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子どもには聞かせられない動物のひみつ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 ハーシー・クック 、 出版  青土社
タイトルに「子どもには聞かせられない」とあるのは、なぜなんだろう・・・、そう思いながら読みすすめていきました。要するに、学校での性教育が遅れている日本だったら、まさしくあてはまりそうな話のオンパレードなのです。
東京の養護学校で教師が苦心のすえつくりあげた性教育について、自民党の議員などが偏向教育として中傷し攻撃したため、教育現場はますます萎縮し、性教育を敬遠して触れたがらないという現実があります。
女性天皇は認めない、夫婦別姓にも反対する。LGBTの人は生産性がない。そんな時代錯誤の考えにこりかたまった人が議員として、もっともらしく議会で「質問」と称してまともな性教育を攻撃するのです。たまりません。性をタブー視するのは良くありません。
ニホンウナギの卵は2009年に太平洋のマリアナ海溝で見つかった。しかし、野生のウナギが交尾しているところはまだ誰も見たことがない。
ナマケモノの胃は、2週間ほどかけて木の葉に含まれる植物繊維や毒性を分解する。ナマケモノの胃袋には、ほぼ丸のままの葉が送り込まれ、友好的な腸内細菌の助けをかりて分解するしかない。だから、ナマケモノはできるだけエネルギーを消費しないように進化した。樹上でのんびりくつろぎ、ゆっくり葉を消化することで、不要な努力を回避している。
こんなナマケモノは、6400万年前から今日まで生きのびている。ナマケモノは一日中、瞑想状態にあるように見えて、実は1日平均9.6時間しか眠っていない。意識はあるが、動作をしない状況こそ、エネルギーを節約し、生きのびるためのカギになっている。
ハゲワシは腐った肉を食べるが病気にならない。それは、動物界のなかで一、二を争う強力な胃酸によって病原菌を撃退しているから。胃酸のPHは希硫酸に匹敵する。ハゲワシの糞は、消毒剤として非常に有効だ。
コウモリは恐ろしい吸血鬼だと思われているが、本当は深刻な病気を媒介し、作を台なしにする昆虫をコウモリが食べてくれているおかげを人間は受けている。また、熱帯の植物にとって主な花粉媒介者の役目も果たしている。
チスイコウモリの寿命は長く、30年もある。
太平洋戦争のころ、アメリカは小さな爆弾をコウモリの大群に背負わせて、日本の都市の上空に放つ計画をたてて、準備してみたそうです。ところが、実験段階で思うように行かず、本番に移る前に中止されました。あたりまえでしょう。でも、その代わりが原子爆弾の投下でした・・・。
パンダ(ジャイアントパンダ)は原初のクマ属の末裔で、2000万年ほど前に別の道を行くようになった。今でもクマとあまり変わらない。
パンダのメスは、セクシーな匂いを木の一番高いところにつけたオスが好みだ。競争に勝ったオスは、ご褒美として、半日で40回もセックスする。
パンダは竹をかじるという食生活を通して、強力な顎(あご)の力を手に入れ、肉食動物のかむ力の比較では、ライオンとジャガーにはさまれて5位に食い込んでいる。
ほとんどのペンギンは一夫一婦制とは言いがたい。コウテイペンギンの85%は、毎年パートナーを取り替えている。ところが、ドイツの動物園にはオスのカップルがいて、10年も一緒だ。そして、ヒナを養子に迎えて子育てまでしている。
メスのフンボルトペンギンの3分の1近くは不貞行為を働き、多くの場合、その相手は同性だ。アデリーペンギンは地球でも数少ない売春に走る動物だ。小石を集めるため、独身のオスに流し目を送り、交尾を求めているそぶりをして、オスと交尾をし小石を得る。ときには交尾せずに小石を得るだけのこともある。
野生のチンパンジーは、いつもお腹のひどい張りに悩まされていて、大きな音でおならをする。湿っぽくて、一瞬のためらいもない。
ギニアのチンパンジーは、葉をつかってスポンジをつくり、ヤシの実からつくった純度の高いアルコールを飲んでいる。ウガンダでは、若いメスのチンパンジーが、お人形遊びのように棒をいじり、抱っこして、寝床をつくって、夜は一緒に寝ていた。
子どもたちに聞かせられないというより、なかなか高度な話なので、それなりに基礎的知識がないと理解するのがたやすくはないという内容の本でした。私は、連休中に面白く読み通しました。
(2019年1月刊。1900円+税)

