸地点の日本軍守備兵が生き残った。
昭和22年4月22日、最後の日本兵34人全員が投降した。27歳から32歳の若者たちだった。よくぞ34人もの日本兵集団が投降したものです。その過程自体もスリルに満ちていて、興味深いものがあります。
(2018年7月刊。1900円+税)

ゴリラからの警告

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 山極 寿一 、 出版  毎日新聞出版
ゴリラと比較して、「人間社会、ここがおかしい」というサブタイトルのついた興味深い問題提起が満載の本です。
ゴリラ学者の著者がゴリラ集団に受け入れてもらうためには相当な苦労があったようです。
近づくときには、グックフームという挨拶音を出す。「だれだい」とゴリラ特有の音声で問いかけられたら、必ずこたえる。顔をのぞきこまれたら、視線をそらさず正面から見つめ返す。これがゴリラ社会に受け入れられるときのマナー。
ゴリラは食べるときには、個々ばらばらに分散する。人間は、集まって一緒に食べようとする。
ゴリラは顔と顔を近距離で向かいあわせて挨拶するが、人間は少し距離を置いて、じっと向かいあう。
ゴリラの赤ちゃんは2キロ以下で生まれ、3年から4年は母乳を吸って育つ。人間の赤ちゃんは3キロくらいと重く、2年以内に離乳する。
人間の目には、サルや類人猿の目とちがって白目がある。この白目のおかげで、1~2メートル離れて対面すると、相手の心の動きから心の状態を読みとることが出来る。
ゴリラは3~4年、チンパンジーは5年、オランウータンは7年も母乳を吸って育つ。だから、出産間隔が長く、生涯に数頭しか子どもを産めないし、大人になる子どもも2頭前後。そのため数が増えず、絶滅の危機に瀕している。
人間の赤ちゃんは2年足らずで離乳し、母親は年子を産むことも可能。私も年子です。生涯に10人以上の子どもを育てることが出来る。
人間の祖先は、捕食によって高まる子どもの死亡率を補うために多産になった。
人間の赤ちゃんとちがって類人猿の赤ちゃんは、とても静かだ。ゴリラのお母さんは、生後1年間、片時も赤ちゃんを腕から離さない。赤ちゃんは、ずっと母親にしがみついているから、泣いて自己主張する必要がない。人間の赤ちゃんがけたたましい声で泣くのは、産まれ落ちてすぐに母親以外の手に渡されて育てられるから。
人間がゴリラと違うのは、自分が属する集団に強いアイデンティティーをもち続け、その集団のために尽くしたいと思う心があること。これは、子ども時代に、すべてを投げうって育ててくれた親や隣人たちの温かい記憶によって支えられている。そして、人間が他者に示す高い共感能力も、家族をこえた子どもとのふれあいによって鍛えられる。
相手に何かしてもらえばお返しをしなければという思いや、何かすればお返しがあるはずだという思いは人間独特のものだ。
人間の笑いの多くは、サルたちの遊びの笑いに由来する表情だ。そこには相手と楽しさを共有しようとする気持ちがふくまれている。
アフリカで野生のゴリラとつきあっていると、だんだん自分の顔の表情が乏しくなっていくことに気がつく。人間が類人猿と共通なのは、胃腸が弱く、子どもの成長が遅いこと。
人間が類人猿と違うのは、離乳が早く、思春期に成長が加速して心身のバランスが崩れる時期があること。
生れてはじめて出会う人間に身の回りの世話をしてもらい、何もかも頼って暮らした経験が、人間を信頼して生きる心をつくる。逆に、幼いころに虐待を受けたり、裏切られたりした経験は、子どもの心に大きな傷を残す。
サル真似というコトバがあるが、実はサルは真似ができない。
中身は紹介しませんが、京大理学部のチームが中高生中心の女子タレントのチームと競って京大チームが2度も惨敗したというのが紹介されています。思わぬ発想が世の中では高く評価されることがあるのですね・・・。
京大総長の著者の指摘には、常にうむむと頭をひねって考え込まざるをえません。
軽く一読できる、大変コクのある話が満載の、ゴリラと人間を比較した本です。
(2018年8月刊。1400円+税)

陰謀の日本中世史

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 呉座 勇一 、 出版  角川新書
陰謀論は日本史でも、しばしば登場し、よく本が売れているようです。その陰謀論のインチキについて、学者が真面目に解説しています。
まず、頼朝と義経です。頼朝は、義経を鎌倉に召喚しようとしていた。鎌倉に来れば、義経を詰問、拘束できる。来なければ親不孝者として糾弾できる。義経の武勇は頼朝にとって脅威であり、軍事的衝突を回避しつつ、義経を屈服させる道を頼朝は探っていた。
次は、信長暗殺とイエズス会の関わりです。イエズス会日本支部の財政は逼迫(ひっぱく)しており、信長の天下統一事業に資金援助するような余裕は、まったくなかった。
本能寺の変が起きたとき、明智光秀は55歳でなく、67歳であり、秀吉48歳、勝家56歳。
みながみな人間不信になって身動きできない状況で、がむしゃらに前に飛び出した秀吉こそ異常だった。
信長は、対人間関係の構築は、お世辞にも上手とは言えない。他人の心理を読みとる能力がそれほどあったようには思えない。信長は、決して万能の天才ではない。弱点があり、隙(スキ)もあった。
光秀がおのれの才覚で信長を討ったことを、ことさらにいぶかる必要はない。
教科書には書いていない「歴史の真実」を売りにする本は多く、自分こそ歴史の真実を知っているという自尊心を陰謀論は与えてくれる。しかし、それだけのこと。インテリ、高学歴の人ほど騙されやすい。
なるほどなるほどと、目の覚める思いで読みすすめました。
(2018年3月刊。880円+税)

