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ケーキの切れない非行少年たち

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 宮口 幸治 、 出版 新潮新書
非行少年のなかには、小学2年生くらいから勉強についていけなくなったという子どもが少なくない。彼らは簡単な足し算や引き算ができず、漢字が読めない。自己洞察が必要だといっても、そもそも、その力がない。反省以前の問題がある。非行化を防ぐためには、勉強への支援がとても大切だ。「ほめる」だけでは問題は解決しない。
朝の会で1日5分をつかってさまざまなトレーニングをすれば、子どもたちは十分に変わっていく可能性がある。非行少年たちは学ぶことに飢えている。認められることに飢えている。
今の社会では、対人スキルがトレーニングできる機会が確実に減っている。SNSの普及によって、直接、会話や電話をしなくても、指の動きだけで、瞬時に相手とコンタクトがとれる。
知的障害はIQが70未満とされているが、これは1970年代以降のもの。IQ70~84の、境界知能の子どもたちも少なくない。つまり、クラスで下から5人ほどは、かつての定義では知的障害に相当していた可能性がある。
知的障害をもつ人は、後先(あとさき)のことを考えて行動するのが苦手。これをやったらどうなるのか、あれをやったらどうなるのか、と想像するのが苦手なのだ。
ところが、知的ハンディをもった人たちは、ふだん生活している限りでは、ほとんど健常者と見分けがつかない。違いが出るのは、何か困ったことが生じた場合。
刑務所の新しい受刑者1万9363人のうち、3879人は知能指数に相当する能力検査(CAPAS)が69以下だった。つまり20%の受刑者は知的障害者の受け入れなくなり、故郷でホームレスの生活をしている。
著者は、児童精神神経科の医師。画用紙に丸いケーキを描いて3等分するよう非行少年たちに頼むと、公平な3等分とはかけはなれたものを描いた。その絵をうつした写真が紹介されていますが、本当に驚くべき事実です。
口先だけで非行少年に反省の言葉を言わせたり、反省文を書かせても意味はないのです。
(2019年9月刊・6刷。720円+税)

恐竜の世界史

カテゴリー:恐竜

(霧山昴)
著者 スティーブ・ブルサッテ 、 出版  みすず書房
福井県にある恐竜博物館は、遠くからはるばる行くだけの価値があります。
残念なことに、私はまだ天草の恐竜博物館には行っていません。ぜひ一度行ってみたいと思います。そして、北海道のムカワリュウの全身骨格復元の実物も拝みたいものです。
恐竜の本が出たとなれば、見逃すわけにはいきません。かの小林快次センセイ(北大教授)のおすみつきとあれば、これは読まなくてはいけません。
1億年以上も続いた恐竜の時代、地球上には一つの大陸、パンゲア大陸しかなかったというのを初めて認識しました。アフリカも南北アメリカ大陸も、みんなひとかたまりだった時期から恐竜はいたのです。もちろん、それらの大陸は、やがて離れていき、今のようになりました。
そして、気候と気温についても、今のような温暖な気候の下で恐竜がずっといたわけではないようなんです。ええっ、そ、そうだったの・・・、と驚いてしまいました。
さらに、今や新種の恐竜が週に1度のペースで発見されていて、毎年50種ずつ新しい恐竜が見つかっている。うっそー、うそでしょ。そう叫びたくなります。
エオラプトルなど初期の恐竜が活動していた2億4000万年前から2億3000万年前のころ、現在の諸大陸はなかった。あったのは、「超大陸」(パンゲア)と呼びひとつながりの広大な陸地。
そして、最初期の恐竜はサウナにすんでいたようなもの。三畳紀の地球は、現在よりはるかに暑かった。大気中の二酸化炭素濃度は今より高かった。
最初期の恐竜は、湿潤地帯に目立たないように引っ込んだ存在だった。負け犬と言ってよいほど。ところが、ジュラ紀になると恐竜は多様化し、多種多様な新種が次々に生まれていった。
肉食恐竜T・レックスは、速く走ることだけは出来なかった。なぜか・・・。そして、このT・レックスは世界的な恐竜ではなく、北アメリカ、その西部に限られていた。
鳥は、1億6000万年以上に及んだ恐竜の治世のなごりである。鳥は恐竜なのである。
恐竜の絶滅が唐突におきたことは、疑いようがない。1億年以上も繁栄を謳歌していた恐竜が、数千年間の、あっというまに絶滅してしまった。
小惑星は飛来しなければ、恐竜も絶滅しなかった。恐竜の帝国は滅びてしまったが、恐竜は鳥として今に生きながらえている。
いやあ、恐竜について知ると、胸がワクワクしてきます。
(2019年8月刊。3500円+税)