シベリア抑留者への鎮魂歌

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 富田 武 、 出版  人文書院
日本軍は第一次世界大戦後のシベリア出兵(1919年)で歩兵1個大隊が全滅(戦死者280人)したことの報復として、イワノフカ村をパルチザンの巣窟(そうくつ)とみなして掃討作戦を展開した。日本軍は村人257人を虐殺したが、うち女性が10人、子どもも4人いた。
そのため、ロシア人は日本人を「人間を食べる人種」だと怖がった。
シベリアに抑留された元日本兵は、極寒のなかでの重労働を余儀なくされた。
ある収容所には、元日本兵が1000人いたが、その6分の1が飢え、寒さ、重労働、病気のために亡くなった(6分の1というと、170人前後の死者が出たということです)。
飢えは、捕虜の人間性を損ねた。寝床で隣の者が下痢をすると、もっと続けばよいと願った。その食糧を自分が食べられるからだ。死者の遺体は身ぐるみ剥がして埋めた。衣類をパンに代えるためだ。入院患者が危篤だと知ると、周りの者が早々に「形見分け」した。品物をパンに代えるためで、危篤から脱した者が帰ってきても、持ち物は本人に戻らなかった。
関東軍情報部(特務機関)のロシア語教官だった女性(中村百合子。1923年生まれ)は、アメリカのCICのエージェントとして北朝鮮で活動し、スパイだと発覚して1956年までソ連の政治犯収容所に8年も拘留されていた。この中村百合子は、CICのエージェントになる条件として、日本にいる母親への毎月5000円の送金をCICに約束させた。
シベリア抑留の実態に迫る貴重な学術書です。
(2018年10月刊。1600円+税)

千里の向こう

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  蓑輪 諒、 出版  文芸春秋
坂本龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎について、初めて具体的イメージをもつことができました。
坂本龍馬は、その実家の坂本家は才谷屋という高知城下の豪商の分家。龍馬より4代前に、武士株(武士の身分)をお金で買い、にわか侍になった。
中岡家は、安芸郡北川郷において14ヶ村を束ねる「大庄屋」である。
江戸時代、封建制社会は、えてして身分にうるさいが、なかでも土佐藩の厳しさは特筆すべきものがあった。
藩内の武士階層は、「上士」と「下士(郷士)」に大別され、下士は、たとえば下駄を履くことや、夏に日傘を差すことも出来ず、原則として城の総構えの内側には住んではならないなど・・・、細々とした禁則があり、上士から差別された。
土佐侍たちは、剽悍(ひょうかん)で知られ、かつて長宋我部氏は彼らを率いて近隣をことごとく切り従え、1時は、四国全土をほぼ併呑した。その恐るべき長宋我部遺臣たちが万が一にも諜叛などを起こさないようにするため、山内氏は彼らを「下士」として取り立てて懐柔しつつ、古参の山内家臣である「上士」と明確な差をつけ、身分によって屈服させようとした。下士は上士に逆らっては生きられない。
この幕末当時の「尊王攘夷」という語には複雑な意味がある。この語自体は、過激思想でもなければ、政治的な立場の違いを表わすものでもない。このころの日本人にとっては、天皇を尊ぶことも攘夷を望むのも、ごく普遍的な考えであり、条約を結び、国を開いた江戸幕府でさえ、建前としては尊王攘夷を奉じている。
ただ、その攘夷をいつするのかで大きく分かれてくる。多くの強硬派・過激派の志士は、即時に攘夷を断行すべしとしている。もう一方は、現在の不当条件であっても、当面は容認し、将来、交易によって国力が整ったら、攘夷を断行する。なーるほど、ですね。
長州藩は、攘夷成功の栄誉に酔いしれていた。長州藩は、1ヶ月もしないうちに完敗を喫し、存亡の危機へと立たされてしまった。
慎太郎と龍馬は、これでも同じ土佐人かと思うほど、気質も考え方も正反対だ。
慎太郎は、土佐藩士たちを啓蒙するため政治論文を書いた。時勢論と呼ぶ。理屈屋の慎太郎らしく、緻密な理論と冷静な源氏認識に立脚しつつ、その語調は大いに熱っぽく真剣だった。富国強兵というものは、戦の一家にありと慎太郎は表現した。
残念なことに龍馬とともに慎太郎は30歳で果てた。
(2019年2月刊。1700円+税)