空気の検閲

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 辻田 真佐憲 、 出版  光文社新書
現代日本では忖度(そんたく)があまりにも横行していて、マスコミの自粛がひどすぎます。もっと自由にのびのびとマスコミは嘘つきアベ首相を堂々と批判すべきです。少なくとも、批判的コメントなしで、首相や官房長官の開き直りの発言をタレ流してはいけません。
この本は、戦前の日本でやられていた検閲の実際を紹介しています。
本を発行するときには、発行日の3日前までに内務省に完成品2部を納めなければいけなかった。これに違反すると刑事責任を問われた。
当時の新聞記者は検閲に慣らされていた。世間が戦争を支持し、検閲官が言論規制を強化すると、新聞記者は、それに簡単に引きずられた。検閲官は100人をこえていた。
たとえば、1930年10月に台湾で霧社事件(現地の高山族が学校を襲撃して運動会に参加していた日本人134人を殺害)について、51件もの新聞記事が事前に抹消された。
石川達三が『中央公論』1938年3月号に南京戦直後の中国を訪問し、日本兵の婦女暴行、一般市民殺害のレポートを書いたところ、発禁処分とされた。そして、石川達三は、刑事裁判に付され、禁錮4ヶ月、執行猶予の有罪判決を受けた。新聞紙法違反だった。石川達三は、冒頭にわざわざ「自由な創作」、「仮想」と書いていたのに・・・。
言えるとき、言うべきときに、きちんとモノを言っておかないと、何も言えなくなるということを示した本だと思いました。
(2018年3月刊。880円+税)

武士の日本史

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 髙橋 昌明 、 出版  岩波新書
日本の武士とは、いかなる存在だったのか、興味深く読みすすめました。
中世の鳥帽子(えぼし)は、身分や着用の場面によって形状と塗り方を異にする。もとは薄い絹布や生糸をざっくり織った布で作ったが、後世は紙で作って、漆で塗り固めた。一般庶民に至るまで欠かせない、常用の被(かぶ)りもので、普通は家のなかでもかぶり、寝ているとき、男女が交わる時にもとらなかった。
そのため、被り物をかぶっていない無帽の状態(露頂)を他人の視線にさらしたり、髪をモトドリの部分から切り落とすことは、それぞれ、「もとどりを放つ」、「もとどりを切る」と言って、卑しい振る舞いや相手の名誉を否定する行為、あるいは、ヒトたることの自己否定(出家の意思)をあらわすものとされた。
理由なく他人のモトドリを切り放つ「本鳥切(もとどりぎり)」は、当時、強盗や夜付・放火・殺害と並ぶ犯罪だった。
髪は毎日のびるから、清潔な月代(さかやき)を維持するのは大変。髪は剃刀で剃るか、毛抜きで抜くかしかない。はじめは毛抜きが使われた。木で挟んで、頭髪を抜いた。
剃るのが普及したのは、天正年間(1573~93年)の中頃以降のこと。
古来、武士は「弓取」(ゆみとり)と呼ばれた。武士を象徴する武器は刀ではなく、長く、弓だったからだ。
武士が発生した、古代・中世において、武士とは芸能人だった。
武士は乗馬ができた。近代まで、庶民に乗馬は許されていなかった。
律令社会では、宮都とその周辺において自由に武器を携行して横行するなど、あってはいけない事態だった。
日本では、本来、刀は片手でつかうものだった。乗馬で突撃するのは、勝敗の帰因が決まったあと、算を乱して逃げる敵を追撃する場合に限られていた。
鉄砲伝来を、種子島だけとするのは根拠がない。実際には、当時、東アジアの海域に活動した中国人倭寇(わこう)の役割が大きいようだ。鉄砲(火砲)が日本各地に広まったのは、それを愛好した第12代将軍・足利義晴が贈答品として大名に贈与したこと、職業的な砲術(ほうじゅつ)師が全国各地を渡り歩いて鉄砲の運用技術を教授してまわったからだ。
鉄砲は、まずは狩猟の道具として広まった。
関ヶ原の戦いのとき、小早川秀秋の寝返りが遅れたが、家康が催促の鉄砲を撃ちかけられて、昼ころ、西軍を裏切ったとされているが、根拠がない。実際には、小早川は開戦と同時に裏切り、布陣しようとしていた。石田光成方は瞬時に総崩れとなった。
日本人が「武の国」であるという、確かめようもないプロパガンダに乗せられそうになりますが、とんでもないことです。足元をすくわれないようにしたいものです。
(2018年5月刊。880円+税)

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