ある一生

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ローベルト・ゼーターラー 、 出版  新潮社
オーストリア、アルプスの山中に生きた、名もなき男の一生が淡々と描かれています。
第二次世界大戦が始まる前のアルプスの山中にロープウェーが建設され、著者もその作業員の一人になります。
やがて戦争が始まり、軍隊に志願して一度は不具の身体と年齢からはねられたのに、あとでは徴兵され、ロシア戦線に追いやられてソ連軍の捕虜生活も経験します。復員して故郷に帰ってくると仕事はなく、やむなく勝手知ったる山岳ガイドの仕事をしますが、寄る年波には勝てず、一人で山小屋で生活しているうちに「氷の女」に出会い、ついに天に召されるという一生です。
食堂の給仕係の女性にプロポーズして幸せな結婚生活も送るのですが、それもつかの間のこと。大雪崩に襲われ、妻は亡くなり、その後はずっと孤独に暮らすのでした。
一見すると救いようのない寂しい人生なのですが、いやいや人生は誰だって同じようなものではないのか、そう思わせるほどの筆力で、ぐいぐいと引きずりこまれてしまう、不思議な小説でした。
人生とは瞬間の積み重ねだ。本書を読み終えたとき、ひとりの男の一生をともに生きたという、ずっしりした手ごたえが残るという訳者(浅井晶子)のコメントは、まさしく同感でした。
(2019年6月刊。1700円+税)

パリ警視庁迷宮捜査班

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ソフィー・エナフ 、 出版  早川書房
いかにもフランスらしいエスプリのきいた警察小説です。フランスで15万部も売れた人気ミステリというのですが、なるほど、と思いました。
もう50年以上もフランス語を勉強している割には、ちっともうまく話せませんが、ともかく毎日、フランス語の勉強だけは続けています。毎朝のNHKラジオ講座と週1回の日仏学館通い、そして年に2回の仏検受験です。このところフランスに行っていませんが、フランスに行っていませんが、フランスには何回も行きました。駅やホテルそしてレストランで通用するくらいのフランス語は心配ありません。先日、東京でフランスの弁護士会との交流会があったようですが、そこで会話できる自信はまったくないのが残念です。
カぺスタン警視正は過剰発砲で停職6ヶ月となり、復職したばかりの女性。その下にとんでもない札付きの警察官が集められた。大酒飲み、ギャンブル狂、スピード狂、そして脚本家など・・・。その任務は長く迷宮入りとなっていた事件の再捜査。
部下たちは警察官といっても警部や警部補が多い。癖あるベテラン刑事たち。一見すると、無能であり、やる気のなさそうな、そして人づきあいの悪そうな警察官たちが、なんと、すこしずつ重要な手がかりを得て、一歩一歩、疑惑を解明して、真相へ迫っていきます。
フランスの警察署の雰囲気って、こんなものなのかな、きっと日本とは違うんだろうな・・・、そう思いながら、フランス式捜査の歩みを堪能できる警察小説でした。
(2019年5月刊。1800円+税)