「自由都市」の灯をかかげて半世紀

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 堺総合法律事務所 、 出版  左同
堺総合法律事務所が50周年を迎え、記念誌を発刊しました。同事務所が堺・泉州の地に誕生したのは1969年春のことです。このとき、私はまだ大学3年生でした。
所員の一人が、NHKの「プロフェッショナル」に主人公として登場した(2009年)村田浩治弁護士です。労働弁護士としての活動がNHKの特集番組となって光があてられたのは画期的です。そして、自由法曹団の本部事務局次長として、井上耕史弁護士、次いで辰巳創史弁護士が活躍しました。どちらも、クレジット・サラ金、商工ローン問題でも大活躍しています。
さらにこの人こそ堺総合というべきなのが、平山正和弁護士です。NHKの再現ドラマ「逆転人生・奇跡の逆転無罪判決」にも登場しています。コンビニ強盗事件の犯人として逮捕されたミュージシャンの青年の無罪を母親の執念の努力とともに勝ちとったのです。
以下、平山弁護士のエッセーを紹介します。平山正和弁護士のエッセーは出色です。そのタイトルは「70代は黄金期?洟垂れ小僧?」です。泉州の地・堺で弁護士生活50年を迎え、「今も青年弁護士当時とほとんど変わることなく(と自分で考えている)」現役で、弁護士活動を元気に続けています。
「意欲と気力、体力が続く限り引退という言葉はありません。私ながら職業として弁護士を選んだこと、働く人々とともに活動する弁護士を選択したことを、おおいに得したと実感し」ているのです。問題は、では、どうやって、平山弁護士はそれを可能にしたのか、です。
実は、平山弁護士は42歳の厄年に油断大敵、原因不明のままインシュリンがまったく出なくなるというⅠ型糖尿病を発症して今日に至っているのです。ですから、インシュリン注射は欠かせません。そして、食事療法のおかげで「30年たっても合併症がないとはおかしい」と主治医が頭をひねって不思議がるのです。
たとえば、お昼は野菜たっぷりの塩分なしの健康(愛妻)弁当を30年以上も続けています。決まった時間に、どこでも食べる。たまには移動のタクシーのなかで食べて、運転手から驚かれます。
野菜・海藻・キノコはカロリーがないので、いくら食べてもよく、大量に食べるので、糖尿病の食事療法をするとお腹が空くというのはまったくの誤りだと平山弁護士はキッパリ断言します。おかげで70歳をこえた平山弁護士の頭髪は黒々、ふさふさ、額もはげあがっていません。
70歳になった私は、濃さと硬さが自慢だった頭髪が薄く、弱々しくなってしまい、今せっせと1日2回、養毛剤をすりこんで回復しようと、はかないあがきをしています。
それでは、平山弁護士の一日の生活をみてみましょう。1日8時間の睡眠を確保。アイフォンのクラシック音楽で目覚めます。朝食は30分かけて自分でつくります。自分で鋭く研いだ包丁で、玉ねぎ、ニンジン、ショウガ、ピーマンをみじん切りにして水にさらして辛味を逃がし、リンゴ、かまぼこ、チーズを刻んで入れ、ヨーグルトをかけて味つけし、大きなお椀一杯のサラダをつくります。調味料もドレッシングも不要。ご飯は茶碗半分ほどに納豆、黒ニンニク、とろろ昆布、ジャコをかけて、30分かけて食べるのです。
朝食後はストレッチ。開脚ベターに挑戦します。これに30分かけます。こんな「朝活」の1時間のあと、事務所では、毎日、夜8時まで疲れを知らないで一日を過ごします。
外に出て歩くときは、意識してフルスピードで大股で歩きます。電車に乗ったら、空いていても座らず、立ったまま、つま先立ち。テニスのステップを踏みながら本を読みます。
平山弁護士は42歳のとき、堺市長選に立候補して、市長になりそこねました。
そして読書量は、わずか年100冊でしかなく、その少なさに平山弁護士は愕然としています。私は、この30年以上、年に500冊を下まわったことはありません。そこだけが、平山弁護士に勝っているところです。
他人様の生活と権利、財産を守るために、そして権力に立ち向かう活動に全精力を傾けてたたかうわけですから、弁護士の活動は脳を活性化し、身体も動かして「健康寿命」の伸長におおいに効果がある。社会的弱者の用心棒、また牧師か坊さんの人生相談のような弁護士活動なので、「健康寿命」が続くかぎり弁護士の「現役活動寿命」も続く。平山弁護士は、こう考えています。
私も、平山弁護士のあとに続くよう、無理なくがんばります。
(2019年5月刊。非売品)