中国戦線900日、424通の手紙

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 五味 民啓 、 出版  本の泉社
山梨県出身の著者が応召し、中国大陸の武漢三鎮攻略作戦に従軍していたとき、内地にいる妻や家族にあてた手紙424通のうちの半分ほどを紹介した貴重な本です。
中国大陸で従軍したのは1937年9月から翌1940年3月までで、著者は当時23歳から25歳でした。
著者は決して左翼思想の持ち主ではなかったのですが、軍部から疑われたため、思想教育として憲兵になるための教育を受けました。結果としては、それが幸いして上海では補助憲兵の仕事をしています。そのため生命が助かり、また内地への手紙もたくさん書けたようです。
戦場では仲間が次々に戦病死していきました。そして、戦場で負傷して入院生活を送ったあと、再び戦場に戻るのでした。
航空便を利用して内地と手紙を往復しているのには驚かされます。
ついに故郷に帰ってからは、村の若者を戦場へ送る兵事係をつとめます。どんなに苦しかったことでしょう。戦後は赤紙を配った家だと陰口(かげぐち)を立てられたとのこと。それでも、新生日本で推されて村長になったのでした。
村長になってから、戦前の戦場での悲惨な生活は家族にも話さなかったようです。
この大量の手紙は、著者の死後、ずいぶんたって発見されたものです。
出発前の手紙(1937年9月17日)。「必ずや天皇陛下の股肱(ここう)としての本分をまっとうしてまいります。戦友より一人でも余計敵をやっつけたいと願っています」
11月16日。「付近の土民を使って野菜などあつめて炊事します。土民は、たいていおとなしい者ですが、まだ、危険性もあります。毎日、2,3人で付近の部落の偵察を行い、怪しいものは銃殺や刺殺に処しています。土民は油断なりません。戦地に来て思うことは生命の尊さです。金をのこすとか名をのこすとかは第二の問題です。この世に生きているということが、どんなにありがたいことがわかりません」
10月11日。「中隊員は、わずか50人。残る140人は、戦死あるいは負傷、病気で倒れた。大隊の兵員は4分の1となった」
12月10日。「支那の大きな地から比べると、占領したのはわずかな場所。大敵の重要地を占領したにすぎない。現在、生命があるということが、一番の手柄であり、ありがたいこと。
新聞に『一番乗り』とか『決死隊』とあるのは、たいてい新聞記者のついて来る、勝味のある場所。新聞で伝えるのは、ほんの一部分であると思えば間違いない。私も決死隊に選ばれて三たび死線をこえた。みな戦死したなか、ただひとり生還したこともあった」
7月26日。「9月に一緒に出征した者で、病気や負傷で入院やら内地に帰るやらして、今は中隊の半数もいません」
9月15日。「200メートルの田圃を山の麓まで隊長にしたがって無我夢中で突進しているとき、もう少しで麓にたどりつくと思った瞬間、敵のチェッコ機関銃がバリバリ頭上にそそぎはじめ、『いけない』と思った瞬間、たちまち左足がヂーンといった感じで、そこから6尺ほどの崖下に落ちてしまい、左足がきかなくなった。そこへ戦友の青木衛生伍長がかけて来てホータイしてくれた。戦友は貫通だと喜んでくれた。弾丸が身体の中に入ったままだと治りにくく、ときには生命の危険すらあるからだ」
12月3日。「野菜がないので、兵隊は、たいてい脚気(かっけ)になっている」
1月21日。「慰安所と呼ぶ、一種内地の遊郭の少し程度の悪いくらいのものが開設された。戦友などは休日にワンサと出かけて一瞬の快楽に浮かれてくる。この女どもは、たいてい朝鮮人だ」
戦前の日本人青年のおかれていた厳しい軍隊生活のナマの姿の一端を知ることのできる貴重な本です。よくぞ公開していただきました。手紙の原本は山梨平和ミュージアムでみることができるとのことです。
(2019年5月刊。1800円+税)

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