大いなる聖戦(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 H.P.ウィルモット 、 出版  国書刊行会
第二次世界大戦についての本格的な研究書です。読みながら、その深く鋭い分析に驚嘆してしまいました。
日本とドイツが連合軍から受けた爆撃の規模は、ドイツが136万トンであるのに対して、日本は16万トンにすぎない。しかし、このように格段の相違があったにもかかわらず、被害の程度は似たようなものだった。これは、日本のほうが人口密度が高く、都市部に人口・家屋・民生産業が集中していたため、ドイツよりはるかに被害を受けやすかったことによる。
そして、日本はドイツより心理的にも物理的にも空襲に対する備えを甚だしく欠いていた。ドイツは4年間にわたって小規模な爆撃を受けていたので、適応していくのに必要な態勢が整っていて、心理的な準備もできていた。ところが、これに対して日本は、勝利は約束されていると信じ込まされていて、自国の敗北が現実のものとして迫っていることに国民がまったく気がついていなかった。1945年3月から8月にかけての空爆によって物質上の損害は大きかったが、それ以上に大きかったのは、国民の士気に与えた悪影響だった。敗戦気運が突如として日本社会全般にわたって蔓延した。1944年6月の時点では日本は戦争に負けると考えた人は50人に1人の割合だったが、1年後の1945年6月には46%となり、8月の敗戦直前には68%に達していた。
アメリカ軍による空襲は、日本国民の軍部への信頼を失わせ、その士気を阻喪させるうえでもっとも重要な要因となった。
さらに、アメリカ軍が事前に爆撃目標を公表していたこと、それでも空襲を受けたということは、自国の航空戦力がいかに無力であるかを日本国民は思い知らされた。日本軍は本土決戦に備えて最後に残った通常の航空戦力を温存しようとしたため、B-29はほとんど迎撃を受けなくなった。
戦争が万一、1946年まで続いていたとしたら、大凶作が見込まれているなかで、日本は大々的な飢餓状態に陥ったことは確実だった。
ポツダム宣言が発せられた1945年7月26日時点で、日本の産業が完全に崩壊するまで、数ヶ月いや数週間しかなかった。
ところが、自国の敗戦が避けられないことを認識している者が、統帥部で決定権限を有している者のなかにはいなかった。
これは、ドイツも同じ。ドイツの指導層には、自国の敗戦という現実を認識して終戦工作を試みることのできる者は皆無で、最後の最後まで自国が生き残れるという幻想にしがみついていた。限りある手段で際限なき目標を達することを目指したドイツと日本の戦争は破滅的な結末に終わった。そのような結果は、日本については予見できたが、ドイツについては必然ではなかった。敗戦の深刻さはドイツのほうが大きかった。
質量両面で世界に冠たる軍事力を誇り、勝利をもたらすうえで決定的となりえた利点をもちながらも、ドイツは敗北に追い込まれた。そして、国土の中枢地帯を敵軍に踏みにじられたうえで敗戦を味わったのみならず、国家が消滅したという点に照らしても、ドイツの敗北の程度の大きさを計ることができる。
著者は本書の最後で、次のように総括しています。私は、なるほど、もっともな指摘だと受けとめました。
ドイツがヨーロッパで、そして日本がアジア・太平洋で勝利したときに払うことになったであろう代償は、組織的大量殺人の企国にとどまらず、ヨーロッパ大陸とアジア大陸における物的・精神的・知的次元での奴隷化である。それに比べたら、このような害悪を阻止するために要した人的損失は、むしろ小さいものと考えられる。5700万人という死者は、忌まわしき害悪を世界から除去するための意味ある代償だった。
そうなんです。日本帝国主義(天皇と軍部)が勝利でもしていたら、世界はとんでもないことになっていたことでしょう。「聖戦」だったなんて、とんでもないことです。
クルスク大戦車戦、マーケット・ガーデン作戦、アルデンヌの戦いなどが当時の国際情勢と軍事力・指導力などを踏まえて総合的見地から論評されていて、理解を深めることができました。
下巻のみで450頁ほどもありますが、第二次大戦とは何だったのか、詳しく知りたい人には欠かせない本だと思います。
(2018年9月刊。4600円+税)

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